2020年7月23日木曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -2- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -2-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


キャシディによるハイゼンベルクの伝記本
D. C. Cassidy's Uncertainty: The Life and Science of Werner Heisenberg.

2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)

2.3 ハイゼンベルクの当時の研究

 亀淵氏は、ハイゼンベルクの当時の研究について、"素粒子の一元論的場の理論" の名で、「一元的な単一の場(あるいは方程式)から出発して、素粒子の総てを導出しようという大構想」と説明している。これに続いて亀淵氏は次の通りに述べている。
私はこのことを最初新聞で知ったから、彼が記者会見を開いて発表したかと思われる。その折、基礎方程式に対して普遍的(ユニヴァーサル)という形容詞でも用いたのか、日本では誤って "宇宙方程式" として喧伝されたようである。

 実は、私もこの研究についての新聞記事を見た一人であり、そのことについて次のように当時の日記に書きとめていた。それは、大学卒業前の 2 月と 3 月のことで、次の通りである。
1958 年 2 月 27 日
 朝日新聞に次の記事:
 【ゲッチンゲン(西独)25 日発UP=共同】ノーベル物理学賞受賞者、西独のハイゼンベルク教授は 25 日ゲッチンゲン大学で「素粒子理論の進歩」と題する講義をし、その中で同教授を中心とする研究グループが故アインシュタイン博士の考えていた「統一場の理論」の研究を発展させ、すべての物理学上の法則を例外なく説明する基本方程式を発見したと発表、…。

1958 年 3 月 13 日
 [注:ハイゼンベルク博士が明らかにした素粒子の基礎方程式を報ずる朝日新聞の囲み記事「これが宇宙方程式」の切り抜きを貼付。]
この日記は、私のウェブサイト内のページ [5] に転記して、元の日記帳は処分したので、「これが宇宙方程式」の切り抜きは残っていないが、その式については後述する。日記に書き写してあった新聞記事によれば、ハイゼンベルクは亀淵氏が推定したように記者会見を開いて発表したのではなく、ゲッチンゲン大学で講義したのを記者が記事にしたのである。

 この点は、キャシディによるハイゼンベルクの伝記本 [6] にも次の通り述べられていて、確かである。
The distribution [of the preprint on work made by Heisenberg and Pauli] was set for February 27, 1958. [...]
Three days before the preprint was to be distributed, Heisenberg announced the new formula in a lecture at the University of Göttingen physics institute. ([6] p. 542)
ただし、この文によれば、講義の行われた日は、朝日新聞が報じたように 1958 年 2 月 25 日ではなく、現地時間の 24 日だったことになる。この違いは、朝日新聞が「UP=共同」の伝えたニュースに対して時差補正をしなかったことによるのだろうか。

2.4 誤訳でなかった「宇宙方程式」

 上に引用したキャシディの本には続いて次の文がある。
An eager reporter in the audience relayed word of a sensational new "world formula" around the world. One enthused press agent proclaimed, "Professor Heisenberg and his assistant, W. Pauli, have discovered the basic equation of the cosmos! ([6] p. 542)
これによれば、外国の新聞も「宇宙の基礎方程式」の言葉を使っていたということであり、朝日新聞が「宇宙方程式」と報じたのは誤訳ではなかったのである。

 しかし、その式の形が朝日新聞に載ったのは、ゲッチンゲン大学での講義の記事より 2 週間もあとだった。このことがある程度理解できる文がキャシディの本には続いて載っている。
Two months later, more than 1800 listeners turned out to hear Heisenberg reveal the secret of the cosmos in the same auditorium on the occasion of Max Planck's one-hundredth birthday. During his highly technical talk, Heisenberg carefully wrote his new equation on the overhead projector in the darkened room:
([6] p. 542)
ハイゼンベルクは 2 月のゲッチンゲン大学での講義では式を具体的には明かさないで、名称だけを話したらしく、上の引用に記されている別の講義で式を書き記したのである。しかし、その講義が先の講義よりも 2 カ月後というのは、朝日新聞が式自体を報じた時期と合わない。あとの講義はプランクの生誕 100 年を祝うものだったということなので、その誕生日を調べると、4 月 23 日である [7]。これは上の引用文が "Two months later" と始まっていることと一致する。しかし、3 月 13 日付けの朝日新聞が 4 月 23 日の講義内容を報道し得るはずはない。プランクの生誕 100 年を祝う講義は誕生日より 40 日余り早めに行われたが、伝記作者のキャシディは、生誕を祝う講義ならば誕生日頃だったに違いないと想像して書いたということも考えられる。

