先にもいくつかの湯川関連随筆を物理学会誌などに書かれた法橋登氏から、『大学の物理教育』 Vol. 13 p. 160 (2007) に新しい随筆「サラムの湯川観」を発表したとのメールがあり、その原稿のPDFファイルを貰った。以下にその概略を紹介する。
法橋氏が1976年に早川幸男先生の紹介で、トリエステにある国際理論物理学センターの所長をしていたアブダス・サラム(1926-1996;パキスタンの理論物理学者。弱い相互作用と電磁相互作用を統一的にあつかうワインバーグ-サラム理論をワインバーグと独立に提唱し、1979年ノーベル物理学賞受賞)を訪れたとき、サラムから、「西洋の科学者の発言は会議の前半に多いが、湯川の発言はいつも会議の終りの方だ。どうしてか」と尋ねられた。
氏は「前半の議論は分析的、後半は総合的」「湯川は会議の流れの中で理想を話す機会を待っていたのだと思う」「自我が対決する討論によって歴史を進めてきた西洋と、脳全体の共感が得られる機会を待つ東洋の文化の違いもあるのではないか」などと答えた。サラムはこれに対して、「文化伝統が違うのにハイゼンベルクは湯川と同じタイプで、西洋では例外だ。東洋でも中国の物理学者は現実的であり、湯川は別だ」と語ったそうである。
法橋氏はさらに、フリーマン・ダイソンが米国物理教育誌 [Am. J. Phys. Vol. 58,p. 209, (1990)] において、湯川とハイゼンベルクを「理論の成功より深さを求める思索者」と呼んだことを引き合いに出し、「イスラム教徒であるサラムにとっても、湯川とハイゼンベルクは文化伝統や専門分野を超えた、特別な全人的存在として印象に残ったのだろう」と述べている。
氏の答えに「自我」と「脳」が出てくるのは、そのとき国際理論物理学センターで、科学哲学者ポパーと大脳神経生理学者エクルスの討論録 "Self and Its Brain" (Springer, 1976: 和訳 = 大村裕, 西脇与作, 沢田充共訳『自我と脳』新思索社)が話題になっていたことによる。
法橋氏の文の紹介は以上であるが、私には、湯川博士がいつも会議の終りの方で発言した理由の中にはもうひとつ、博士の控え目な性格もあったのではないかと思われる。不肖私にも、他の人もいいそうなことは自分ではいわないで聞いていて、誰もいわなかった重要なことがあれば、初めて発言するという傾向がある。
湯川博士の控え目な性格については、アブラハム・パイスもその著書 [1] 中でふれている。そこには、博士の自伝『旅人』にある、博士自身の講義についての「声もやさしく子守歌のようで、とくにどこを強調するでもなく、すらすらと進み、眠りを誘うにもってこいであった」(武谷三男による)とか、「[声が小さかったうえに、]黒板の方を向いてしゃべるので、よけいに聞きとりにくかった」(小林稔による)という印象が引用されていて、「これらの記述は私自身の見たところとも一致し、これは湯川の内気さよりも控え目であることによるものと思う」と記されている。また、パイスは、『旅人』の終り近くにある「私は孤独な人間である。そして我執の強い人間である」という湯川博士の自己批評は、実に正確だと思うとも書いている。
A. Pais, "Inward Bound" (Clarendon Press, 1986) p. 429.