2015年5月20日水曜日

2015年3月13日~4月27日分記事への M・Y 君の感想 -3- (そして、M・Y 君の戦中・戦後体験)(M.Y's Comments on My Blog Posts from March 13 to April 27, 2015 -3-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


アヤメ。2015 年 5 月 8 日、堺市・中の池公園で。
Siberian iris; taken in Nakanoike Park, Sakai, on May 8, 2015.

2015年3月13日~4月27日分記事への M・Y 君の感想 -3-

3. ホームージの引越し
 1998 年 12 月に開設した私のホームページは、NTT コミュニケーションズの "Page On" というサービスを利用していたものだが、さる 2 月末で、そのサービスが終了となった。経過措置として、5 月末まではアクセス可能にしてあるとのことである。しかし、私は 3 月末に新しいホームページへの転送サービス(1 年間有効)を申し込んだので、さる 9 日から、インデックス・ページへアクセスすると引越し先のインデック・スページ(http://ideaisaac.web.fc2.com)が出るようになった。[…略…]引越し先では、ページ数を減らし、カウンターを置くのはインデックス・ページだけにしておこうかと思っている。
以上のように述べられています。引越し先へのリンクをクリックして見ると、アクセス・カウンターが "1867 since Oct 3, 2014" となっていました。インデックス・ページから色々の項目を引き出してみました。ホームページ・サイトは概してうまく移転出来ているようです。ただ、"Photos and Pictures" の範ちゅう内では、"Italy" 以外は FC2 ホームページにつながり、「ご指定のファイルが見つかりませんでした」とのエラー・メッセージが出ました。[引用者の注:引越しはまだ未完なので、インデックス・ページ上部に「注意:本サイトは目下改修中のため、目次等のリンクは必ずしも全ては働いていません」と記してあります。]

4. 兄の半ズボン
明 3 月 14 日から北陸新幹線の長野・金沢間が開業するので、私の郷里・金沢が最近何かと TV で取り上げられている。さる 10 日には、NHK BS プレミアムの番組『世界ふれあい街あるき』が金沢を扱っているのを見た。金沢出身の俳優・鹿賀丈史氏が案内していて、彼の出身校である材木町小学校も訪れていた。私は幼時に、その近くに 2 年ほど住んでいたのである。町名は又五郎町といったが、現在は材木町に編入されている。
と筆者は話題性のある金沢・東京間新幹線開業から書き始め、幼時に住んでいた町での、兄と「勝って来るぞと勇ましく…」と歌った戦時中の幼児の遊びと、兄の半ズボンの思い出を述べ、敗戦後の物資不足時代に、その兄の半ズボンを下ばきに使っていたために起こった失敗談をユーモラスに語っています。そして、「兄の嫌った兵隊が、憲法9条改悪によって、この国に再び生まれないことを切に望んでいる」と、平和を愛する筆者の切なる願いで結ぶ、巧みな構成の文に仕上げています。興味深く拝読しました。結びの言葉に賛同する意味で、私の戦争末期から敗戦直後の苦労について以下に述べます。

 日・独・伊三国同盟のうち、イタリアのファシスト党ムッソリーニ首相の 1943 年 7 月辞任、逮捕、幽閉に続いて、日本がサイパン島玉砕したことを、父は深刻に受け止め、1949 年 9 月初めに、私たちが生まれ育っていた上海から、母と子供たちを一時日本に疎開させる決心をしました(結果的には引き揚げとなりました)。南京、天津、満州をかすめ、鴨緑紅、京城、釜山と鉄道で、釜山から関釜連絡船で(8 時間、浮遊機雷に当たって沈没することがないようにと祈りつつ)下関に上陸し、別送も含め一時しのぎの荷物を持って約 5 日間かけ、日本の親戚の家にたどり着きました。

 父は家を買い求めた後(人が住んでいた家だったので、空くまで半年ほど待ちました)、再び上海に帰り、1945 年 7 月に徴兵免除ぎりぎりの老兵として現地招集され、南京の部隊にいるとの手紙が来ました。その後は、1946 年春まで消息がなく、母は大変心配していました(これが無条件降伏の実態です)。上海では食料、衣服など物資は豊でしたが、日本ではすでに物資不足(箪笥などは買えましたが、衣料など日常必要なものは店で売っていませんでした)、食料は統制(末尾の注参照)がかかり、配給で、米のご飯はたまにしか食べられず、おかゆや代用食で空腹をがまんしながら、学童は「戦意高揚」に励んでいました。

