2016年5月5日木曜日

幼少年時代の絵 1 (Drawings in My Childhood. 1)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『起き上がり小法師』(1943 年、8 歳)。
"Okiagari-koboshi (self-righting Dharma doll)," (1943, age 8). It was during the 2nd World War, and we could not get drawing paper. This picture was drawn on the back of a used letter sheet.


『加藤清正の虎狩り』(1943 年頃、幼年雑誌中の絵の模写)。
"Katō Kiyomasa hunting a tiger," drawn after a picture in a children's magazine (around 1943).

 先の記事に、大連からの引揚げ時に持ち帰った絵の手本のことを書いた。その続きとして、同時に持ち帰った私の子供の頃の絵と、引揚げ後の小・中学生時代の絵で、いまだに残っているものを紹介したい。掲載する絵の一部はホームページを作成したばかりの頃、英文の簡単な説明を添えて、そこに掲載したが、当時のホームページ・サービスは容量が小さかったので、その後削除してしまった。今回の掲載にあたっては、改めて原画を写真に撮り直すことにした。紙が変色していたり、シミや汚れが生じていたりしているものが多く、再生にはいくらか苦労を要している。また、今回は、それぞれの絵にまつわる若干の思い出も和文で記すことにする。

 初回に掲載する 1 枚目の絵は、石川県七尾市の小学校(当時は国民学校と呼ばれた)で、2 年生の時に描いたものである。実物の「起き上がり小法師」を見ての写生ではなく、図画の手本にあった絵の模写だったかと思う。戦争中の物資不足のため、画用紙代わりに配布された用紙は、枠の線や文字が透けて見える、使用済みの便箋であった。右上に朱書してある私の名前は、クラス担任の大成先生(女性)が、教室の後ろの壁に張り出すために記したものである。私自身の署名は裏面左下に「初二竹」という所属に続いて、したためてある。当時の小学校には初等科と高等科があったので、初等科の 2 年生であることを表すために「初二」とする必要があったようだ。「竹」はクラスの名称で、一学年に松、竹、梅の 3 クラスがあった。いま便箋の面をみると、達者な草書で経済関係の論文の下書きと思われるものが記してあって、「99」とページ数が入れてあり、最終行に「七、結論」とある。約 100 ページに及ぶ論文の末尾近くの一枚だったのだ。便箋右下には「第一生命保険相互会社」の文字が印刷されている。

 大成先生はまだかなり若かったと思われるが、端整な、いかにも教師らしい方で、私たちが 1 年生の時から優しく適切な指導をして下さった。ところが、2 年生の 2 学期途中から休まれたと思う間もなく、亡くなられてしまった。結核だったようである。先生の思い出を記した私の作文に、おそらく隣の松組担任の年配の先生(やはり女性)が手を入れて弔辞の形にして下さったものを、私は告別式で朗読した。戦争中のことでもあり、告別式は簡素なものだったが、私が朗読をした場所は、小高いところにあった建物中の、あまり広くない一室で、前方の窓から自然の多い風景が望まれたような印象がある。しかし、古いことなので、どこまで正確か自信がない。

 2 枚目の絵は、小学校 3 年生で亡くなった兄のお下がりの幼年雑誌にあった「加藤清正の虎狩り」の絵を、わら半紙(ほぼ B4 サイズ)に家で模写したものである。伯父か誰かが訪ねてくるというので、その時に見せようと、がんばって描いたのだが、トラが用紙の中に収まりきれなくなって残念に思ったものだ。あらかじめ全体的な位置決めをすることなく描き始めたので、槍の手元より後ろの部分の向きを何度も修正した跡も見える。描いた時期は分からないが、『起き上がり小法師』と相前後する頃と思う。(つづく)

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