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本記事の文献 [12]
Reference [12] of this article.2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)
2.6 ハイゼンベルクの当時の研究の影響
亀淵氏は、エッセイに述べた出来事の頃のハイゼンベルクと湯川の研究について、「両者の研究は、残念ながら、未完のままに終わった」と記している。氏がその共通の理由として書いていることについては後で考えたいと思う。ここでは、ハイゼンベルクの当時の研究が、それ自体は未完に終わったにしても、その研究の中で使った概念が他の研究者に与えた好影響はかなりあったようであり、これについて、科学史を専門とするボストン大学のカオ教授の記述を紹介したい。 At the 1958 Rochester Conference on high-energy nuclear physics held in Geneva, Heisenberg invoked the idea of a degenerate vacuum to account for internal quantum numbers, such as isospin and strangeness, that provide selection rules for elementary particle interactions (1958).*
In an influential paper submitted in 1959,** Heisenberg and his collaborators used his concept of a degenerate vacuum in QFT [quantum field theory] to explain the breaking of isospin symmetry by electromagnetism and weak interactions. [...]
Heisenberg's degenerate vacuum was at the time widely discussed at international conferences. It was frequently quoted, greatly influenced field theorists, and helped to clear the way for the extension of SSB [spontaneous symmetry breaking] from hydrodynamics and condensed matter theory to QFT. ([12] p. 283)
上記引用中に何度も出て来る "degenerate vacuum"(縮退真空)という言葉は、最後の文にある SSB(自発的対称性の破れ)と密接に関係するものである。また引用文中、* と ** のところに引用されている文献は、それぞれ、この記事の第 1 回に記した文献 [2](「悲劇」の講演が論文として会議録に掲載されたもの)と、第 2 回に記した文献 [8](その後、若手研究者たちと共同で発表した論文)である。
ちなみに、これらの論文の被引用数を Google Scholar で調べると、前者は 16、後者は 226 である。カオは "frequently quoted" と書いているが、ハイゼンベルクのノーベル賞受賞対象となった、行列に基づく量子力学の定式化の論文 [13] と 不確定性原理の論文 [14] の被引用数が 1709 と 4697 であるのに比べれば、かなり少ない(以上の被引用数はいずれも 2020 年 7 月 27日現在)。これは「悲劇」の頃の研究が構想全体としては成功に至らなかったためであろう。
自発的対称性の破れの素粒子物理学への適用といえば、南部陽一郎のノーベル賞受賞理由が「素粒子物理学における自発的な対称性の破れのメカニズムの発見」だったので、私はほとんど南部の独創であるように思っていた。ところが、実はハイゼンベルクの研究が南部に影響を与えていたのである。カオがこれについて南部の論文を引きながら述べている部分を、これも少し長くなるが、引用しておく(論文に関する注の数字は省略)。 Nambu's work on superconductivity led him to consider the possible application to particle physics of the idea of non-invariant solutions (especially in the vacuum state). [...]
[...]
[...]
It is of interest to note the impact of Dirac and Heisenberg on Nambu's pursuing this analogy. First, Nambu took Dirac's idea of holes very seriously and viewed the vacuum not as a void but as a plenum packed with many virtual degrees of freedom. This plenum view of the vacuum made it possible for Nambu to accept Heisenberg's concept of degeneracy of the vacuum, which lay at the heart of SSB. Second, Nambu was trying to construct a composite particle model and chose Heisenberg's non-linear model, 'because the mathematical aspect of symmetry breaking could be mostly demonstrated there', although he never liked the theory or took it seriously.
次回は湯川の場合の「悲劇」に関連する論文について述べたい。
文献- T. Y. Cao, Conceptual Developments of 20th Century Field Theories, (Cambridge University Press, Cambridge, 1997; second edition available, 2019)
- W. Heisenberg, Über quantentheoretische Umdeutung kinematischer und mechanischer Beziehungen, Z. Physik 33, 879 (1925).
- W. Heisenberg, Über den anschaulichen Inhalt der quantentheoretischen Kinematik und Mechanik, Z. Physik 43, 172 (1927).
