わが家の庭に咲いたサザンカの花。2019 年 11 月 8 日撮影。
A sasanqua flower in my yard; taken on November 8, 2019.
N・T 氏へのメール -7-:さらに真木君のことなど
2019 年 10 月 12 日
N・T さん
台風19号は国内の各地に大きな被害をもたらしましたが、貴殿のお宅やその周辺はいかがでしたか。お見舞い申し上げます。当地は暴風圏の予報円の端に入ってはいましたが、雨戸を閉めて過ごしていたところ、強風もほとんど感じられない程度でした。
私の記憶力に驚いていただきましたが、大切なことの記憶が怪しくなっていることを、現役時代から退職後 10 年ほどの計 26 年間続けていた原研の委託調査の仕事の終わり頃に気づいた次第です。個人的なつまらない経験ばかりを多く覚えているようです。真木君の学生時代の発症についてお話ししたことも忘れていました。彼が病気をしたのは 3 年生[注 1]の夏休み後のことで、療養は長期にわたり、翌年春から 3 年生をやり直したため、彼の卒業は私の 1 年あとになりました。病気は髄膜炎(旧名称では脳膜炎)だったと聞きました。髄膜炎といえば、その種類にもよるのでしょうが、言語障害や知能障害などの後遺症を生じる場合もあるようです。しかし、彼の場合、幸い後遺症はなかったばかりか、その後の彼の活躍ぶりからは、発症のため頭がますます冴えたかのように見えたので、「髄膜炎で一層賢くなったようだ」という話を私が作った次第です。
真木君の奥様は私の妻と同じ大阪女子大(貴殿が東北大へ戻られた後、大阪府立大に統合されました)の出身でした(妻の方が先輩)。真木君が結婚したばかりの時は、彼女も東北大で低温物理学をやっているということを聞いただけだったので、私は別のそれらしい人と勘違いをしたのでした[注 2]。その話を真木君が亡くなった直後のメールに書かなかったでしょうか。もしも、まだお話してなかったならば、早とちりの恥ずかしい話ですが、次回にでも書きます。
さて、先のメールを書いたときに書こうと思っていた思い出話に移ります。真木君は学部生時代(少なくとも 1、2 年生の時)に京大合唱団に所属していました。私の高校の 2 年先輩で京大工学部に入学後、休学して私と同期になった古谷洋一郎氏も合唱団に入っていました。1 年生の夏休みに、古谷氏の努力で、合唱団の金沢での公演が実施され、私はその公演を聞きに行きました。公演終了後、合唱団にいた真木君始め数人の理学部同期生と語らいながら、私は会場から金沢駅までの約 4 km の夜道を歩いて、彼らを送りました。当時、金沢には市電が走っていましたが(現在はバスに代わっています)、彼らは乗らないで歩くと言ったのです。駅へ着くと金沢から東方面(少なくとも当時は、東京方面へ行くこちらが「下り」と呼ばれていました)へ行く最終列車は出た後で、長野県と埼玉県へ帰省する同期生は「どうしよう」と言い合っていたので、わが家に泊まって貰うことにしました。真木君にも泊まって欲しかったのですが、彼は上り列車がまだあったので帰って行きました。
上記の古谷洋一郎氏は、父君が金沢大の物理学教授で、洋一郎氏を介して父君の持っておられた Whittaker 著 A Treatise on the Analytical Dynamics of Particles & Rigid Bodies という立派な教科書を 2 年生の間に借りていたことがありました(その後、ペーパーバックで出ていることを知り、懐かしく思って買いましたが、買ってからは読んでいません)。彼は 2 年生の時に私の下宿へ来て話していて、「極低温物理とはどういうものでしょうか」と言い、私が首を傾げていると、「ごーく低温の物理なのでしょうね」などと言っていました(丁重な話し方をする人でした)ので、その後、低温物理学分野へ進んだような気がして、貴殿に彼のことをご存知かお尋ねしたいと思ったのでした。しかし、念のためインターネット検索してみると、彼の名が出て来ました。専門はプラズマ物理学で、ソルボンヌ大教授、岡山大教授(これらの経歴は既知のことです)を経て、同大名誉教授になり、2012 年に 79 歳で亡くなったと分かりました。彼が早くにフランスへ渡ったのは、学部生時代に京大の近くの日仏会館でフランス語を学んでいたことを生かしたのです。——貴殿には関係のない話が長くなりましたが、真木君の思い出を書いたお陰で、お世話になった先輩のその後が分かり、感謝する次第です。
亡くなったといえば、先日の貴殿のメールにあったシュリーファーは、6 月に 88 歳で亡くなったのですね。Nature 誌の Obituary 欄で一昨日知りました。
ではまた。
T・T
[注]
2019 年 10 月 12 日
N・T さん
