2005年1月7日金曜日

横光利一『機械』の評を読む

 雑誌『図書』2005 年 1 月号に掲載の佐藤正午の「書く読書」第 13 回は、横光利一の短編小説『機械』(1930)を扱っている。高校 1 年の教科書に、横光の『旅愁』の一部があったと思うが、その内容は覚えていない。いずれ『旅愁』の全体を読んでみたいと思った(現在まで実現していない)ことや、教師が横光のある作品から「沿線の小駅は…」という一文を繰り返し引き、これが新感覚派の「新感覚」を代表するものだ、といっていたことは覚えている。しかし、「小駅は」のあとの記憶が確かでない。

 「けし粒のやうに飛び去った」だったか、あるいは「小石のやうに飛び去った」だったかと思っていた。2、3 年前に必要があって買った高校生用の日本文学史の参考書をいま調べてみると、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」(『頭ならびに腹』冒頭)とある。古い記憶は、しばしば当てにならない。が、教師が正しく引用していたかという疑いもぬぐえない。特急列車から見れば、小駅は飛び去るのであり(ガリレイの相対性原理)、そこに注目したのはまさに新しい感覚だ、と高校時代に感心したような記憶があるからだ。

 さて、佐藤は始めに、『機械』を読むと酔った気分になる、といって、その原因を探る形で評を展開する。まず、書き出しの二つの文を引用し、最初の文には「私」が 2 回、2 番目の文には「彼」「嫌がる」「と云って」がそれぞれ 2 回ずつくり返されていることを指摘する。さらに、喧嘩の場面では、「殴る」という動詞の活用形が 2 ページの間に約 30 回使われていることも述べ、この「同語反復文体」の使用は、語り手「私」の信頼性を崩すためであると推定し、なぜそのようなまねをあえてするのかと問う。

 佐藤はここで、横光利一が『機械』の 5 年後に書いた評論『純粋小説論』から、「四人称の発明工夫」に触れているところを引用する。それは、「自分を見る自分」のことであり、『機械』の推敲時点で、すでに横光の頭にこれがあったとすれば、この小説の謎が解ける、と述べる。

 そして、新たに「私」が二つ出てくる 2 文を引き、それらは一人称の私と四人称の私と見ることが出来ること、また、書き出しの文の二つの私についても同様に考えられること、を説明する。このことから、この小説は「一人称と四人称とのあいだを、行きつ戻りつしながら」進むので、その往復運動が酔いの感じを与えると結論する。

 読後に奇妙な酩酊感を覚えるといわれたのでは、あまり読む気も起こらないが、どんな酩酊感か、自分で味わってみたいと思わされなくもない。引用されていた書き出しの文ですでに、多少味わわされた気もするが。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

M☆ 01/07/2005 23:33
You're reading so many books. How many books you read in a week? I can't read even one book in a month (T-T)

Ted 01/08/2005 08:02
I don't read so many books, but am subscribing to many magazines and journals: weekly scientific journals of Nature and Science, and monthly magazines and journals of Scientific American, MacWorld, Physics Today, Butsuri, Nihon no Kagakusha, and Tosho. As for books, I mostly read those on science written in English for general persons (about one per two months). My reading of Japanese books are quite irregular.

Y 01/08/2005 12:20
 面白いですねえ! だいたい『機械』『頭ならびに腹』といった横光利一の小説タイトルだけで、魅了されますよ。私はその手の酩酊気分なら大丈夫だと思うので(「殴る」があっても、最低限の品性や倫理性のない暴力や性描写は嫌なんですが)、ぜひ機会を作って読みたいです、『機械』が一番いいでしょうかね? 短編なら読めますね。
 私は自己論ですが、一人称「私」というものに小説の可能性のほとんどすべてを感じているんです。そのうえで、三人称小説も実に面白いし魅力的で、質の高いものが創れると思っています。
 ところがここで評されているのを受け取ると、横光の小説では四人称の発明工夫がなされていたと。横光自身がそう言ったわけではないのでしょう? ほんとの意味で、小説に四人称というものが誕生しうるかどうか、やはり一人称語りか、三人称語りであらゆる可能性を踏んでいけて、四人称もそれらのどちらか、あるいはそれらの深い関係性の中で出ている人称なのではないかなと、思ってみるんですが、読んでいないのでなんともいえないですね。もちろん「自分を見る自分」というだけでは、これは一人称の範囲に十分入りますしね。
 列車の駅にしろ、新感覚を小説で表現する、そして私たちがそれを新感覚で味わう、昔の小説であっても、…ということは、たのもしいことですね。よいブログ、ありがとうございます。

