2007年11月26日月曜日

湯川博士の核廃絶運動の根源

 新着の『日本の科学者』誌に「原水爆禁止2007年世界大会・科学者集会の記録」という記事がある [1]。その中に、愛知大・日本物理学会会長(集会当時)坂東昌子さんの報告要旨があり、湯川博士の核廃絶運動について次のように述べている。

 湯川博士の核廃絶への運動は、アインシュタインとの出会いと、水爆実験の脅威に起源があると言われるが、彼の研究と同じ「湯川精神」に根源があるように思える。近代物理学の台頭期に、彼は、権威も立場も年齢も超えて、世界中の科学者と連帯している。彼は学問分野でも、コスモポリタンで、ノーベル賞受賞記念で設立した基礎物理学研究所では、物理学に限らず当時の新しい学問分野を積極的に後押ししている。(…中略…)彼は、研究対象を生物、天体、情報へと広げ、さらに戦争の科学に広げようとしたのだろう。(…以下略…)。

 私は、湯川博士の平和運動の構想は彼の物理学理論の構想と共通性があると思い、「湯川秀樹を研究する市民の会」の例会でそういうふうに述べたことがある。博士のノーベル賞受賞対象となった中間子論第1論文には、当時知られていた素粒子の間に働く相互作用について全面的に考察するという徹底した態度が現れており、博士の平和運動も核兵器を全面的に廃止しようというものであった。坂東さんの見方は私の考えに似ているが、彼女はもう一歩突っ込んで、博士の平和運動と研究の「根源が同一」、すなわち、平和運動もある意味では「研究の一環」であったと見ているのである。

文献

  1. 深尾正之, 日本の科学者, Vol. 42, p. 674 (2007).

2007年11月25日日曜日

憲法学者・鈴木安蔵

 昨11月24日の午後、なかもず じばしんホールで、映画「日本の青空」堺上映実行委員会が開催した上映会に参加した。同映画は、監督=大澤豊、企画・製作=「日本の青空」政策委員会・有限会社インディーズの作品である。雑誌編集部の派遣社員・沙也可(田丸麻紀)が、特集企画「日本国憲法誕生の原点を問う!」のため、憲法学者・鈴木安蔵(高橋和也)の取材を行うという形で映画は展開する。

 鈴木安蔵(1904~83)は、さまざまな国の憲法や明治の自由民権憲法案に精通していた憲法学者で、民間の「憲法研究会」案を通して、日本人の心にかなった日本国憲法の基礎を作り上げた中心人物である。憲法公布直後に、憲法普及会の理事を務め、のちに大学で憲法学の教鞭をとり、日本国憲法の普及に尽力している。

 敗戦の年である1945年の10月25日、政府は憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置したが、民間では、いち早く、鈴木安蔵、高野岩三郎、岩淵辰雄、室伏高信、森戸辰男、杉本幸次郎らによる「憲法研究会」が11月5日に発足し、12月26日までに6回の会合をもった。そして、12月26日に同会は「憲法草案要綱」を GHQ と政府に提出し、28日に各新聞が一面で草稿内容を報道した。1946年1月11日、GHQ 民政局法規課長ラウレル陸軍中佐が「憲法研究会」案を「民主主義的で賛成できる」と高く評価する所見を民政局局長と連名で総司令部に提出し、同案が GHQ 案に反映されることになったのである。(以上、上映会のちらしを参考にした。)

 このような、日本国憲法誕生の真相を知れば、改憲論者たちの「アメリカから押しつけられた憲法」との見方が無根拠であることがはっきりする。憲法問題を考える上で、多くの日本国民に見て貰いたい映画である。

 追記:同じ11月24日、東京・日本教育会館で「九条の会第2回全国交流集会」が開かれ、北海道から沖縄まで47都道府県、520の「九条の会」から1020人の参加があったそうである。なお、全国の「九条の会」は24日現在で、6801を数えているということである。(九条の会オフィシャルサイトによる。)

