来たる 2017 年 10 月 20 日(木)から 24 日(火)まで、堺市東区北野田の東文化会館で開催される『第31回・美交会展』(主催・堺の文化をすすめる市民の会)に出品する予定の水彩画を、9 月 9 日に完成した。ホルベイン不透明水彩絵具とホルベイン紙 F6 を使用し、文献 1 の表紙にある写真を参考にして描いた。文献 1 の目次の上部に同じ写真を小さく添えて記してある説明によれば、その写真は、内田良平氏が撮影した『観音岳から望む 8 月の地蔵岳』である。小さな写真と表紙の写真を比べると、後者は元の写真の下部を 2 割近くカットしてあると分かる。表紙の写真を私が参考にするにあたって、さらに左右を(左を少し多めに)カットした。
同様な水彩画を昨年 12 月に、妻が知人・友人へ送る賀状の挿絵にするため、妻の登った山々から、今年の干支である酉(とり)に関係のある名の山として、上記の写真を選び、私が透明水彩絵の具で F4 紙に描きかけた。しかし、途中まで進めた着彩が気に入らず、透明水彩では修正もままならず、その時の目的としては、F1 サイズのスケッチブックにペンと色鉛筆で急きょ簡潔に描いたものを用いた(元日のブログ記事に掲載)。したがって、画具が全て異なるながら、同じ写真から、失敗作を含めて 3 度描いたことになる。
鳳凰山は、地蔵岳・観音岳・薬師岳の 3 山の総称で、鳳凰三山とも称される。地蔵岳(2,764 m)の山頂部にはオベリスク・地蔵仏と呼ばれる巨大な岩塔があり、これが「鳥のくちばしに見立てられる」というのが、鳳凰山の名の由来の一説であるが(文献 2)、他にもさまざまな説があるそうだ(文献 3)。深田久弥は、「地蔵仏は高さ約十八メートル、極めて印象的なオベリスクで、甲府盆地からでもよく注意すると認めることができる。それは鳳凰山のシンボルのように立っている。その巨石に初めて攀じ登ったのはウォルター・ウェストンで、明治三十七年(一九〇四年)の夏であった」(文献 4)と記している。
地蔵仏の姿は、「二個の巨石が相抱くように突っ立っている」(文献 4)という様子である。ただし、二個からなることは、この絵の横方向に相当する位置から見ないと分からない。参考にした写真では、樹木のない中央部分の傾斜がもう少し黄色味を帯びているが、絵では、妻が登った印象として「白っぽかった」ということを強調するため、黄色味を抑えた。白っぽいのは、風化花崗岩の砂礫で覆われているからだそうで(特に絵の左端に見える「賽ノ河原」と名付けられた部分)、1814 年に編纂された『甲斐国志』にも「砂白くして海浜の景色あり」と描写されているという(文献 3)。賽ノ河原には「昔の信仰登山者のおいて行った小さな石の地蔵が、壊れた形で散らばって」(文献 4)いる。画中、賽ノ河原の奥に多くの小さい点々で表したのがそれである。
なお、中央部分の傾斜の黄色味を抑えて描いたのには、もう一つ理由がある。私はさる 4 月の半ば過ぎと 5 月初めの 2 回に分けて、左右の目の白内障手術をした。その結果、本来あるべき色感を取り戻したのだが、白内障が進んでいた頃と比べれば、風景が青白く見える印象を受けた。その感懐を、際立てて絵に残しておきたい思いもあったのである。過去 2 年間に描いた水彩の風景画[『自然エネルギー』(オランダ・キンデルダイクの風車)と『自鳴琴の館』(京都嵐山オルゴール博物館)]をいま見ると、必要以上に黄色が強調されているように思われる。ペンと色鉛筆描きの『鳳凰山』中の賽ノ河原も、黄色が強すぎた。
文献
同様な水彩画を昨年 12 月に、妻が知人・友人へ送る賀状の挿絵にするため、妻の登った山々から、今年の干支である酉(とり)に関係のある名の山として、上記の写真を選び、私が透明水彩絵の具で F4 紙に描きかけた。しかし、途中まで進めた着彩が気に入らず、透明水彩では修正もままならず、その時の目的としては、F1 サイズのスケッチブックにペンと色鉛筆で急きょ簡潔に描いたものを用いた(元日のブログ記事に掲載)。したがって、画具が全て異なるながら、同じ写真から、失敗作を含めて 3 度描いたことになる。
鳳凰山は、地蔵岳・観音岳・薬師岳の 3 山の総称で、鳳凰三山とも称される。地蔵岳(2,764 m)の山頂部にはオベリスク・地蔵仏と呼ばれる巨大な岩塔があり、これが「鳥のくちばしに見立てられる」というのが、鳳凰山の名の由来の一説であるが(文献 2)、他にもさまざまな説があるそうだ(文献 3)。深田久弥は、「地蔵仏は高さ約十八メートル、極めて印象的なオベリスクで、甲府盆地からでもよく注意すると認めることができる。それは鳳凰山のシンボルのように立っている。その巨石に初めて攀じ登ったのはウォルター・ウェストンで、明治三十七年(一九〇四年)の夏であった」(文献 4)と記している。
地蔵仏の姿は、「二個の巨石が相抱くように突っ立っている」(文献 4)という様子である。ただし、二個からなることは、この絵の横方向に相当する位置から見ないと分からない。参考にした写真では、樹木のない中央部分の傾斜がもう少し黄色味を帯びているが、絵では、妻が登った印象として「白っぽかった」ということを強調するため、黄色味を抑えた。白っぽいのは、風化花崗岩の砂礫で覆われているからだそうで(特に絵の左端に見える「賽ノ河原」と名付けられた部分)、1814 年に編纂された『甲斐国志』にも「砂白くして海浜の景色あり」と描写されているという(文献 3)。賽ノ河原には「昔の信仰登山者のおいて行った小さな石の地蔵が、壊れた形で散らばって」(文献 4)いる。画中、賽ノ河原の奥に多くの小さい点々で表したのがそれである。
なお、中央部分の傾斜の黄色味を抑えて描いたのには、もう一つ理由がある。私はさる 4 月の半ば過ぎと 5 月初めの 2 回に分けて、左右の目の白内障手術をした。その結果、本来あるべき色感を取り戻したのだが、白内障が進んでいた頃と比べれば、風景が青白く見える印象を受けた。その感懐を、際立てて絵に残しておきたい思いもあったのである。過去 2 年間に描いた水彩の風景画[『自然エネルギー』(オランダ・キンデルダイクの風車)と『自鳴琴の館』(京都嵐山オルゴール博物館)]をいま見ると、必要以上に黄色が強調されているように思われる。ペンと色鉛筆描きの『鳳凰山』中の賽ノ河原も、黄色が強すぎた。
文献
- 『週刊 日本百名山』No. 05(朝日新聞社、2001)。
- 「鳳凰山」、『ウィキペディア』https://ja.wikipedia.org/wiki/鳳凰山[2017 年 4 月 24 日 (月) 09:06]。
- 深田久弥『日本百名山』中「鳳凰山」の項。文献 1 の p. 3 に朝日文庫版(1990)から、同項の全文が転載されている。
- 三宅修「明るい稜線と大展望の魅力」、文献 1 の p. 6。
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