2012年4月4日水曜日

文学の文、科学の文 (Literary Writing and Scientific Writing)

[Abstract] Literary writing can include ambiguous expressions that might be understood in different meanings by different readers. Scientific writing, on the other hand, should be unambiguous all through the work. Such differences are explained by comparing an essay written by the Nobel-prize winning author Kenzaburo Oe and the outline of the same essay written by me in a scientific style. (Main text is given in Japanese only.)

 文学作品中の文は、読者によって解釈が異なるような多義性をはらんでいることが許される。あるいは、そうした表現を多く含む作品ほど、優れているということがあるかも知れない。他方、科学論文の文章は、一貫して一義的でなければならない。二義にまたがるあいまいな表現をとりあえずしておき、後の文でそのうちのどちらと解すべきかが分かるような書き方さえ、慎まなければならない。他の研究者が文を行きつ戻りつしながら理解しなければならないような論文は、よい論文とは見なされず、無視される結果となる。大江健三郎氏の『図書』誌に連載中のコラム「親密な手紙」の2012年4月号分「心ならずも」(p. 31) を読んで、文学の文と科学の文の、この相違をしみじみと感じた。

 「心ならずも」に書いてある話を、私の科学論文調の要約で紹介すれば、次のようになる。

 さる二月半ば、加藤周一と凡人会による読書会記録の本『ひとりでいいんです』(講談社)の第二刷見本が送られて来た。私がその本の第一刷を買って読んだとき、編集者に葉書を出し、気づいたことを指摘しておいたからである。

 指摘したのは、加藤氏が戦中に出入りしていた渡辺一夫先生宅の玄関にあるラテン語の詩句の木彫りレリーフ([木彫りは]渡辺先生の製作)を解読した文中の、少しズレた解釈の部分についてであった(その箇所は、加藤氏の説明をノートした人の文であり、氏はゲラを見ていないので、ズレたままになったのであろう)。

 詩句の解釈は「できれば憎みたい/さもなければ/反対に/愛するだろう」となっていたが、「反対に」に対応するラテン語の単語を、渡辺先生は「心ならずも」と訳されたことがある。それは、私の所有するラテン語・英語辞書にそのような訳のあることを[私があるところに]書いて、渡辺先生がそれを受け入れて下さったことによる[のであり、この本でもそうすべきと思ったのである]。

 渡辺先生がこの一節に何を託していたか、つまり何を憎み何を愛そうとしていたのかについて、「当時の先生を知っている」加藤氏は、「日本」あるいは「日本人」だと思う、と説明している。[この意味でも、「心ならずも」が適切であろう。]

 [さらに、次のこともぜひ付記しておきたい。]この本のタイトルは、加藤氏が広く深い経験に基づいて、外国に本当の友人が一人おれば、抽象的でない強いつながりが開けると確信したことをいい表している。


 原文には、話題になっている本の始めにある「十五年戦争」の要約に加藤氏の語り口がいかに優れているかが現れていることの紹介と、「いま私の仕事部屋におあずかりしている」渡辺先生のレリーフの詳細との、二つの話が含まれているが、私の概要では省略した。[]内の部分は要約にあたっての補充である。この程度の補充部分は、省略されていても理解は出来るが、科学論文では、相続く文の間での論理的関連性が重要であり、省略してはいけない。より大きな相違は、私が大江氏の文を二、三回読み返して初めて理解し得た内容を分かりやすい形に書き直したいくつかの箇所などにある。それらについて、原文の構成をたどりながら、以下に説明する。

 大江氏の原文は、「二月半ば、届いた郵便物のなかに、すでに寄贈されて読んだ記憶の確かな本があり」と始まる。この直後の長いカッコ内の文で、実は寄贈されたのでなく、買って読んだことが、「反・原発のデモが渋滞に進めなくなった道の脇の書店に平積みされていた三冊を買って、周りに配ったほど感銘していた」と明かされる。これは文学としては面白いが、科学の文の場合には、理解の到達点で整理した形で書くべきで、個人的な思い違いの歴史などを含めるべきでない。