 なお、ここに引用した宇宙方程式は、キャシディの著書にあるのと同じものをハイゼンベルクと若手の研究者らの共著論文 [8] からコピーした。この論文を知ったことは、さらにあとで述べる。

 ポーキングホーンの本にあるハイゼンベルクの講演内容の記述は、亀淵氏の紹介よりもやや専門的で、次のようになっている。
[Heisenberg] had conjectured a 'non-linear spinor equation', whose solutions he thought would correspond to the structure of matter as it was then known. Not only was his equation hard to work with, but in the course of the attempt use was made of the dangerous concept of an infinite metric, something which could result in the appearance of unphysical ghosts. ([4] p. 77)
これによれば、ハイゼンベルクがゲッチンゲン大学で大掛かりな講義をしたにもかかわらず、宇宙方程式はまだ欠陥のあることが明らかなものだったようである。

 キャシディの本からの最初の二つの引用にあるように、パウリはハイゼンベルクの当時の研究の協力者だったのである。それが、国際会議の場に至って、なぜ反逆的な態度に出たのだろうか。この点を次に見て行きたい。

 文献
  1. J. C. Polkinghorne, Rochester Roundabout: The Story of High Energy Physics, (W. H. Freeman, New York, 1989) p. 77.
  2. 多幡達夫「青春時代の日記から:大学生時代(5)」(2003) 、ウェブサイト IDEA and ISAAC 所収。
  3. D. C. Cassidy, Uncertainty: The Life and Science of Werner Heisenberg (W. H. Freeman, New York, 1991).
  4. Max Planck: Biographical in The Nobel Prize, the Web site of the Nobel Foundation.
  5. H. P. Dürr, W. Heisenberg, H. Mitter, S. Schlieder, and K. Yamazaki, "Zur Theorie der Elementarteilchen," Z. Naturf. 14a, 441 (1959).
(つづく)
(2020 年 7 月 25 日修正)

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2020年7月16日木曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -1- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -1-)

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『図書』誌掲載の亀淵氏のエッセイ
Kamefuchi's essay published in the magazine Tosho

1 はじめに

 最近、理論物理学者で筑波大名誉教授の亀淵迪氏によるエッセイ「英雄の生涯」[1] を読んだ。ここで英雄とは、彼の専門分野での二人の巨人、W. ハイゼンベルクと湯川秀樹を意味する。そして、著者が述べているのは、その英雄たちの晩年における悲劇についての、「目撃者としての証言」である。ハイゼンベルクについては、1958 年 7 月の CERN における「高エネルギー物理学国際会議」の席上で、座長のパウリが彼の講演 [2] に対し途中で激しく攻撃し始め、その研究を全面的に否定したという話である。湯川については、1967 年 8 月、ロチェスター大学での「場と粒子についての国際会議」で、彼が座長をしていたセッションで、彼の協力研究者 K が共著論文 [3] を発表する時に、聴衆の大半が席を立って退出したという話である。著者は英雄像を貶めることを懸念しながらも、真実を伝えることこそ肝要だと思い返して筆を執ったという。私のこの記事では、亀淵氏のエッセイに関連して、他の文献などから知ったことを幾つか述べ、考察も行う。

2 ハイゼンベルクの悲劇

2.1 ポーキングホーンの本にも

 亀淵迪氏は英雄たちの悲劇について、「世上、あまり語られることのないようなので」として書き始めている。しかし、私はハイゼンベルクついての同じ話を最近たまたまある本 [4] で読んだ。