Y 01/08/2005 12:23
 最低限の倫理性がない小説は嫌、と書きましたが、もちろん倫理性というものに真っ向から挑戦していくような非倫理的な小説(たとえば有名なカミュ『異邦人』とか)なら、大歓迎、OKですよ。それこそ、学術論文ではなしえない仕事ですよね。

Y 01/08/2005 12:31
 「自分を見る自分」という説明だけで受け取れば、これは自己内客観性、というのか、自分を自分で見る特殊な主観性による目、といえばいいのか、難しいんですが、『図書』は大変よい雑誌ですが、Ted さんもお忙しい中、少しずつの時間ででも小説を新たにじかに読まれて、一人称的感想を書かれる機会ができることを期待しております。
 ちなみに小説は一人称「私」にほとんどすべての可能性がある、と言ったのは、現象学的精神病理学において、この一人称「私」を徹底的に追究していて、それに私はかかわってきたからゆえの発言です。コメント多くてすみません。

Ted 01/08/2005 16:24
 佐藤正午さんは、——横光利一の『純粋小説論』に「四人称」という見慣れない言葉が登場して目を引く。——と書いていますので、四人称という考えは横光自身のものであり、彼自身その発明を小説の中で使ったと思われます。佐藤さんが引用している『純粋小説論』の文において、横光は「自分を見る自分」に続いて、「この、人々の内面を支配している強力な自意識の表現の場合に、いくらかでも真実に近づけてリアリティを与えようとするなら、作家はも早や、いかなる方法かで、自身の操作に適合した四人称の発明工夫をしない限り、表現の方法はないのである」とまで書いています。佐藤さんが『機械』に四人称の使用を想定して分析しているところからは、形式上どちらにも「私」を使いながら、状況の中に泳ぐ私と、それを客観視する私を微妙に分けて描くとき、後者を四人称と呼ぶのだろうと思われます。
 小説あるいはその他の書物についての私自身の感想を書きたい気持ちは十分に持っていますが、感想をまとめるのは、少しずつ読んだのでは難しく、ある程度集中して読める時にしたいと思っています。当分、原研からの委託調査の取りまとめに、かなり時間を取られる状況ですので、いずれ、ということで、ご期待下さい。

M☆ 01/08/2005 14:57
I see (^__^) We have so many chances to have interesting magazines in book store. When I was 23 years old, I read "NEWS WEEK INTERNATIONAL," "AERA" and "NEWTON."
 英語で書くのは難しいんだけど、ニュートンで【宇宙旅行を数年したとしたら、その人は地球にいる人よりも数年年が若くなる】という記事にとても興味を覚えました。それは物理学なのかな? それとも量子力学なのでしょうか? 当時「今私が学生だったら、大学で学んでみたい分野を迷わず選べるのに!」と思ったのを覚えています。

Ted 01/08/2005 15:35
 「宇宙旅行を数年したとしたら、…地球にいる人よりも数年年が若くなる」というのは、アインシュタインの相対性理論によるものです。ただし、その宇宙船のスピードは光速に近くなければなりません。「物理学なのかな? それとも量子力学なのでしょうか?」と書かれましたが、量子力学は物理学の一部です。物理学の中で、20世紀始めに形成された新しい分野が、相対性理論と量子力学で、それ以前の物理学は古典物理学と呼ばれています。

M☆ 01/08/2005 23:49
 なるほど! 物理学の中に全てそうした「学問」があるのですね! 面白いなぁ! 雑誌ニュートンはすごく面白くて、また育児から開放されて時間ができたら購読しようと思っている雑誌の1つです。物理学、とても興味深い面白い学問だと思いました。

0 件のコメント:

コメントを投稿