2007年11月23日金曜日

発言はいつも会議の終りの方

 先にもいくつかの湯川関連随筆を物理学会誌などに書かれた法橋登氏から、『大学の物理教育』 Vol. 13 p. 160 (2007) に新しい随筆「サラムの湯川観」を発表したとのメールがあり、その原稿のPDFファイルを貰った。以下にその概略を紹介する。




 法橋氏が1976年に早川幸男先生の紹介で、トリエステにある国際理論物理学センターの所長をしていたアブダス・サラム(1926-1996;パキスタンの理論物理学者。弱い相互作用と電磁相互作用を統一的にあつかうワインバーグ-サラム理論をワインバーグと独立に提唱し、1979年ノーベル物理学賞受賞)を訪れたとき、サラムから、「西洋の科学者の発言は会議の前半に多いが、湯川の発言はいつも会議の終りの方だ。どうしてか」と尋ねられた。

 氏は「前半の議論は分析的、後半は総合的」「湯川は会議の流れの中で理想を話す機会を待っていたのだと思う」「自我が対決する討論によって歴史を進めてきた西洋と、脳全体の共感が得られる機会を待つ東洋の文化の違いもあるのではないか」などと答えた。サラムはこれに対して、「文化伝統が違うのにハイゼンベルクは湯川と同じタイプで、西洋では例外だ。東洋でも中国の物理学者は現実的であり、湯川は別だ」と語ったそうである。

 法橋氏はさらに、フリーマン・ダイソンが米国物理教育誌 [Am. J. Phys. Vol. 58,p. 209, (1990)] において、湯川とハイゼンベルクを「理論の成功より深さを求める思索者」と呼んだことを引き合いに出し、「イスラム教徒であるサラムにとっても、湯川とハイゼンベルクは文化伝統や専門分野を超えた、特別な全人的存在として印象に残ったのだろう」と述べている。

 氏の答えに「自我」と「脳」が出てくるのは、そのとき国際理論物理学センターで、科学哲学者ポパーと大脳神経生理学者エクルスの討論録 "Self and Its Brain" (Springer, 1976: 和訳 = 大村裕, 西脇与作, 沢田充共訳『自我と脳』新思索社)が話題になっていたことによる。




 法橋氏の文の紹介は以上であるが、私には、湯川博士がいつも会議の終りの方で発言した理由の中にはもうひとつ、博士の控え目な性格もあったのではないかと思われる。不肖私にも、他の人もいいそうなことは自分ではいわないで聞いていて、誰もいわなかった重要なことがあれば、初めて発言するという傾向がある。

 湯川博士の控え目な性格については、アブラハム・パイスもその著書 [1] 中でふれている。そこには、博士の自伝『旅人』にある、博士自身の講義についての「声もやさしく子守歌のようで、とくにどこを強調するでもなく、すらすらと進み、眠りを誘うにもってこいであった」(武谷三男による)とか、「[声が小さかったうえに、]黒板の方を向いてしゃべるので、よけいに聞きとりにくかった」(小林稔による)という印象が引用されていて、「これらの記述は私自身の見たところとも一致し、これは湯川の内気さよりも控え目であることによるものと思う」と記されている。また、パイスは、『旅人』の終り近くにある「私は孤独な人間である。そして我執の強い人間である」という湯川博士の自己批評は、実に正確だと思うとも書いている。

  1. A. Pais, "Inward Bound" (Clarendon Press, 1986) p. 429.

2007年11月15日木曜日

クラシック・ギター・コンサート

 昨11月14日、松田晃演(まつだ あきのぶ)氏によるクラシック・ギター・コンサートの招待状を貰っていたので、妻と聞きに出かけた。招待状を貰ったのは、姫路市に住む親友A氏が近年、同じく同市に住む松田氏と親しくなっていた関係によるが、つい先日、私も松田氏と SNS "mixi" で友人関係を結ぶに至ったところである。

