2005年7月5日火曜日

雨中のアジサイ / 兄弟がいないということ


雨中のアジサイ

 写真は、一昨日のブログに記した千早赤坂村のレストラン「山燈花」の庭園。多彩なアジサイの花が雨の中でひときわ艶やかだった。

兄弟がいないということ

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月23日(火)晴れ

 M 新聞 K 支局長だった(次の仮定が真ならばこの過去形は正しいだろうが、そうでなければ、現在形にしなければならない。けれども「である」と書けば次の言葉が書けない。昨日書いた h と v のような関係だ)Y・T 氏のお嬢さんが Green ではないのかね [1]。もしもそうならば、彼女は神戸から移って来たそうで、そこでは UW 君と同じ小学校にいたということだ。「弥次さんと京人形」に似た話だ。(完全に類似しているためには、小学校の頃の君が UW 君でなければならないが。)この話を聞かせてくれたのは、「弥次さんと京人形」の作者の Jack だ。
 Green の父君が Y・T 氏ならば、昨年の高文連新聞研究会で、「『菫台時報』の短評記事『曲言直言』は、長すぎて『直言』になっていない。1行1行の間に寸鉄人をえぐるような言葉でもって魅力を増すべきだ」といわれた人だ。それから、もしもそうならば、その姓から、Green が中学生時代にぼくに対して最近の君に与えたよりも少ない好感(と書いては失礼なようだが、――「いや、かえってその方がよい」と君はいうかも知れない――実際そうだった)を与えた女生徒だったことを思す。
 つまらないことを、それも仮定のもとに、たくさん書いてしまった。ただ、もしも仮定が正しければ、『思出の記』の中で蘆花が何度も使っていた「事実は小説よりも奇」という言葉が、なるほどそうだと思われる、ということを書きたかったのだ。

(Sam)

 Wood splitting をやる。かなりよいノコギリを借りてきたのだが、直径八寸ぐらいの柱材を両断するには、十五分も要した。根気の要る仕事だ。そして、経験による熟練も必要だ。

 白菊町の駅で岩本から出て来る YM 君を待って、二人で早道町XX へ行く。途中の駄菓子屋できょうの訪問にふさわしいと思われるものを求めて行った。小さな子が二人もいるのだということは知らなかったのだが。
 「兄弟がいない」ということについて、どう考えるかね。
* 小さい間はわがままができてよいかも知れないが、大きくなったとき、真の相談相手としてひじょうに大事なものであるという先生の意見だった、そして、先生はこのために人一倍苦労したと、つけ加えられた。先生の質問に答える発言と、話の途中での二三の質問をした以外は、出された柿山を口に入れながら、次つぎと続く先生のさまざまな話に聞き入った。先生の言葉を借りていえば、人格の形成と人生観の確立のための真の学問をしたことになるだろう。
 先生の家を出てから、「足が痛い、足が痛い」と YM 君がこぼした。われわれはあぐらの姿勢で三時間ばかりいたわけだ。


 (Tedの欄外注記)* 血のつながった「真の相談相手」がいるに越したことはないが、いなければ仕方がない。けれども、その代わりとなる人物を見出して、互いに信頼し理解し協力し合うならば、「いない」からといって、人一倍苦労しなければならないことはあるまい。こういえば、「そういう人物を見出すためにも苦労しなければならないのだ」といわれるかも知れない。なるほど、それは、たやすい仕事とはいえないだろうが、決して「人一倍の苦労」ではない。そのためには、ただ、自分自身を信頼出来る人間にする努力を惜しまなければよいのだ。

 引用時の注

  1. Sam は先の日記「海水浴」において、Green に好感を抱いたことを記していたが、その少し後の紛失した日記帳に、彼女が転校してしまうことを書いていたようだ。そうならば、ここに書いてある仮定が正しい場合、それは Y・T 氏の転勤に伴うものだったことになり、彼が M 新聞 K 支局長だったのは、この時点ですでに過去のことになる。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 07/05/2005
 兄弟関係というのは、その親和力からくる依存性と、他者としての排他性との、対立的な二面性のなかで良くも悪くもいつまでも縺れあってゆくものですね。慎太郎と裕次郎、若乃花と貴乃花のように、二人兄弟ならばつねに反面教師的な存在となりましょうから、いかに対照的に生きるかを思春期に学びとるのが賢明なのでしょうが、いまのところこの二組の場合、成功と失敗の典型例となってしまっているようですネ。

Ted 07/05/2005
 私の長兄は生まれて間もなく死亡。小学校3年生で死亡した次兄が、その頃すでに志望していたと母がいっていた将来の進路を、図らずも私がとることになりました。次兄が生きておれば、そうならなかったかも知れません。

2005年7月4日月曜日

等乃伎神社 / ダラ! 明日休みや!