 その本はイギリスの理論物理学者、神学者、英国国教会司祭であるポーキングホーンが、1950 年から 1980 年までの 20 回に及ぶ国際会議を記述することによって綴った、高エネルギー物理学の異色の歴史書である。その本の中でポーキングホーンは、パウリがハイゼンベルクの講演中にその内容を攻撃した言葉を会議録から引用して、亀淵氏のエッセイにあるよりもやや詳しく述べている。また、その記述の前のページには、ハイゼンベルクの講演に対するパウリの発言の一つ "No credits for the future" を添えて、その時のパウリの写真も載っている。そして、その話は、ハイゼンベルクに同情的な感想を含む次の言葉で締めくくられている。
It was a scene at once farcical and sad. Justification lay with the sceptical Pauli but Heisenberg was one of the greatest physicists of the twentieth century who should have been able to enjoy a more dignified close to his career. ([4] p. 77)

 この記事の読者の中には、物理学史の本に感情的な言葉が入っていることを不思議に思う人がいるかも知れないので、この本の性格について付言しておく。これは客観的記述の教科書あるいは無感情な学術書という性格の本ではなく、一般向け(といっても、主に科学に関心のある人たちが対象になろう。私も高エネルギー物理学を「趣味」とする者として読んだ次第である)に、やや砕いて書いた本で、会議の雰囲気や著名な学者たちの特徴も伝わって来る、楽しい読み物になっている。このような本書の性格は、題名と副題に "Roundabout"(「漫遊旅行」の意味がある)と "Story" の語がそれぞれ入っていることからも推定されよう。

2.2 座長パウリの暴挙

 座長のパウリは「講演者を差し措き自分が立ち上がって話し出す。しかもその言動は徐々に激しいものとなり、物理の会議では耳にしたことのないような罵詈雑言の限りを尽く」したという [1]。このような座長の振る舞いに抗議をする参加者はいなかったのか、という疑問を持つ向きもあろう。それに対する答えは、次のことから想像できそうである。亀淵氏のエッセイには、問題のセッションの初めに座長のパウリが「辛辣を持って鳴る彼らしく」、「別に新しいアイディアは何もないようですが、とにかく開会します」と前置きしたことが記されている。ポーキングホーンはこのパウリの前置きをもっと詳しく引用したあと、ここでも次のように私見を述べている。
It would be of no use waving your hands in front of him and expressing the hope that it would all work out right in the end. ([4] p. 77)
聴衆一同はすでにこの時点でパウリに一本取られており、辛辣さの発揮がたびたび有意義な効果をもたらしたことで有名なパウリに向かって、その暴挙に対する忠告を敢えて出来る参加者はいなかったのであろう。

 文献
  1. 亀淵迪、図書 No. 859, p. 18 (2020 年 7 月)。
  2. W. Heisenberg, "Research on the non-linear spinor theory with indefinite metric in Hilbert space" in 1958 Annual International Conference on High Energy Physics at CERN(CERN, Geneva, 1960) p. 851.
  3. Y. Katayama, "Space-time picture of elementary particles" in Proceedings of the 1967 International Conference on Particles and Fields, Ed. C. R. Hagen, G. Guralnik and V. A. Mathur (Interscience, New York, 1967) p. 157.
  4. J. C. Polkinghorne, Rochester Roundabout: The Story of High Energy Physics, (W. H. Freeman, New York, 1989).
 (2020 年 8 月 6 日修正)
(つづく)

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2020年6月20日土曜日

7 日間ブックカバーチャレンジ (Seven-Day Book Cover Challenge)

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「7日間ブックカバーチャレンジ」のために使った写真の集合。こちらをクリックすると全 7 枚を 1 枚ずつ順次見ることの出来るページにつながる。
Collection of photos used for "Seven-day book cover challenge." Clicking here, you can see all the seven images one by one.