 A氏夫妻と、その夜ともに宿泊する予定の三宮ターミナルホテルで午後4時に落ち合い、同ホテルの11階で、A氏得意の聖書の話などに耳を傾けながら(A氏の「聖書が描く無限の命を含む宇宙とは、物理学的にはどういうものだろうか」という意味の質問に応えて、私は多世界仮説などについて簡単に述べた)、早めの夕食をすませ、6時頃に会場へ向かった。会場はJR神戸駅近くの、神戸市産業振興センター・リサイタルホールである。

 コンサートは「アンドレス・セゴビア没後20周年記念」となっていた。セゴビア(Andrés Segovia, 1893-1987)は、現代クラシック・ギター奏法の父といわれるスペインのギタリストである。松田氏は、セゴビアの遺産を引き継ぎ発展させるために尽力している多くの門人たちの中でも、有名な一人に数えられている。コンサートのプログラムは「古典派」「『献呈』をテーマに」「スペインの曲集」の三部構成になっていた。

 第一部のあと、一つ前の最前列中央に陣取っていたA氏の知人で姫路でコーヒー店を営むY氏夫妻が、親切にもA氏と私に席を譲ってくれたので、第二部と第三部は最上等席で演奏を堪能することになった。会場の舞台は低めでもあった。そこで、アントニオ・デ・トーレスが1894年に製作したという松田氏愛用の名器が、すぐ近くの、私の目や耳とほとんど同じ高さのところで巧みに奏でられるのを聞くという、まさに至福の時間を味わうことができた。

 第二部には、特にセゴビア没後20周年を記念する曲が集められたのであろう。マリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコ作曲の「先生への捧げもの」、セゴビアの「祈り(ポンセの魂の為に)」、そして再びテデスコの「ボッケリーニ讃歌より」の三曲が演奏された。テデスコ(Mario Castelnuovo-Tedesco, 1895-1968)はイタリアの作曲家で、1932年にセゴビアと出会ったことをきっかけとして、20世紀のギター音楽作曲の大家という名声を得るに至ったそうである。「先生への捧げもの」の曲は、ゴヤの版画集『ロス・カプリッチョス』中の同題名の作品をテデスコが見た印象を音楽にしたものだという。

 美しい絵が音楽を生みだすのに似て、美しい音楽とその優れた演奏は、物理学上の美しい方程式を連想させもする。私は松田氏の演奏を聞きながら、湯川博士のノーベル賞受賞論文に登場する次の方程式を、何度も頭に浮かべさせられた。

   (□-λ) U = 0

「□」はダランベルシャンといって、時空を記述する四つの座標 x、y、z、ict のそれぞれによる2階微分を足しあわせた演算子を表わしている。

 この「□」をサウンドホールとして、( ) の部分がボディに、=がネックに、0 がヘッドに相当し、式の視覚的な形がクラシック・ギターに似ているという事実だけに、私の連想はとどまるのではない(この類似は、むしろコンサートのあとで気づいたものである)。この方程式は、電磁場を表わす方程式の相対論的表現の第4成分にλの項を入れたに過ぎないにもかかわらず、核力の働き具合を表わす、いわゆるユカワ・ポテンシャルという関数を導くもとになり、さらに、未知であった中間子の質量が電子の質量の約200倍という予想をも可能にし、素粒子物理学の始まりを画したという、深い意義と美しさを持っている。

 松田氏によるクラシック・ギターの名演奏と、管弦楽団による交響曲の演奏との関係は、湯川博士の方程式と、最近の100名を超える共著者たちによる素粒子実験の論文との関係にも似ている。二つの関係においての、それぞれの後者にも、もちろん特有の美や意義はあるのだが、それぞれの前者には、比較的単純な中に無限に奥深い美や意義が秘められているという共通性を、私はこのコンサートから感じ取ったのである。

 コンサート後、ホテルオークラにおいて、A氏から松田氏夫妻に引き合わせて貰い、コーヒーを飲みながら歓談するという、楽しいひとときを思いがけなく持つこともできた。松田氏は、コンサートのちらしの写真で想像していたよりも優しい感じの方であった。氏の座右の銘は「尽善尽美」だそうである。