等乃伎神社

  写真は、昨日のブログにも書いた、わが家から西へ向かうウォーキングをする場合の目的地である高石市の等乃伎神社(6月28日に写す)。この辺りの町名は富木と書いて、神社の名と同じく「とのき」と読む。

ダラ! 明日休みや!

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月22日(月)晴れ時どき雨

 あゝ、駄目だ。「話の泉」の中の、何という漢字が最も多く使われているか、という出題への答が問題とした定期刊行物 [1]、ぼくはそれを… [2] ――こんなのは、まずい弁解だ。SN 君の家からの帰りに野田で乗ったバスの運転手がわれわれに話したことを思い出す。彼は社会の矛盾をわれわれに話そうとした。そして、彼自身がその真っただ中にいるのだった。彼は愉快そうに話したが、「ぼくなんかも意志が弱かったから、こんなことになっているのだ」とつけ加えた。――社会の矛盾と個人の矛盾の関わり…。個人の矛盾は外力による意志の歪みに発する。外力は、つねに隙を見てわれわれの意志をだらしなく延ばさせ、意気地なく縮ませ、正邪の判断なく捩じらせ、堅実さなく曲げさせ、あるいは確固たるところなくひしゃげさせようとしている。――こうした考察は十二分だ。ただ必要なのは…。

 vh によって与えられている。hh0 から h1 になると、vv0 から v1 になるが、v が変化すると、h の変化の様子も変わって来る。不思議な関数だ。*

 校歌がついに歌われる! 昼食時間に音楽室へ呼ばれて、あたかも自分が真っ先に見ようと思ったものが、すでに誰かの見た後だったときに味わうような感じを経験した。合唱クラブ員の力強い合唱だ。黒板に書かれた歌詞だけを見て歌っている。TK 先生も SG 先生も IT 先生も、その他多くの先生方も聴いておられた。「トップ記事、トップ記事。しかし、誰がどのように書くか」と思いながら、ぼう然と聞いていた。聞くというより、ただ、旋律と音律と調和のある声の中にたたずんでいた。どんな歌詞だったか覚えていない。

(欄外注記)* 物理のプリントにあった問題に関することだが、この問題は積分を使わなければ解けないのだそうだ。

(Sam)

 「明日は簿記練習帳を持って来て下さい。」「明日までに生徒会費を納入して下さい。」「明日この続きをやろう。」「明日英語あるかいや?」こういう言葉が繰り返され、そのたびに笑った。「ダラ!
[3] 明日休みや!」といって。
 3年生の何かのため、H が六限になった。今学期の H は遊んでばかりいる。ホーム委員長は野球部員なので、運動が大好き。何かと理由をつけてバレーボールやバスケットボールを使用して遊ぶことになる。ロングホームの使用について、もっと真剣に考えられてもよいのではないかと思うが、一般ピープルが現状に大満足なのだから、しょうがない。


 引用時の注

  1. 新聞。

  2. ここで10行余りを消してある。消した上に後日(10月4日と記して)学校新聞の校正刷りの訪問記事「門をたたく」の一部を斜めに切って貼ってある。もと日展審査員・都賀田勇馬氏を捕まえ損ね、仕方なく高校の近くの少年鑑別所の所長を訪問したのだったが、意外に興味深い話を聞くことが出来たようだ。「ここでは、どんな仕事をなさっていますか」の問いに対して、「ここを少年刑務所のように思っている人が多いようだが、犯罪者を入れておく刑務所とは全く違うのだ。少年法によって家庭裁判所から送られた少年を審判するまでの間、その期間中一時収容して監護する。そして、医学、心理学、教育学、社会学、その他の専門的な知識で、それらの…」という答の文字が見える。

  3. 「ダラ」は金沢弁でバカのこと。翌日は秋分の日で休み。

2005年7月3日日曜日

千早赤阪村への1日旅 (One-Day Trip to Chihaya-akasaka Village)


 イメージは、千早赤阪村のレストラン「山燈花」からのスケッチ。左上の屋敷は同レストランの経営者の住居。右に屋根つき白壁の、その屋敷の門の側面も見える。

The image shows a sketch from the restaurant Santoka in Chihaya-akasaka Village. The building at the upper left is the residence of the owner of the restaurant. On the right, the side of the roofed, white gate of the residence is seen.

