2020年6月6日土曜日

横光利一著『頭ならびに腹』を読む [Read Riichi Yokomitsu's "Atama narabini Hara (Head and Belly)"]

[The main text of this post is in Japanese only.]


青空文庫版『頭ならびに腹』
Aozora Bunko version Atama narabini Hara

 私が高校 1 年の時に習った国語の K 先生は、「"沿線の小駅は石のように黙殺された。" これが新感覚派」と、授業時間中に何度も繰り返し述べた。「沿線の小駅は」までと、それが横光利一の文であることは覚えていたが、その文の出て来るのが短編小説「頭ならびに腹」の冒頭であることや、その冒頭が次の通りであることを知ったのは、定年退職してから 6 年近くも経った 15 年前のことだった[文献 1]。
 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
 最近、この文に再び出会った[文献 2]。文献 2 の著者は、この文とあわせて、新感覚派を含めて当時流行の文芸表現を批判した青野季吉の文を引用している。横光利一の文については、次のように紹介している。
 […]擬人化や暗喩を用いて「高速時代」というモダン語が重視した「速度感」が示されている。この短編が掲載された『文芸時代』(1924 年 10 月号)を評して千葉亀雄は「新感覚派」の誕生(『世紀』1924 年 11 月号)と呼び、新たな文芸表現を担う世代の到来を告げた。
 この機会にと思い、青空文庫版『頭ならびに腹』[文献 3]の XHTML ファイルをダウンロードして読んだ。ダウンロードしたファイルは、ワープロソフトの A4 サイズ文書ファイルへコピーした。16 ポイントの大きな文字で 5 ページ強の短さである。

 物語は、特別急行列車が線路の故障のため駅間で停車し、乗客らがイライラした顛末を描いたものである。「頭」は乗客の一人の「横着さうな子僧」を意味し、「腹」は同じく乗客の中の「肥大な一人の紳士」を意味している。100 年近く前の作品であるが、今でも似たような情景が展開しそうな話である。

 冒頭の「沿線の小駅は石のように黙殺された」に呼応して、列車が停車したところで、「動かぬ列車の横腹には、野の中に名も知れぬ寒駅がぼんやりと横たはつてゐた」という文がある。「駅がぼんやりと」しているのも新感覚であろう。また、「子僧」が空虚になった列車の中で相変わらず歌を歌っていたところの表現に、「眼前の椿事は物ともせず、恰も窓から覗いた空の雲の塊りに噛みつくやうに、口をぱくぱくやりながら」というのもある。しかし、期待したほど「新感覚」という感じの作品ではなかった。時代の変化がもたらした感覚の相違のせいだろうか。

 文献
  1. 横光利一『機械』の評を読む、Ted's Coffeehouse 2(2005 年 1 月 7 日)。
  2. 山室信一、「モダン」への終わりなき旅路、『図書』No. 858、p. 40(2020 年 6 月)。
  3. 横光利一、『頭ならびに腹』、青空文庫版(2001 年 12 月 10 日公開、2006 年 5 月 19 日修正)。

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