子供向け図画手本書の一ページ、石井柏亭・画「明治神宮外苑」。
A page of a painting and drawing manual for children, showing the watercolor "The Gaien of Meiji Shrine" by Hakutei Ishii.
敗戦後、大連から引き上げる際には、手に持てる程度の物しか日本へ持ち帰ることが出来なかった。大人たちは布団袋に布団やわずかの台所用品などをつめて、転がしながら運びもしたが。当時小学校5年生だった私自身が運ぶ荷物の中へ選んで入れた品物の中には、父の遺品の小型の国語辞書や英和辞書があった。ほかに、自分が描いた絵や子供向けの図画手本書(題名不詳)を分解して選んだ 6 枚もあった。これらを選んだのは、私が幼少の頃から絵を描くことが好きだったからである。
図画手本書を分解して一部分だけを持ち帰った理由は、荷物を軽くするためでもあったが、軍国主義的な絵が混じっていると、埠頭での旧ソ連兵の検閲で没収される恐れがあったためでもある。実際、持ち帰った中の一ページには、持ち帰らなかった隣のページの絵の説明として、「 左のページ——りっぱな聯隊旗を捧げて、春の野を行く勇ましい兵隊。あかい聯隊旗と、みどりの草のとりあはせ[注:旧仮名づかいのまま]が、じつに美しいではありませんか」というのがある。
父の遺品の 2 冊の辞書は 20 年近く前に処分してしまったが、自分の絵と絵の手本はまだ残してある。手本の絵の一枚は、「明治神宮外苑」と題する水彩画で、描いたのは石井柏亭(1882–1958)という画家である(上掲のイメージ。画家の没年からみて、著作権保護期限は切れており、このイメージを掲載した)。左下に「(自習画帖 5 より)」という引用記載があることから、亡き兄のお下がりとして私が持っていた本自体は、幼年向け雑誌の付録程度のものだっただろうと推測している。
さる 3 月 10 日、芸能人らが俳句、生花、盛り付けなどの優劣を競う毎日テレビのバラエティ番組『プレバト!!』に、スケッチの課題があり、一人の芸能人の描いたのが「聖徳記念絵画館」だった。それをたまたま見ていた私は、この建物こそ、私が持ち帰った絵の手本中に描かれていて、長年どういう建物だろうかと思っていたものに違いないと思い、その手本を取り出してみた。「明治神宮外苑」という題名も石井柏亭という画家名も忘れていたが、その絵の左前方に見えるのは、まさに聖徳記念絵画館としてスケッチされたものと同じである。美術館風の建物だとは思っていたが、その通りで、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的に貴重な絵画を展示しているとのことである(『ウィキペディア』の「聖徳記念絵画館」による)。私が定年退職後の一つの趣味として水彩画に取り組み始めて、2番目に京都市美術館を描いたのも、この石井柏亭の絵が脳裏にあったことが影響している(下掲のイメージ)。
私が石井柏亭の「明治神宮外苑」を脳裏で参考にしながら描いた「京都市美術館」。
"Kyoto Municipal Museum of Art" I painted with the image of Hakutei Ishii's "The Gaien of Meiji Shrine" in mind.
石井柏亭については、インターネット上にいくつも解説等があるが、『千葉の県立美術館デジタルミュージアム』サイトの石井柏亭のページでは、略歴のほか、収蔵作品として、油彩画 6 点・水彩画 7 点・木版画 3 点も解説付きで見ることが出来る。
なお、大連の小学校同期生 S・Y さんは画家なので、石井柏亭を知っているに違いないと思い、私がこういうものを引揚げ時に持ち帰っていたという話をメールで伝えた。すると、彼女は石井柏亭を単に過去の著名な画家の一人として知っているどころでなく、次のような話が返ってきた。東京の跡見女学校[注:明治期に開校した東京で最も古い女子教育校で、女学生たちがハイカラだったことで知られる(『ウィキペディア』の「学校法人跡見学園」と同法人のホームページを参考にした)]へ人力車で通っていた彼女の大叔母君が石井画伯のモデルとなり、その絵は婦人雑誌に掲載されたということである。また、その原画である夢二風の乙女像の額が大叔母君の家の座敷に飾られていたが、S・Y さん一家は引揚げ後しばらくその家で世話になったので、石井画伯の名は懐かしい思い出につながるそうである。
図画手本書を分解して一部分だけを持ち帰った理由は、荷物を軽くするためでもあったが、軍国主義的な絵が混じっていると、埠頭での旧ソ連兵の検閲で没収される恐れがあったためでもある。実際、持ち帰った中の一ページには、持ち帰らなかった隣のページの絵の説明として、「 左のページ——りっぱな聯隊旗を捧げて、春の野を行く勇ましい兵隊。あかい聯隊旗と、みどりの草のとりあはせ[注:旧仮名づかいのまま]が、じつに美しいではありませんか」というのがある。
