2007年1月26日金曜日

場と量子のどちらが主か

 湯川博士の中間子第1論文 [1] の第3章は "Nature of the quanta accompanying the field" と題されている。「湯川秀樹を研究する市民の会」の勉強会で、これを「場に伴う量子の性質」と訳していることに、私は疑問を持たなかったが、さる21日の定例会の後で、Eさんが「場を伴う量子の性質」がよいのではないか、とグループメールで提案した。「場に伴う量子」といえば、場が主で量子は従だが、「場を伴う量子」といえば、量子が主で場は従となる。Eさんの提案理由は、量子あっての場であり、湯川博士も量子に重点をおいていただろう、ということである。

 確かに、湯川論文は電子の約200倍の質量を持つ、当時未発見の量子(中間子)が核力を媒介しているだろうという画期的な提唱をしたのである。また、場は古典物理学以来の概念であるのに対し、素粒子の運動を支配する量子力学の、「量子化」という操作をすれば、場に粒子像が現れる。したがって、極微の世界では量子が主役ともいえる。念のため、片山泰久訳 [2] の中間子第1論文を見ると、Eさんの提案のように「場を伴う量子」となっている。

 しかし、"A accompanying B" という英語の句では、Bが主でAは従の役割を持つ。つまり、これは「Bに付随するA」を意味する。Bは accompany という動詞の目的語であるが、英語の目的語を日本語にするとき、「~を」という表現になるとは限らない。

 湯川論文は量子力学が誕生してまだ年数の浅い時期に書かれたものであり、「場に付随する量子」といういい方に抵抗はなかったであろう。というよりも、核力の場に未知の量子が関係しているだろうということ自体、他の誰もが考えおよばなかった時代だったのだから、場が主であって不思議はない。

 さらに、湯川論文は、まず、第2章において「相互作用を記述する場」を論じ、いわゆる湯川ポテンシャルを半古典的に導き出している。そして、「その場を量子化したときに出てくる粒子」を議論するための第3章が続くのである。この流れを見ても、「場に伴う量子」と見るのが自然であろう。したがって、原文に忠実な訳は「場に伴う量子」でなければならない。

 このような私の考えをメールで書き送ったところ、Eさんは湯川論文を再度読み直して、賛同してくれた。

 私はその後、湯川博士の半生の自伝『旅人』の中に、「核力の場に付随する粒子を、既知の素粒子――新しく登場した中性微子をも含めた既知の粒子の中に、さがし求めることはやめよう」という文があることに気づいた。これは、「に」と「を」の選択上の、決定的な材料であろう。「場を伴う量子」という片山訳は、ちょっとした誤訳ということになる。

 なお、場とその量子の密接な関連が明らかとなった現在においては、「場に伴う量子」でも「場を伴う量子」でもなく、単に「場の量子」と書くのが普通であろう。

  1. H. Yukawa, On the interaction of elementary particles. I. Proc. Phys.-Math. Soc. Japan, Vol. 17, pp. 48-57 (1935).
  2. 片山泰久訳, 素粒子の相互作用について I,『湯川秀樹自選集 第二巻』p. 261-276 所収 (朝日新聞社, 1971).

0 件のコメント:

コメントを投稿