2007年1月17日水曜日

パイ中間子の質量推定

 湯川博士が存在を予言したパイ中間子の質量は、ハイゼンベルクが見出した不確定性原理を使って推定できるという話がいろいろな本(例えば [1])に書かれている。私は長年、湯川博士はそういう考え方でパイ中間子の質量を予想したものと思い込んでいた*。

 ところが、このたび「湯川秀樹を研究する市民の会」で、湯川博士の中間子論第1論文を勉強して初めて、その論文の中では、運動量とエネルギーに対する量子力学的演算子の関係をクライン-ゴルドン方程式に代入したものと、エネルギーと運動量の間の相対論的関係式の比較から推定していることを知った。そもそも、クライン-ゴルドン方程式は、この相対論的関係式から湯川博士が行なったのと逆の代入で導くことができ、前者の中の定数λは、その導出から 2πmc/h (m は粒子の質量、c は光速、h はプランクの定数)と決まるので、わざわざ比較する必要もなさそうである。しかし、当時はこのことが明らかでなかったので、こういう手続きを踏んだのであろう。

 そこで、不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定は、湯川博士自身がのちに考えたのか、誰か他の人が考えたのか、という疑問が生じ、いくつかの本をあたってみた。ボルンの原子物理学の本 [2] には、中間子論がかなり詳しく紹介してあるが、パイ中間子の質量については、湯川博士の論文に近い記述になっている。セグレの原子核と素粒子に関する本 [3] を見たところ、「Wick (1938) による」として、不確定性原理による質量の導き方を記してあった。

 これで疑問は解けたが、Wick の文献は引用されていない。私信の類いだったのかも知れない**。ただし、セグレの本の中に G. C. Wick という名は、中性子・陽子散乱から交換力の存在を指摘したこと(1933年という意外に早い年である)や、「原子核物理学における不変原理」という総説論文 [4] によっても登場している。

 また、同じセグレによる物理学の歴史に関する本 [5] の第12.1図(湯川博士が1948年にバークレーを訪ねたときの写真)には、フェルミ、セグレ、湯川、そして Wick が並んで写っていて、その付近のページに、やはり不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定が「湯川の議論を簡単化した説明」として記されている。

 後日の追記:「湯川秀樹を研究する市民の会」のMさんから、朝永博士の著書 [6] にも不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定が説明してあると教えて貰った。私は朝永博士のノーベル賞受賞の年に発行されたその本の新装版をすぐに買って読み、いまも持っているが、同書の最初の文「原子核の理論」(初出の出版物は未詳、1941年。[7] にも収められている) の中への[追加]として、その説明が記されていたことは、全く覚えていなかった。1941年といえば、セグレが引用している Wick の説明より後であり、説明文もよく似た流れになっている(より丁寧で教育的な感じはするが)ので、朝永博士は Wick の説明を知って、それを紹介したのかと思われる。

 さらに後日の注記:
 * たとえば [8] にも、"In formulating his theory, Yukawa used Heisenberg's Uncertainty Principle ..." と誤って記されている。
 ** 文献 [9] であることが分かった(詳しくは [10] を参照されたい)。

  1. 原康夫著, 素粒子物理学 (裳華房, 2003).
  2. M. Born, Atomic Physics, 8th edition (Dover, 1989; first edition published by Blackie & Son in 1935).
  3. E. Segrè, Nuclei and Particles, 2nd edition (W. A. Benjamin, 1977).
  4. G. C. Wick, Ann. Rev. Nucl. Sci. Vol. 8, p. 1 (1958).
  5. E. Segrè, From X-Rays to Quarks: Modern Physicists and Their Discoveries (Freeman, 1980).
  6. 朝永振一郎, 量子力学的世界像 (弘文堂, 1965).
  7. 朝永振一郎著作集 8 量子力学的世界像 (みすず書房, 1982; 新装版 2001).
  8. M. Riordan, The Hunting of the Quarks, p. 45 (Simon & Schuster, 1987).
  9. G. C. Wick, Nature, Vol. 142, p. 994 (1938).
  10. 核力の到達距離, Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月30日).

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