小説家・文芸評論家の竹西寛子は最近の著書の中で、文学上、後世に残る大きなことをした人の多くに共通して見られる仕事のスタイルについて触れている [1]。まず、それ以前の文学への「反抗」があるが、それは単なる反抗でなく、それまでの文化遺産を学んだ上で、新しい表現を生んでいる、という。彼女が紫式部、芭蕉、蕪村などを研究して得た教訓である。
これは、科学上の大きな仕事をした人たちの場合にも、そっくり当てはまるであろう。反抗というと語弊があるかもしれないが、過去の成果の一部に疑問を抱き、しかも、それ以外の過去の遺産からは大いに学んで、新しいものを生み出すという過程は、たとえば、湯川博士の中間子論の構築においても、はっきりと見られる。
湯川の取り組みは、彼が大学を出て間もない1932年に抱いた決心に始まった。その決心は、量子力学の創設等の業績に対してこの年にノーベル賞を受賞することになる大物理学者・ハイゼンベルクが先行して発表した、陽子・中性子の結びつきの理論の難点(電子を交換するというハイゼンベルクの考えでは、電子のスピンと統計という性質から無理があるという疑問)を解決して、核力の本質を究めようというものであった。
そして湯川は、電磁場の理論からの類推で得た方程式によって、核力のポテンシャルを求め、また、その方程式中の微分演算子に量子力学の関係式を代入した結果をエネルギーと運動量についての相対性理論の関係式と比較することから、未知の粒子・中間子の質量を推定した。ここには、電磁場の理論、量子力学、相対性理論という過去の大きな遺産の巧みで徹底した活用がある。
竹西はまた、「表現の世界における新しさは、究極的には、宇宙との関係を新しくして行くことではないか」「ものの見方を変えないことには、新しさはないのではないか」とも述べている [2]。これらの表現も、説明するまでもなく、科学の世界における新しい発見と相通じるものがあるといえよう。
- 竹西寛子, 言葉を恃む, p. 34, 旅の詩人、松尾芭蕉 (岩波, 2008).
- 同上, p. 57, 定型の器.
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