(つづく)
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本記事の文献 [9, 10, 11]
References [9, 10, 11] of this article.2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)
2.5 パウリの反逆の理由
亀淵氏は、ハイゼンベルクとは学生時代からの親友であり、しかも三カ月前まではこの問題を一緒に研究していたパウリが、事もあろうに素粒子論の著名な研究者たちが居並ぶ場所で、何故このような暴挙に出たのか。
と疑問を呈している。ここに「三カ月前」とあるが、パウリがこの国際会議より前に三カ月間の訪米をしていたことからの「三カ月」であろう。しかし、パウリがアメリカへ出発したのは、ハイゼンベルクの自伝 [8] によれば、1957 年のクリスマス前から a week プラス a few weeks あと、つまり 1958 年 1 月下旬頃で、その時から数えれば、国際会議までの期間は五カ月ほどになる。
亀淵氏が上記の疑問に対して与えている答えは、後年、K. ブロイラー教授(ボン大学)がしてくれたという説明(次の「」内の部分)を疑問つきで引用したものである。「おそらくパウリは米国で意気揚々と件の研究について講演したことであろう。しかし、米国の若手の俊秀たちから猛反撃を受け、一筋縄ではゆかない仕事だなと考え直したと思われる。そこで、今はもうその理論を信じてはいないということを、会議に来ている俊秀たちに公然とした形で表明したかったのであろう」と。これでは自己の名誉のために友の名誉を犠牲にしたことになるのだが......。
ブロイラーは推定として述べているが、同じことを次の通り、断定的に述べた文献 [9] がある(この文献はポーキングホーンの著書と異なり、学術的なもので、私が今回興味を持ったことは脚注扱いである)。Although Pauli drafted the first preprint, entitled 'On the Isospin Group in the Theory of the Elementary Particles,' he withdrew from further collaboration in January 1958, after he encountered severe criticism and opposition to the theory from the U.S. physicists at the American Physical society meeting in New York; thus Heisenberg was left to work out the details of the theory with younger collaborators (Dürr et al., 1959). ([9] p. 1120, footnote)
上記の引用末にある "Dürr et al., 1959" という文献は、この記述全体の典拠のようにも見えるが、そうではなく、これはハイゼンベルクが若手共同研究者たちと研究を続けた結果として発表した論文(前回も記した [8])である。したがって、パウリがアメリカ物理学会の席上でアメリカの物理学者たちから厳しい批判を受けたということの典拠を明記してはないのだが、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引く決心をしたのは、渡米早々のことだったようである。
ところで、パウリが渡米中に厳しく批判されたのは、アメリカの物理学者たちからだけではなかった。イギリス生まれのアメリカの理論物理学者・数学者、フリーマン・ダイソンの随筆集 [10] に次の記述がある。Pauli happened to be passing through New York, and was prevailed upon to give a lecture explaining the new idea [of Heisenberg and Pauli] to an audience that included Niels Bohr, who had been mentor to both Heisenberg and Pauli [...]. Pauli spoke for an hour, and then there was a general discussion during which he was criticized sharply by the younger generation. Finally, Bohr was called on to make a speech summing up the argument. "We are all agreed," he said, "that your theory is crazy. The question which divides us is whether it is crazy enough to have a chance of being correct. My own feeling is that it is not crazy enough." ([10] pp. 105-106)
ここにあるパウリの講義が若手研究者たちから鋭く批判されたという記述は、ブロイラーの推定および文献 [9] の記述を裏書きしている。その上、パウリは恩師ニールス・ボーアからも手厳しい批評を受けていたのである。"Not crazy enough" が厳しい批評になるということは、ボーアの言葉だけでは分かりにくいが、ダイソンは次の節で、以下のように説明を加えている(要約して紹介しようと思ったが、ダイソンの文は磨かれた宝石のようで、さらに削ることは不可能に思える)。When the great innovation appears, it will almost certainly be in a muddled, incomplete, and confusing form. To the discoverer himself it will be only half-understood. To every body else it will be a mystery. For any speculation that does not at first glance look crazy, there is no hope. ([10] p. 106)
なお、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引くということは、前者がアメリカ滞在中に後者へ手紙で書き送っていたのである。このことはハイゼンベルクの自伝 [11] に次のように記されている(引用文中 Wolfgang とはパウリを指す)。Then we were divided by the Atlantic, and Wolfgang's letters came at greater and greater intervals. [...] Then, quite suddenly, he wrote me a somewhat brusque letter in which he informed me of his decision to withdraw from both the work and the publication [of our common project]. ([11] p. 235)
自伝中にこの話が記されているのは、"The Unified Field Theory" と題する章であり、その章は次の文で結ばれている。Toward the end of 1958 I received the sad news that he [Wolfgang] had died after a sudden operation. I cannot doubt but that the beginning of his illness coincided with those unhappy days in which he lost hope in the speedy completion of our theory of elementary particles. I do not, of course, resume to judge which was the cause and which the effect. ([11] p. 236)
ここだけを読めば、いかにも悲しい。しかし、その前には、亀淵氏もハイゼンベルクの自伝の和訳を参照して述べているように、「会議の数週間後、二人はともにイタリーのコモ湖畔のヴァレンナの夏の学校に講師として招かれる。しかしこのときのパウリはハイゼンベルクに対して友好的だった」との事実がある。またその場所で、パウリはハイゼンベルクに「あなたは例の研究をさらに続けてゆくべきでしょう。私はしかし、もう力にはなってあげられないが」と言ってもいたので、これには救いを感じる。
ところで、ハイゼンベルクの当時の研究は、その後の理論物理学の中でどのように位置づけられているのだろうか。次回はこの話から始めたい。
文献- H. P. Dürr, W. Heisenberg, H. Mitter, S. Schlieder, and K. Yamazaki, "Zur Theorie der Elementarteilchen," Z. Naturf. 14a, 441 (1959).