台風19号は国内の各地に大きな被害をもたらしましたが、貴殿のお宅やその周辺はいかがでしたか。お見舞い申し上げます。当地は暴風圏の予報円の端に入ってはいましたが、雨戸を閉めて過ごしていたところ、強風もほとんど感じられない程度でした。
私の記憶力に驚いていただきましたが、大切なことの記憶が怪しくなっていることを、現役時代から退職後 10 年ほどの計 26 年間続けていた原研の委託調査の仕事の終わり頃に気づいた次第です。個人的なつまらない経験ばかりを多く覚えているようです。真木君の学生時代の発症についてお話ししたことも忘れていました。彼が病気をしたのは 3 年生[注 1]の夏休み後のことで、療養は長期にわたり、翌年春から 3 年生をやり直したため、彼の卒業は私の 1 年あとになりました。病気は髄膜炎(旧名称では脳膜炎)だったと聞きました。髄膜炎といえば、その種類にもよるのでしょうが、言語障害や知能障害などの後遺症を生じる場合もあるようです。しかし、彼の場合、幸い後遺症はなかったばかりか、その後の彼の活躍ぶりからは、発症のため頭がますます冴えたかのように見えたので、「髄膜炎で一層賢くなったようだ」という話を私が作った次第です。
真木君の奥様は私の妻と同じ大阪女子大(貴殿が東北大へ戻られた後、大阪府立大に統合されました)の出身でした(妻の方が先輩)。真木君が結婚したばかりの時は、彼女も東北大で低温物理学をやっているということを聞いただけだったので、私は別のそれらしい人と勘違いをしたのでした[注 2]。その話を真木君が亡くなった直後のメールに書かなかったでしょうか。もしも、まだお話してなかったならば、早とちりの恥ずかしい話ですが、次回にでも書きます。
さて、先のメールを書いたときに書こうと思っていた思い出話に移ります。真木君は学部生時代(少なくとも 1、2 年生の時)に京大合唱団に所属していました。私の高校の 2 年先輩で京大工学部に入学後、休学して私と同期になった古谷洋一郎氏も合唱団に入っていました。1 年生の夏休みに、古谷氏の努力で、合唱団の金沢での公演が実施され、私はその公演を聞きに行きました。公演終了後、合唱団にいた真木君始め数人の理学部同期生と語らいながら、私は会場から金沢駅までの約 4 km の夜道を歩いて、彼らを送りました。当時、金沢には市電が走っていましたが(現在はバスに代わっています)、彼らは乗らないで歩くと言ったのです。駅へ着くと金沢から東方面(少なくとも当時は、東京方面へ行くこちらが「下り」と呼ばれていました)へ行く最終列車は出た後で、長野県と埼玉県へ帰省する同期生は「どうしよう」と言い合っていたので、わが家に泊まって貰うことにしました。真木君にも泊まって欲しかったのですが、彼は上り列車がまだあったので帰って行きました。
上記の古谷洋一郎氏は、父君が金沢大の物理学教授で、洋一郎氏を介して父君の持っておられた Whittaker 著 A Treatise on the Analytical Dynamics of Particles & Rigid Bodies という立派な教科書を 2 年生の間に借りていたことがありました(その後、ペーパーバックで出ていることを知り、懐かしく思って買いましたが、買ってからは読んでいません)。彼は 2 年生の時に私の下宿へ来て話していて、「極低温物理とはどういうものでしょうか」と言い、私が首を傾げていると、「ごーく低温の物理なのでしょうね」などと言っていました(丁重な話し方をする人でした)ので、その後、低温物理学分野へ進んだような気がして、貴殿に彼のことをご存知かお尋ねしたいと思ったのでした。しかし、念のためインターネット検索してみると、彼の名が出て来ました。専門はプラズマ物理学で、ソルボンヌ大教授、岡山大教授(これらの経歴は既知のことです)を経て、同大名誉教授になり、2012 年に 79 歳で亡くなったと分かりました。彼が早くにフランスへ渡ったのは、学部生時代に京大の近くの日仏会館でフランス語を学んでいたことを生かしたのです。——貴殿には関係のない話が長くなりましたが、真木君の思い出を書いたお陰で、お世話になった先輩のその後が分かり、感謝する次第です。
亡くなったといえば、先日の貴殿のメールにあったシュリーファーは、6 月に 88 歳で亡くなったのですね。Nature 誌の Obituary 欄で一昨日知りました。
ではまた。
T・T
[注]
- 実は 4 年生(関西では「4 回生」のようにいうが、ここでは全国的に分かりやすいように「回生」の代わりに「年生」を使っている)の時だった。N・T 氏に対しては、次のメールで訂正した。
- N・T 氏からの次のメールで、真木夫人の専門は、低温物理学ではなく、「光、誘電物性」だったと思う、と知らされた。真木君と同じ低温物理学と思ったのは、私の思い込みで、その思い込みが、「別のそれらしい人と勘違い」したことにつながったのだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