 先月、Facebook 上の友人から、「7日間ブックカバーチャレンジ」のバトンを渡された。これは、読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、好きな本を 1 日 1 冊選び、本についての説明はしないで表紙画像を Facebook へ 7 日間投稿を続ける。その際、毎日 1 人の FB 友だちを招待し、このチャレンジへの参加をお願いする」というものである。

 なお、友だちの招待が困難な場合には、「"7日間ブックカバーチャレンジ" バトン手渡しページ」へ投稿をシェアすることによって招待に代えられる、という抜け道が用意されている。しかし、そのページは抜け道というより、チャレンジ参加者たちのよい交流の場になっている様子だったので、私は 2 日間だけ友だちの招待をしたが、7 日間全ての投稿をそこにシェアした。

 私が掲載したブックカバー画像は以下の本のものである。
  1. "Genius: The Life and Science of Richard Feynman" by James Gleick (Pantheon, New York, 1992)
  2. "Einstein: A Hundred Years of Relativity" by Andrew Robinson (Palazzo, Bath, 2010)
  3. 湯川秀樹自選集第五巻:遍歴(朝日新聞社、東京、1971)
  4. "Brief Answers to the Big Questions" by Stephen Hawking (John Murray, London, 2018)
  5. "Seven Brief Lessons on Physics" by Carlo Rovelli, transl. from Italian by Simon Carnell and Erica Serge (Riverhead, New York, 2016)
  6. 『対訳 万葉恋歌 Love Songs from the Man’yōshū』宮田雅之 Miyata Masayuki(切り絵 Paper cutouts)、大岡信 Ōoka Makoto(解説 Commentary)、リービ英雄 Ian Hideo Levy(英訳 English translation)、ドナルド・キーン Donald Keene(エッセイ Essay)(講談社インターナショナル、東京、2000)
  7. 『トム・ソーヤーの冒険』マーク・トゥエーン作、石田英二訳(岩波書店、東京、1946)
 「本についての説明はしない」という決まりは徹底していなくて、ある程度の説明を書いている人が多いようだった。そこで、私も 3 日目以後はごく短い説明を和英両文でつけた。こちらをクリックすると、7 日間の投稿画像を順次見ることの出来るページにつながり、それぞれの画像の右の説明欄にあるリンクから、各投稿(「"7日間ブックカバーチャレンジ" バトン手渡しページ」へシェアした形のもの)を説明文とともにご覧になれる。

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2020年6月6日土曜日

横光利一著『頭ならびに腹』を読む [Read Riichi Yokomitsu's "Atama narabini Hara (Head and Belly)"]

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青空文庫版『頭ならびに腹』
Aozora Bunko version Atama narabini Hara

 私が高校 1 年の時に習った国語の K 先生は、「"沿線の小駅は石のように黙殺された。" これが新感覚派」と、授業時間中に何度も繰り返し述べた。「沿線の小駅は」までと、それが横光利一の文であることは覚えていたが、その文の出て来るのが短編小説「頭ならびに腹」の冒頭であることや、その冒頭が次の通りであることを知ったのは、定年退職してから 6 年近くも経った 15 年前のことだった[文献 1]。
 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
 最近、この文に再び出会った[文献 2]。文献 2 の著者は、この文とあわせて、新感覚派を含めて当時流行の文芸表現を批判した青野季吉の文を引用している。横光利一の文については、次のように紹介している。
 […]擬人化や暗喩を用いて「高速時代」というモダン語が重視した「速度感」が示されている。この短編が掲載された『文芸時代』(1924 年 10 月号)を評して千葉亀雄は「新感覚派」の誕生(『世紀』1924 年 11 月号)と呼び、新たな文芸表現を担う世代の到来を告げた。
 この機会にと思い、青空文庫版『頭ならびに腹』[文献 3]の XHTML ファイルをダウンロードして読んだ。ダウンロードしたファイルは、ワープロソフトの A4 サイズ文書ファイルへコピーした。16 ポイントの大きな文字で 5 ページ強の短さである。

 物語は、特別急行列車が線路の故障のため駅間で停車し、乗客らがイライラした顛末を描いたものである。「頭」は乗客の一人の「横着さうな子僧」を意味し、「腹」は同じく乗客の中の「肥大な一人の紳士」を意味している。100 年近く前の作品であるが、今でも似たような情景が展開しそうな話である。