- J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Volume 6, Part 2 (Springer, New York, 2001).[注:私がこの本をたまたま持っていたのは、かつて大阪科学館で持たれていた「湯川秀樹を研究する会」に参加していて、その会で討論の参考になりそうなことが書いてあると知ったからである。]
- F. Dyson, From Eros to Gaia (Penguin, London, 1993; first published by Pantheon, New York, 1992).[注:私がまだ勤務していた頃、この本を当時の同僚だった豊田直樹氏(現・東北大名誉教授)に勧めたようだが、今回は本記事に関わる話題を彼にメールで告げたところ、本文に引用した箇所がこの本にあることを逆に彼から教えられた次第である。]
- W. Heisenberg, Physics and Beyond: Encounters and Conversations, translated from German by A. J. Pomerans (Harper & Row, New York, 1972); original German edition, Der Teil und das Ganze: Gespräche im Umkreis der Atomphysik (R. Piper, Munich, 1969); Japanese version, 部分と全体, translated by K. Yamazaki (Misuzu-Shobo, Tokyo, 1974; new edition 1999).
(つづく)
(2020 年 7 月 25 日投稿、7 月 27 日改訂)
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キャシディによるハイゼンベルクの伝記本
D. C. Cassidy's Uncertainty: The Life and Science of Werner Heisenberg.2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)
2.3 ハイゼンベルクの当時の研究
亀淵氏は、ハイゼンベルクの当時の研究について、"素粒子の一元論的場の理論" の名で、「一元的な単一の場(あるいは方程式)から出発して、素粒子の総てを導出しようという大構想」と説明している。これに続いて亀淵氏は次の通りに述べている。私はこのことを最初新聞で知ったから、彼が記者会見を開いて発表したかと思われる。その折、基礎方程式に対して普遍的(ユニヴァーサル)という形容詞でも用いたのか、日本では誤って "宇宙方程式" として喧伝されたようである。
実は、私もこの研究についての新聞記事を見た一人であり、そのことについて次のように当時の日記に書きとめていた。それは、大学卒業前の 2 月と 3 月のことで、次の通りである。1958 年 2 月 27 日
朝日新聞に次の記事:
【ゲッチンゲン(西独)25 日発UP=共同】ノーベル物理学賞受賞者、西独のハイゼンベルク教授は 25 日ゲッチンゲン大学で「素粒子理論の進歩」と題する講義をし、その中で同教授を中心とする研究グループが故アインシュタイン博士の考えていた「統一場の理論」の研究を発展させ、すべての物理学上の法則を例外なく説明する基本方程式を発見したと発表、…。
1958 年 3 月 13 日
[注:ハイゼンベルク博士が明らかにした素粒子の基礎方程式を報ずる朝日新聞の囲み記事「これが宇宙方程式」の切り抜きを貼付。]
この日記は、私のウェブサイト内のページ [5] に転記して、元の日記帳は処分したので、「これが宇宙方程式」の切り抜きは残っていないが、その式については後述する。日記に書き写してあった新聞記事によれば、ハイゼンベルクは亀淵氏が推定したように記者会見を開いて発表したのではなく、ゲッチンゲン大学で講義したのを記者が記事にしたのである。
この点は、キャシディによるハイゼンベルクの伝記本 [6] にも次の通り述べられていて、確かである。The distribution [of the preprint on work made by Heisenberg and Pauli] was set for February 27, 1958. [...]