 カッコ入りの説明に続いて、「発送の重複かと包み直しているとカードがこぼれ落ちた」とあって、ここで最初の文が終わる。買って読んだことをカッコ内で明かした後で、「発送の重複」の言葉が出て来て、しかもカッコ内には「周りに配った」という言葉もあるので、読者は、氏から誰か一人宛の発送が重複していたので一冊が戻って来たということかと一瞬思わされる。しかし、「発送の重複」はカッコの前の言葉に続くものであることから、これは、大江氏宛の寄贈が重複したことを意味しているはずである。科学の文ならば、このような戸惑いを読者に与えることは禁物である。

 大江氏の第二の文は、こぼれ落ちたカードに、「指摘された箇所を訂正しました、二刷の見本です、とある」というもので、これで第一段落が終わる。本の著者と題名という、話題の中心についての重要な情報は、第二段落にいたって初めて示される。私の要約では、最初の文にこれらをまず書き込んだ。これも文学の文と科学の文の相違である。

 第二段落は、「加藤周一・凡人会の名が対等に並ぶ書名の、読書会の記録『ひとりでいいんです』(講談社)に、私が何を指摘しえたかと、アワテて読み直すうち、見当はついたが、」と始まる。そして、要約では省略した加藤氏の語り口の優れている例までが、一つのセンテンスにつながっている。続いて、その例の現れている文の引用があって、第二段落が終わる。一つのセンテンスに、直接的には無関係な二つの内容を盛り込んで、横道へそれることも、科学論文では避けなければならない。

 第三、四段落では、大江氏が講談社の編集者に葉書を出した理由を説明している。第三段落に次のようにある。「先生製作のレリーフがあって、とラテン語の詩句の解読がしてあるところについて。」このあと、ラテン語の詩句とその和訳が続く。ここで、「先生製作のレリーフ」とは、ラテン語の詩句も含めてのことかどうかがはっきりしない。ここよりもあとの文を読んでようやく、詩句は引用らしいと察せられる。話題の対象をいささかぼやかしたまま登場させることも、科学論文ではあってならない。そこで、要約では、レリーフの登場時点で、木彫りのみが渡辺先生によるものであることを明らかにした。

 第四段落において、大江氏の指摘点は第三句目であって、そのラテン語単語を渡辺先生が「心ならずも」と訳されたことがある、と述べる。この訳がなされた経緯として、「自分の小さなラテン語・英語辞書では、against one's will, reluctant. とある、とも書いて、それを受け入れてもらったのだ」という説明が続く(reluctantly が正しいかと思うが)。ここで私は、「自分の小さなラテン語・英語辞書」が、大江氏の所有する辞書のことか、あるいは氏が作成した辞書のことかと迷った。注意して読めば、「とある」の言葉が「所有する辞書」を示していると分かるのだが、「書いて」がどこに何を書いた折かが明示されていないので、ふと、"against …" は、辞書に大江氏自身が書いた意味かと思った次第である。要約では、読者にこのような迷いの出ない書き方にした。

 第五段落は要約で省略した木彫りレリーフの構造と文字の話で、第六段落は,要約では「(その箇所は、…ズレたままになったのであろう)」とカッコ内に収めた説明と、渡辺先生がこの詩句に何を託したかに関する『ひとりでいいんです』の文の引用の前置き、「本文にはこう語られている」とで構成されている。続く第七段落は、引用だけから成り立っている。これは段落の区切り方としては奇妙だが、随筆を一ページに収めるためのやむを得ない手段かも知れない。第八段落は、要約では「さらに、次のこともぜひ付記しておきたい」という導入文(論旨上の位置づけ)を加えて紹介した『ひとりでいいんです』の意味についての一センテンスからなっている。

 以上、大江氏の文が、科学論文としては落第であるような書き方をしたが、氏の文はあくまでも文学であり、この小論は、氏の文が文学分野のものとして欠陥を有することを意味するものでは決してない。ただ、大江氏の文はいささか読みづらいと思う読者がかなりあるとすれば、その一因として、例示したような、科学の文からの大きな隔たりを挙げることが出来るかも知れない。

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