秋になお咲き続けるわが庭のコエビソウ。2018 年 10 月 28 日撮影。
Shrimp plant which still keeps blooming in autumn; taken in our yard on October 28, 2018.
戦後間もないプロ野球 3
私は中学生時代に 1948〜49 年頃の阪急ブレーブスの監督や選手たちのブロマイド(スターなどの肖像写真。ブロマイド紙を用いたところからいう。なまって「プロマイド」とも——デジタル大辞泉による)を何枚か持っていた。私自身が店で求めたことはなく、どれも、私が阪急ファンであることを知った級友たちから貰ったものだった。数学が得意だった私が数学の問題の解き方を教えたお礼として貰った、ということもあっただろうか。
彼らはどういう店でブロマイドを入手したのだろうかと思って、インターネット検索をしてみると、「懐かしのプロ野球選手のプロマイド」というウェブページが見つかった。そこには、私とほぼ同年代の人が「大好きな選手の写真が当たるまで駄菓子屋で籤を引いては集めた」という、主に 1949 年のコレクションが掲載されている。駄菓子屋で籤を引いたのであれば、阪急ファンでない級友たちが阪急の選手たちのブロマイドを持っていて、私にくれたということが納得できる。しかし、元手がかかっているのだから、交換条件なしで私にくれた級友たちは、いかにも寛大だったのである。
上記のウェブページには、ジャイアンツ、タイガース、ホークス、その他、に分けてブロマイドを掲載してあり、残念ながら阪急ブレーブスの部はない。ただし、前の記事で述べた戸倉勝城選手の、阪急へ来る前に 1 シーズンだけ所属した毎日オリオンズ時代(1950 年)の写真が、その他の部にある。
私が集めたブロマイドは、いつの間にかなくしてしまった。記憶にあるのは、浜崎真二監督が西村正夫助監督と並んでダグアウト前に立っているもの、投手では今西錬太郎(この名は高校野球 100 回目の今年、朝日新聞が夕刊に連載した記事「白球の世紀」に、何回にも渡って登場した。「巨人キラー」と呼ばれた話が第 75 回にある)、天保義夫(今西と共に「巨人キラー」といわれた)、野口二郎(投げては「鉄腕」といわれ、打撃でも活躍した)、捕手では日比野武、野口明(二郎の兄)、内野手では、中谷順次(本名は準志)、平井三郎、宮崎剛、外野手では玉腰忠義、古川清蔵、といったところである。友人から借りて読んだ野球雑誌に「若いカモシカの魅力」と評されていた記憶のある内野手・川合幸三や、へそ位置での捕球で「ヘソ伝」として知られた外野手・山田伝もいたが、私は彼らのブロマイドは持っていなかった。上記の選手の名前は、すべてウィキペディア「オリックス・バファローズの選手一覧」のページの「退団・移籍した選手」の項に記載されており、各個人のウィキペディア・ページへのリンクも付けられていて、当時をしのぶのになかなか便利である。
終戦から 4 年目の 1949 年、日米野球が 16 年ぶりに再開した。3A ウエストコースト・リーグのサンフランシスコ・シールズが来日し、日本チームと 7 試合の対戦をした。当時の日本プロ野球には川上哲二、藤村富美男、別当薫、小鶴誠らの強打者や、別所毅彦、藤本英雄、ビクトル・スタルヒンらの好投手がいたが、シールズに全く歯が立たず、全敗している。2014 年に野球日本代表(侍ジャパン)の強化試合として行われた MLB オールスターズとの対戦結果が、日本チーム(侍ジャパンの他に、阪神巨人連合も対戦)の 4 勝 3 敗だったことと比べると、文字通り隔世の感がある(「熱烈歓迎! 戦後初めて来日した米プロ野球チーム、果たして勝負の行方は?」、ウィキペディア「日米野球」参照)。(完)
私は中学生時代に 1948〜49 年頃の阪急ブレーブスの監督や選手たちのブロマイド(スターなどの肖像写真。ブロマイド紙を用いたところからいう。なまって「プロマイド」とも——デジタル大辞泉による)を何枚か持っていた。私自身が店で求めたことはなく、どれも、私が阪急ファンであることを知った級友たちから貰ったものだった。数学が得意だった私が数学の問題の解き方を教えたお礼として貰った、ということもあっただろうか。
彼らはどういう店でブロマイドを入手したのだろうかと思って、インターネット検索をしてみると、「懐かしのプロ野球選手のプロマイド」というウェブページが見つかった。そこには、私とほぼ同年代の人が「大好きな選手の写真が当たるまで駄菓子屋で籤を引いては集めた」という、主に 1949 年のコレクションが掲載されている。駄菓子屋で籤を引いたのであれば、阪急ファンでない級友たちが阪急の選手たちのブロマイドを持っていて、私にくれたということが納得できる。しかし、元手がかかっているのだから、交換条件なしで私にくれた級友たちは、いかにも寛大だったのである。
上記のウェブページには、ジャイアンツ、タイガース、ホークス、その他、に分けてブロマイドを掲載してあり、残念ながら阪急ブレーブスの部はない。ただし、前の記事で述べた戸倉勝城選手の、阪急へ来る前に 1 シーズンだけ所属した毎日オリオンズ時代(1950 年)の写真が、その他の部にある。
私が集めたブロマイドは、いつの間にかなくしてしまった。記憶にあるのは、浜崎真二監督が西村正夫助監督と並んでダグアウト前に立っているもの、投手では今西錬太郎(この名は高校野球 100 回目の今年、朝日新聞が夕刊に連載した記事「白球の世紀」に、何回にも渡って登場した。「巨人キラー」と呼ばれた話が第 75 回にある)、天保義夫(今西と共に「巨人キラー」といわれた)、野口二郎(投げては「鉄腕」といわれ、打撃でも活躍した)、捕手では日比野武、野口明(二郎の兄)、内野手では、中谷順次(本名は準志)、平井三郎、宮崎剛、外野手では玉腰忠義、古川清蔵、といったところである。友人から借りて読んだ野球雑誌に「若いカモシカの魅力」と評されていた記憶のある内野手・川合幸三や、へそ位置での捕球で「ヘソ伝」として知られた外野手・山田伝もいたが、私は彼らのブロマイドは持っていなかった。上記の選手の名前は、すべてウィキペディア「オリックス・バファローズの選手一覧」のページの「退団・移籍した選手」の項に記載されており、各個人のウィキペディア・ページへのリンクも付けられていて、当時をしのぶのになかなか便利である。
終戦から 4 年目の 1949 年、日米野球が 16 年ぶりに再開した。3A ウエストコースト・リーグのサンフランシスコ・シールズが来日し、日本チームと 7 試合の対戦をした。当時の日本プロ野球には川上哲二、藤村富美男、別当薫、小鶴誠らの強打者や、別所毅彦、藤本英雄、ビクトル・スタルヒンらの好投手がいたが、シールズに全く歯が立たず、全敗している。2014 年に野球日本代表(侍ジャパン)の強化試合として行われた MLB オールスターズとの対戦結果が、日本チーム(侍ジャパンの他に、阪神巨人連合も対戦)の 4 勝 3 敗だったことと比べると、文字通り隔世の感がある(「熱烈歓迎! 戦後初めて来日した米プロ野球チーム、果たして勝負の行方は?」、ウィキペディア「日米野球」参照)。(完)