Three days before the preprint was to be distributed, Heisenberg announced the new formula in a lecture at the University of Göttingen physics institute. ([6] p. 542)
ただし、この文によれば、講義の行われた日は、朝日新聞が報じたように 1958 年 2 月 25 日ではなく、現地時間の 24 日だったことになる。この違いは、朝日新聞が「UP=共同」の伝えたニュースに対して時差補正をしなかったことによるのだろうか。
2.4 誤訳でなかった「宇宙方程式」
上に引用したキャシディの本には続いて次の文がある。An eager reporter in the audience relayed word of a sensational new "world formula" around the world. One enthused press agent proclaimed, "Professor Heisenberg and his assistant, W. Pauli, have discovered the basic equation of the cosmos! ([6] p. 542)
これによれば、外国の新聞も「宇宙の基礎方程式」の言葉を使っていたということであり、朝日新聞が「宇宙方程式」と報じたのは誤訳ではなかったのである。
しかし、その式の形が朝日新聞に載ったのは、ゲッチンゲン大学での講義の記事より 2 週間もあとだった。このことがある程度理解できる文がキャシディの本には続いて載っている。Two months later, more than 1800 listeners turned out to hear Heisenberg reveal the secret of the cosmos in the same auditorium on the occasion of Max Planck's one-hundredth birthday. During his highly technical talk, Heisenberg carefully wrote his new equation on the overhead projector in the darkened room: ([6] p. 542)
ハイゼンベルクは 2 月のゲッチンゲン大学での講義では式を具体的には明かさないで、名称だけを話したらしく、上の引用に記されている別の講義で式を書き記したのである。しかし、その講義が先の講義よりも 2 カ月後というのは、朝日新聞が式自体を報じた時期と合わない。あとの講義はプランクの生誕 100 年を祝うものだったということなので、その誕生日を調べると、4 月 23 日である [7]。これは上の引用文が "Two months later" と始まっていることと一致する。しかし、3 月 13 日付けの朝日新聞が 4 月 23 日の講義内容を報道し得るはずはない。プランクの生誕 100 年を祝う講義は誕生日より 40 日余り早めに行われたが、伝記作者のキャシディは、生誕を祝う講義ならば誕生日頃だったに違いないと想像して書いたということも考えられる。
なお、ここに引用した宇宙方程式は、キャシディの著書にあるのと同じものをハイゼンベルクと若手の研究者らの共著論文 [8] からコピーした。この論文を知ったことは、さらにあとで述べる。
ポーキングホーンの本にあるハイゼンベルクの講演内容の記述は、亀淵氏の紹介よりもやや専門的で、次のようになっている。[Heisenberg] had conjectured a 'non-linear spinor equation', whose solutions he thought would correspond to the structure of matter as it was then known. Not only was his equation hard to work with, but in the course of the attempt use was made of the dangerous concept of an infinite metric, something which could result in the appearance of unphysical ghosts. ([4] p. 77)
これによれば、ハイゼンベルクがゲッチンゲン大学で大掛かりな講義をしたにもかかわらず、宇宙方程式はまだ欠陥のあることが明らかなものだったようである。
キャシディの本からの最初の二つの引用にあるように、パウリはハイゼンベルクの当時の研究の協力者だったのである。それが、国際会議の場に至って、なぜ反逆的な態度に出たのだろうか。この点を次に見て行きたい。
文献- J. C. Polkinghorne, Rochester Roundabout: The Story of High Energy Physics, (W. H. Freeman, New York, 1989) p. 77.
- 多幡達夫「青春時代の日記から:大学生時代(5)」(2003) 、ウェブサイト IDEA and ISAAC 所収。
- D. C. Cassidy, Uncertainty: The Life and Science of Werner Heisenberg (W. H. Freeman, New York, 1991).
- Max Planck: Biographical in The Nobel Prize, the Web site of the Nobel Foundation.
- H. P. Dürr, W. Heisenberg, H. Mitter, S. Schlieder, and K. Yamazaki, "Zur Theorie der Elementarteilchen," Z. Naturf. 14a, 441 (1959).