 冒頭の「沿線の小駅は石のように黙殺された」に呼応して、列車が停車したところで、「動かぬ列車の横腹には、野の中に名も知れぬ寒駅がぼんやりと横たはつてゐた」という文がある。「駅がぼんやりと」しているのも新感覚であろう。また、「子僧」が空虚になった列車の中で相変わらず歌を歌っていたところの表現に、「眼前の椿事は物ともせず、恰も窓から覗いた空の雲の塊りに噛みつくやうに、口をぱくぱくやりながら」というのもある。しかし、期待したほど「新感覚」という感じの作品ではなかった。時代の変化がもたらした感覚の相違のせいだろうか。

 文献
  1. 横光利一『機械』の評を読む、Ted's Coffeehouse 2(2005 年 1 月 7 日)。
  2. 山室信一、「モダン」への終わりなき旅路、『図書』No. 858、p. 40(2020 年 6 月)。
  3. 横光利一、『頭ならびに腹』、青空文庫版(2001 年 12 月 10 日公開、2006 年 5 月 19 日修正)。

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2020年6月2日火曜日

歌う催しとの出会い 3 (My First Experience of Singing Events -3-)

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ふじ丸内での皆で歌う催しの会場風景。
Scenery of the singing event at Fuji Maru.

 先の二つの記事で述べた、にっぽん丸によるクルーズよりも先に経験していたクルーズは、ふじ丸で横浜を出発し、礼文・利尻両島を訪れるもので、私たちが参加したのは 1999 年 6 月のことだった。その時の写真や資料を探しても、なかなか出て来なかったが、まず見つかったのは、妻が書いている「5 年間日記」中の記述である。

 その日記帳は 1 日当たり 5 行のスペースしかなく、記述は至って簡潔である。歌う催しについて書いてあるのは、乗船 2 日目の 6 月 16 日(水)に 11:15 から塩野雅子さんの指導で「みんなでうたいましょう」があったことと、6 日目の 20 日(日)に同じ催しの 2 回目があったということだけである。17 日(木)と 18 日(金)にそれぞれ利尻と礼文に上陸して散策し、20 日 15:45 にはもう横浜港に帰着している。なお、塩野雅子さんは、童謡のアルバムをたくさん出している方のようである。

 次節に記す写真アルバムの中には、クルーズ中の毎日のスケジュールのプリントも挿入して残してあり、それによれば、16、20 日ともに時間は 11 時 15 分から 12 時まで、会場は 3 階ラウンジ「エメラルド」とあり、16 日には日本の名歌を歌ったことになっている。ピアノ伴奏者として、蓮沼万里さんの名がある。インターネットで調べると、ウィーン世界青少年音楽祭アンサンブルコンテストにピアニストとして参加し、2位入賞した方である。

 「5 年間日記」中の記述に次いで見つかったのは、ふじ丸クルーズの写真と、同じ年に参加した JTB の「旅物語:九州一周 4 日間」の写真を、妻が整理して収めたアルバムである。それは、納戸中の段ボール箱の中にあったが、もとは一緒にあった多くのアルバムを時折見やすいように取り出してしまっていたので、忘れられた存在のようになっていた。

 上掲の写真は、そのアルバム中にあった、ふじ丸クルーズでの「みんなでうたいましょう」の会場風景を私が撮ったものである。前回の記事に私の記憶として記したように、にっぽん丸での会場に比べて、より明るい部屋で、椅子は簡便型である。ただし、記憶では、会場は学校の講堂のように飾り気がなく、椅子もベンチのようななものに変わっていた。客船の豪華な雰囲気に慣れていない身としては、かつて見慣れた学童・生徒時代の雰囲気へと、記憶が自然に変化してしまうのかもしれない。

 ふじ丸クルーズでの歌う催しのプリントが残っていないのは残念である。それにしても、私が歌好きになった一番のもとは、2 回のクルーズ中で参加した皆で歌う催しにあったことが明らかになったのはよかった。その後、鮫島有美子が日本の名歌を歌っている CD と出会ったことが、さらに拍車をかけてくれたのだが、その詳細はいずれまた記したい。(完)

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