父の遺品の 2 冊の辞書は 20 年近く前に処分してしまったが、自分の絵と絵の手本はまだ残してある。手本の絵の一枚は、「明治神宮外苑」と題する水彩画で、描いたのは石井柏亭(1882–1958)という画家である(上掲のイメージ。画家の没年からみて、著作権保護期限は切れており、このイメージを掲載した)。左下に「(自習画帖 5 より)」という引用記載があることから、亡き兄のお下がりとして私が持っていた本自体は、幼年向け雑誌の付録程度のものだっただろうと推測している。
さる 3 月 10 日、芸能人らが俳句、生花、盛り付けなどの優劣を競う毎日テレビのバラエティ番組『プレバト!!』に、スケッチの課題があり、一人の芸能人の描いたのが「聖徳記念絵画館」だった。それをたまたま見ていた私は、この建物こそ、私が持ち帰った絵の手本中に描かれていて、長年どういう建物だろうかと思っていたものに違いないと思い、その手本を取り出してみた。「明治神宮外苑」という題名も石井柏亭という画家名も忘れていたが、その絵の左前方に見えるのは、まさに聖徳記念絵画館としてスケッチされたものと同じである。美術館風の建物だとは思っていたが、その通りで、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的に貴重な絵画を展示しているとのことである(『ウィキペディア』の「聖徳記念絵画館」による)。私が定年退職後の一つの趣味として水彩画に取り組み始めて、2番目に京都市美術館を描いたのも、この石井柏亭の絵が脳裏にあったことが影響している(下掲のイメージ)。
私が石井柏亭の「明治神宮外苑」を脳裏で参考にしながら描いた「京都市美術館」。
"Kyoto Municipal Museum of Art" I painted with the image of Hakutei Ishii's "The Gaien of Meiji Shrine" in mind.
石井柏亭については、インターネット上にいくつも解説等があるが、『千葉の県立美術館デジタルミュージアム』サイトの石井柏亭のページでは、略歴のほか、収蔵作品として、油彩画 6 点・水彩画 7 点・木版画 3 点も解説付きで見ることが出来る。
なお、大連の小学校同期生 S・Y さんは画家なので、石井柏亭を知っているに違いないと思い、私がこういうものを引揚げ時に持ち帰っていたという話をメールで伝えた。すると、彼女は石井柏亭を単に過去の著名な画家の一人として知っているどころでなく、次のような話が返ってきた。東京の跡見女学校[注:明治期に開校した東京で最も古い女子教育校で、女学生たちがハイカラだったことで知られる(『ウィキペディア』の「学校法人跡見学園」と同法人のホームページを参考にした)]へ人力車で通っていた彼女の大叔母君が石井画伯のモデルとなり、その絵は婦人雑誌に掲載されたということである。また、その原画である夢二風の乙女像の額が大叔母君の家の座敷に飾られていたが、S・Y さん一家は引揚げ後しばらくその家で世話になったので、石井画伯の名は懐かしい思い出につながるそうである。
子ども向けとはいえなかなか本格的なお手本が掲載されていたのですね。いつも優しい風合いで穏やかな時が流れるような絵を描かれるTedさんのルーツとも言える1冊ということでしょうか。石井画伯とご友人の思い出のお話もとても素敵です。
返信削除私はまだ母は健在なので遺品ではありませんが、彼女の学生時代に使っていた小型の漢和辞典を譲ってもらい、時々本棚から取り出しながら当時の母を想像してみたりします。裏表紙に私には今の母の筆跡とは違う角ばった書体で彼女の旧姓名が書かれているのを初めて見た時には、何かすごい宝物でも見つけたかのような気持ちになったのを覚えています。
布団袋懐かしいです。進学で一人暮らしをするようになってからは、引っ越しの際は一人用の寝具セットが入っているビニールのケースを利用するようになったので使わなくなってしまいましたが、父の仕事の都合で引越しをする際に、いつも母と一緒に布団袋に布団を詰め込んでいました。詰め込んだ後で布団袋に乗って遊んで母に叱られたのもいい思い出です。
Suzu-pon さん、コメントと、すてきな思い出話をいただき、まことにありがとうございました。
返信削除私が父を亡くして母と大連の祖父のもとへ移る前まで、小学校各学年向けの絵の手本書が家にありました。私の覚えている頃の父は旧制中学勤務で主に数学を教えていましたが、就職当初は小学校で教えていたそうですし、母も結婚前に小学校教員でしたから、両親のどちらかが必要があって買ったものかと思っています。私はそれらの手本書もよく眺めていましたから、私の絵のさらなるルーツはその辺りかもしれません。