(つづく)
(2020 年 7 月 25 日修正)
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『図書』誌掲載の亀淵氏のエッセイ
Kamefuchi's essay published in the magazine Tosho1 はじめに
最近、理論物理学者で筑波大名誉教授の亀淵迪氏によるエッセイ「英雄の生涯」[1] を読んだ。ここで英雄とは、彼の専門分野での二人の巨人、W. ハイゼンベルクと湯川秀樹を意味する。そして、著者が述べているのは、その英雄たちの晩年における悲劇についての、「目撃者としての証言」である。ハイゼンベルクについては、1958 年 7 月の CERN における「高エネルギー物理学国際会議」の席上で、座長のパウリが彼の講演 [2] に対し途中で激しく攻撃し始め、その研究を全面的に否定したという話である。湯川については、1967 年 8 月、ロチェスター大学での「場と粒子についての国際会議」で、彼が座長をしていたセッションで、彼の協力研究者 K が共著論文 [3] を発表する時に、聴衆の大半が席を立って退出したという話である。著者は英雄像を貶めることを懸念しながらも、真実を伝えることこそ肝要だと思い返して筆を執ったという。私のこの記事では、亀淵氏のエッセイに関連して、他の文献などから知ったことを幾つか述べ、考察も行う。
2 ハイゼンベルクの悲劇
2.1 ポーキングホーンの本にも
亀淵迪氏は英雄たちの悲劇について、「世上、あまり語られることのないようなので」として書き始めている。しかし、私はハイゼンベルクついての同じ話を最近たまたまある本 [4] で読んだ。
その本はイギリスの理論物理学者、神学者、英国国教会司祭であるポーキングホーンが、1950 年から 1980 年までの 20 回に及ぶ国際会議を記述することによって綴った、高エネルギー物理学の異色の歴史書である。その本の中でポーキングホーンは、パウリがハイゼンベルクの講演中にその内容を攻撃した言葉を会議録から引用して、亀淵氏のエッセイにあるよりもやや詳しく述べている。また、その記述の前のページには、ハイゼンベルクの講演に対するパウリの発言の一つ "No credits for the future" を添えて、その時のパウリの写真も載っている。そして、その話は、ハイゼンベルクに同情的な感想を含む次の言葉で締めくくられている。It was a scene at once farcical and sad. Justification lay with the sceptical Pauli but Heisenberg was one of the greatest physicists of the twentieth century who should have been able to enjoy a more dignified close to his career. ([4] p. 77)
この記事の読者の中には、物理学史の本に感情的な言葉が入っていることを不思議に思う人がいるかも知れないので、この本の性格について付言しておく。これは客観的記述の教科書あるいは無感情な学術書という性格の本ではなく、一般向け(といっても、主に科学に関心のある人たちが対象になろう。私も高エネルギー物理学を「趣味」とする者として読んだ次第である)に、やや砕いて書いた本で、会議の雰囲気や著名な学者たちの特徴も伝わって来る、楽しい読み物になっている。このような本書の性格は、題名と副題に "Roundabout"(「漫遊旅行」の意味がある)と "Story" の語がそれぞれ入っていることからも推定されよう。
2.2 座長パウリの暴挙
座長のパウリは「講演者を差し措き自分が立ち上がって話し出す。しかもその言動は徐々に激しいものとなり、物理の会議では耳にしたことのないような罵詈雑言の限りを尽く」したという [1]。このような座長の振る舞いに抗議をする参加者はいなかったのか、という疑問を持つ向きもあろう。それに対する答えは、次のことから想像できそうである。亀淵氏のエッセイには、問題のセッションの初めに座長のパウリが「辛辣を持って鳴る彼らしく」、「別に新しいアイディアは何もないようですが、とにかく開会します」と前置きしたことが記されている。ポーキングホーンはこのパウリの前置きをもっと詳しく引用したあと、ここでも次のように私見を述べている。It would be of no use waving your hands in front of him and expressing the hope that it would all work out right in the end. ([4] p. 77)
聴衆一同はすでにこの時点でパウリに一本取られており、辛辣さの発揮がたびたび有意義な効果をもたらしたことで有名なパウリに向かって、その暴挙に対する忠告を敢えて出来る参加者はいなかったのであろう。
文献- 亀淵迪、図書 No. 859, p. 18 (2020 年 7 月)。
- W. Heisenberg, "Research on the non-linear spinor theory with indefinite metric in Hilbert space" in 1958 Annual International Conference on High Energy Physics at CERN(CERN, Geneva, 1960) p. 851.
- Y. Katayama, "Space-time picture of elementary particles" in Proceedings of the 1967 International Conference on Particles and Fields, Ed. C. R. Hagen, G. Guralnik and V. A. Mathur (Interscience, New York, 1967) p. 157.
- J. C. Polkinghorne, Rochester Roundabout: The Story of High Energy Physics, (W. H. Freeman, New York, 1989).
(2020 年 8 月 6 日修正) (つづく)
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