2015年3月13日金曜日

兄の半ズボン (My brother's Short Pants)

[The main text of this post is in Japanese only.]


ジンチョウゲ。わが家の庭で、2015 年 3 月 2 日。
Winter daphne; taken in my yard on March 2, 2015.

兄の半ズボン

 明 3 月 14 日から北陸新幹線の長野・金沢間が開業するので、私の郷里・金沢が最近何かと TV で取り上げられている。さる 10 日には、NHK BS プレミアムの番組『世界ふれあい街あるき』が金沢を扱っているのを見た。金沢出身の俳優・鹿賀丈史氏が案内していて、彼の出身校である材木町小学校も訪れていた。私は幼時に、その近くに 2 年ほど住んでいたのである。町名は又五郎町といったが、現在は材木町に編入されている。

 わが家が小立野台地からそこへ引っ越した理由を、今まで知らなかった。考えてみると、私より 6 歳上の兄が、小立野にあった石引小学校から、担任の先生の勧めで女子師範付属小学校へ転校したため、通学に便利なところへ移ったのだったらしい。ところが、兄は転校早々の遠足の際に風邪を引き、それが肺炎になって死亡した。したがって、私が兄の後について、「勝って来るぞと勇ましく…」という軍歌を歌いながら、こたつの周りを行進して遊んでいた記憶(自らの記憶というよりも、母にいわれて、それが記憶の形になったのかもしれない)は、小立野の家の時代のものだっただろう。

 兄についての私の記憶はもう一つある。眠っていた私がふと目をさますと、兄がそばでズボンをはき替えていた。それを見て「大きなズボンだなぁ」と思った記憶である。それは、当時(日中戦争時代から太平洋戦争時代にかけて)の児童・生徒がみな着用していた黄土色[「国防色(こくぼうしょく)」と呼んだ]の半ズボンだった。この記憶は、又五郎町時代のものかもしれない。

 私が小学校 6 年のときまで使っていたのは、多分、その兄の半ズボンだっただろう。3 年生までしか生きていなかった兄のお古の半ズボンは、6 年生の私には短かったのだが、母に勧められて、冬の寒い日々に内側に重ねてはいていたのである。ひょっとすると、5 年生の 3 学期の寒い時期に大連から引き揚げるときにも、そのような使い方をして、帰国したのだったかもしれない。太平洋戦争時代になってから私のために買って貰った半ズボンは、質が悪くて、一枚では寒さをしのげなかったのだろう。

 6 年生の冬の初めに学校で身体検査があった。検査を終えてクラスの一同が席についていた時、担任の男性の先生が、「保健室に誰かがズボンを忘れて行ったようだ」といって、黄土色があせた半ズボンを持ち上げて一同に見せ、「忘れた者はおらんか?」と尋ねられた。私は、自分が内側に重ねてはいていたのを、はき忘れた来たことに気づいた。クラスの一同、とくに女児たちは、「ズボンを忘れた?」といって、不思議がったり、面白がったりしている。ズボンを忘れたならば、普通は、下半身がアンダーパンツ姿で教室へ戻ってきたことになり、あり得ないような光景である。私は、外側用の半ズボンをはいていたものの、忘れ物を受け取りに出るのが恥ずかしくて、素知らぬ顔をしていた。先生は、「忘れた者は、後で持って行け」といって、その半ズボンを教室の後部にあった本棚に置いて、授業を始められた。

 大きな忘れ物だったから、私は家へ帰ってから母には報告したに違いない。しかし、教室の本棚から自分で半ズボンを持ち帰った記憶はない。それが何日間も本棚にあった記憶はある。母が父兄会の折にでも、先生に話して持ち帰ったのだっただろうか。

 軍歌を歌って遊んだ兄であるが、小学校低学年ですでに、兵隊になることを嫌っていたようだ。母から聞いたところによれば、兄自身はダットサン(当時の小型自家用車)を乗り回して大学の先生になるといい、私に兵隊になれといっていたという。それで、私が兄と遊んでいて、自分の名乗りをあげるようなときに、「タイ・タバ・タツ」といっていたが、「タイ」は兵隊のタイだろうと、母はいった。しかし私は、「タバ・タツ」が姓・名の上部からとられているのだから、「タイ」は大将のタイだったに違いないと思っている。それはともかく、私は図らずも、兄自身の望みの半分だけを代わって実現した。そして、兄の嫌った兵隊が、憲法9条改悪によって、この国に再び生まれないことを切に望んでいる。

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