フェッシュバッハ-ヴァイスコップ理論
湯川博士が中間子論第一論文の中で議論に使用した中性子と原子核の衝突断面積に対するボナーの実験結果は、その後の研究に照らして、どの程度の信頼性があるかを簡単な方法で考えてみたい(ボナーの実験については、先に解説した [1])。
ボナーの実験に使われた中性子の平均速度は 1.3×109、2×109、 3×109 cm/s の3通りであった。これらの速度は、中性子の運動のエネルギーに直すと、0.88、2.1、4.7 MeV になる。エネルギーが 0.5 ~10 MeV の中性子は速中性子と呼ばれるので、ボナーの実験領域は、速中性子領域内に該当する。
速中性子の原子核との衝突断面積については、1949年にフェッシュバッハとヴァイスコップが理論を発表している [2]。それによれば、λ/(2π) << R (λはドブロイ波長、R は標的原子核の半径)のとき、中性子に対する吸収断面積σabs と散乱断面積σsc は、どちらも次の値に近づく。
σabs = σsc = π[R + λ/(2π)]2 (1)
したがって、高エネルギー中性子に対する全断面積σt は、漸近近似として次のようになる([3], p. 283; [4], p. 456)。
σt = σabs + σsc = 2π[R + λ/(2π)]2 (2)
フェッシュバッハ-ヴァイスコップ理論は、Fe、Ni、Ag、Pb についてバーシャルらが1948年に発表した実験 [5] とかなりよく一致している([3], pp. 284, 285; [4], p. 455)。したがって、 (2) 式が示す断面積とボナーの実験結果を比較すれば、ボナーの実験が、より新しい知見と比較してどうであるかが、おおよそ分かる。
λ/(2π) は中性子エネルギー E を使って、また、原子核の半径は原子核の質量数 A を使って、それぞれ (3)、(4) 式ように表わされる ([4], pp. 456, 457)。
λ/(2π) = 4.55 × 10-13/[E (MeV)]1/2 cm (3)
R = 1.4 × 10-13A1/3 cm (4)
これらの式を (2) 式に代入して、ボナーの実験したエネルギー範囲で、彼が使用した標的原子核 H、C、Pb に対する断面積の漸近理論値を求めた結果を Figure 1 に示す。正確な理論値はこの図の低エネルギー側で漸近理論値よりもやや小さくなる([3], p. 282)が、大体の傾向を見るには、この近似で十分であろう。Figure 2 は同じスケールでボナーの実験結果をプロットしたものである。
結 論
二つの図を比較すると、ボナーの実験結果は、 H についてはその後の知見とかなりよく一致しているが、C と Pb については絶対値が小さ過ぎ、さらに Pb についてはエネルギー依存性の傾向も異なっている。
この比較から、ボナーの実験で見出された断面積の傾向、したがってまた、湯川博士のそれについての議論は、真剣に受けとめる必要はないと考えられる。
ボナーの実験は、1932年に中性子が発見されて間もなくの1934年に行われた先駆的なものだったが、それだけに、実験方法が不備だったと思われる。さらに、湯川博士の議論は、原子核と衝突した中性子が中間子を媒介として陽子に変わり、それが再度中間子を媒介として中性子に変わるという2段階過程を中性子散乱の主要過程と考えたものであるが、実験で測定される全断面積は、必ずしもこのような過程のみが寄与しているものではない。そのようなことが分かってきたのは、中間子論が発表されてからいくらか後のことだったのであろう。
付:影散乱
(2) 式は、全断面積が、原子核と波動性によって広がった中性子を合わせた幾何学的断面積の2倍であることを示している。全断面積が幾何学的断面積より大きくなる理由は、幾何学的断面積内に入射する以外の中性子が干渉効果によって散乱することにある。この散乱は、原子核の後方で入射中性子波が R2/[λ/(2π)] 程度あるいはそれ以上の長さの影を作ることに対応しており、影散乱と呼ばれる([4], p. 458; [6], p. 324)。
中性子・原子核衝突においての影散乱は、大阪大学の菊池正士と若槻哲雄が実験によって発見した。その実験は中性子の波動性を示す最初のものとして注目され、ベーテらによって解析された。また、後に原子核の光学模型として展開する重要な概念の原点でもあった [7]。
文 献
- 中間子第1論文が論じたボナーの実験, Ted's Coffeehouse 2 (2007年10月5日).
- H. Feshbach and V. F. Weisskopf, Phys. Rev. 76, 1550 (1949).
- E. Segrè, ed., Experimenatal Nuclear Physics Vol. 2 (John Wiley & Sons, 1953).
- R. D. Evans, The Atomic Nucleus (McGraw-Hill, 1955; reprint edition, Tata McGraw-Hill, 1976).
- H. H. Barshall, C. K. Bockelman and L. W. Seagondollar, Phys. Rev. 73, 659 (1948)
- J. M. Blatt and V. F. Weisskopf, Theoretical Nuclear Physics (John Wiley & Sons, 1952; Dover edition, 1991).
- 中井浩二, 原子核科学の半世紀:廃虚の日本から繁栄の日まで (1999).
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