 上海の国民学校では質実剛健にしつけられ、冬の寒い日でも外套着用は一般的に許されず、半ズボンにすねの下までの靴下で、寒さに耐えながら通学していました。気温は日本と大同小異だったと思います。雪が積もる日本の生活は初めてで、長靴がなくて大いに苦労しました。日本では、冬には低学年児童でも長ズボンを履き、外套の着用は許されていました。しかし、長ズボンを買おうにも品物がなく(あったとしても人絹—Staple Fiber を略してスフと呼んでいましたが—のもので、履いて 1 週間足らずで、すねのあたりから破れてくる代物です)、母が半ズボンに布切れをついで仕立て直した長ズボンをはいていました。

 敗戦色が濃くなった 1944 年後半、レイテ決戦で敗れた日本の国内では、急速に物資不足・食料難になりました。食料については 1945 年から 46 年は惨たんたるものでした。米の配給は微々たるもので、大豆、トウモロコシなどは手に入り難く、春はジャガイモ、秋はサツマイモをよく食べました。ジャガイモはまだ主食代わりにはよく、サツマイモは秋の出たての頃は甘くておいしく食べましたが、1 週間も続くとあきてしまい、仕方なしに食べていました。敗戦まで、神戸から集団疎開してきた学童が、旅館に分宿し、学校には 2、3 室を与えられて、通学していました。彼らは「勝利の日まで」という歌を歌いながら、親から離れて暮らす寂しさや食料難に耐えていました。

 敗戦後2年目に、小学生対象に米軍から脱脂粉乳が放出され、週一回、午前の授業が終わった時に先生が、新しいバケツに入ったミルク約 300 cc を丸い金属のボールに配ってくれました。また、米国から無償供与された小麦によるコッペパンが時々配られました。この脱脂粉乳ミルクやコッペパンがいかにおいしく感じられたことか。次第にミルクの支給の回数が増え、ミルクに切り刻んだ大根が入るようになりました。これが現在の小学校の学校給食の起源です。また敗戦後、米国から慈善で提供された衣類の配給があり、体に合うように仕立直して使用しました。他の人々に比べ引き揚げ者ゆえの苦労が多かったようで、このような困窮度はその地方の平均的なものではなかったと思います。

 筆者の「兄のズボン」を読んで間もなく、UNICEF の日本の事務局から「あなたはずっと以前から UNICEF に寄付をして下さっているが、動機は? という質問などを含む、電話によるアンケートがありました。私は「敗戦直後の食料・物資難の時に米国から放出された脱脂粉乳のミルクが大変おいしかった。国の紛争によって餓えている子供たちに、貧者の一灯に過ぎないが、時々寄付をしている」と伝えました。5 月 3 日付け朝日新聞に、論説主幹・大野博人氏は「連帯なき『「積極的平和主義』」と題し、以下のように重要な指摘をしています。
 安倍晋三首相は米議会演説で日本の「新しい旗」として[「積極的平和主義」についての "proactive contribution to peace" という]英訳語を繰り返した。国際社会に「平和への貢献者」と宣言したわけだ。紛争が起きる前に、あるいは起きてしまったら事態が破局的になる前に、平和を取り戻すための先手を打つ。国際社会はどんな「貢献」を期待するだろうか。まず思い浮かぶのは各地で会った「難民」や「避難民」の姿だ。[…]難民への姿勢は、「積極的平和主義」のほんとうの姿をあぶり出しているように見える。米国との軍事的一体化、[…]その延長線上で憲法を改正しても、日本は「積極的平和主義」という旗の下、ゆがんだ「一国主義」の国になるだけだろう。

 注:米はヤミで農家から買うことはできたが(ヤミ米)、家に持って帰るとき警察官に見つかれば、量が多い場合には警察署へ同行を求められ、少量なら没収さるかそのまま通された。農家から町へ通じる橋には、昼夜警官の見張りが厳しかった。ヤミ物資に手を付けなかった裁判官が戦後餓死した例もあった。

 付記:教科書の墨塗り作業 敗戦後、学校の先生は軍国教育から民主教育者に一変した。子供心にもあまりよい感じはしなかったが、仕方がないことだと受け止めた。1945 年 11 月頃から、学校の授業時間に、児童が先生と一緒になって全ての教科書について戦争に関する文章や単語(飛行機まで含め)に至るまで、精査し墨で塗りつぶした。進駐軍の士官が時々視察にきて教室を見回っていた。このように、今まで教わった軍国主義教育の結果を自らリセットすることが民主教育にいたる学校教育の出発点であった。教科書が使用不可能になってしまった後、新年度になるまでの授業で何をしていたかについては記憶がない。(完)

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