 【概要 (Abstract in Japanese)】昨土曜日、妻とともに一日グループ旅行に参加した。JR天王寺駅の前でバスに乗車。1行35名。始めに河内長野の延命寺を訪れたが、そこのハス池のハスはまだツボミだった。次いで目的地の千早赤阪村山中のレストラン「山燈花」へ。レストランの経営者は先祖代々そこに暮らし、林業を生活の糧にしてきたという。いま、その所有地の一部はシャクナゲやアジサイの名所の一つとなっている。しゃれた料理の昼食をとった後、山すその遊歩道をアジサイその他の花々を見ながら歩いた。昼食を終えるまでは雨がかなり強く降ったが、午後は小降りとなり、林の中の涼しい空気を吸いながら、かなり快い散策ができた。スケッチは食後に、抹茶とともに出された菓子ののっていた懐紙に鉛筆で描き、帰宅後ペンと色鉛筆で仕上げたもの。【Read the main text in English.

ノウゼンカズラ / 心の離反ではなく…


ノウゼンカズラ

 わが家から西へ少し歩くと堺市を出外れて高石市となり、等乃伎神社というのがある。昨年までは1万歩のウォーキングをしていたので、そこは目的地としては近過ぎた。しかし、最近は6千歩を超えればよし、と気軽にやっているので、この神社も目的地に入れられることになった。写真は等乃伎神社付近の民家で咲き誇っていたノウゼンカズラ(6月28日に写す)。漢字では凌霄花と書く。わが家の近くにもノウゼンカズラの大きな木のある家が2軒あるが、親しくはしていない近所の家の花の写真は撮り難い。

心の離反ではなく…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月21日()晴れ

 買っておけば何かの役に立つだろうと思って、岩波新書の『万葉秀歌』を求めて来る。歩きながら、道路や建物や空や用水の流れの色彩の麗しさに、恋を経験しつつある人が恋する女を見るときに抱くのはこんな感情かと思われる感情をもって、目を向けた。そして、それらに対してこんな感情をもつことに、はなはだしい疑問を感じた。新しい下駄を履いて行ったので、帰りは、仙女に声を渡して人間の足を得、王子に会ったが愛されず、鳩か何かになって昇天したアンデルセン童話の人魚の感じたような痛みを感じている足を引きずって来なければならなかった。Jack のところへ寄ったが、母堂を助けて店を出しに行ったようだった。

 心の離反という深刻な現象の上からではなくて、同一の問題を考え合うことが出来るという、接触に必要な方便の欠如から、彼を失った、いや、そのように見えるに過ぎない。――中学生のときは週末毎にあれほど足を運んだ Octoの ところへ、全然行く気がしなくなったことについてこう考えている。[1]

 ルソオの『懺悔録』を読んでいる。第三巻の始め辺りに、彼がわれわれの年代だった頃の心理が詳細に告白されているが、ところどころ難解だ。

(Sam)

 大掃除という仕事は午前のうちに済んでしまった。階下の坊やを連れて動物園へ行くことにした。児童生徒の学習参考とか実物材料とか、そんな目ではとうてい見られない。どの動物も幻滅を感じさせるに十分だった。狭い檻の中で、彼らはとても暮らしにくそうだった。雑食性だからといって、セルローズばかりのナマイモしか与えられないとは、ひどいものだ。カバやワニなどの水槽の水は汚くて臭いし、鎖につながれたサル公たちは、くさりに擦れて毛が抜けてしまっているし、動物たちの糞尿は始末されることなく檻の中に四散しているし、見られたものでない。
 明治キャラメルのアトラクションもスローモーで、興味は薄かった。それに、五分と間をおかないで、「場内はスリが横行いたしておりますから、懐中物にご用心下さい」というアナウンスがある。ただ、このアトラクションで付属小六年の種村なんとか子さんという女の子の木琴独奏は少し見ごたえがあった。日光東照宮模型などというものからも、十円の価値は受け取れなかった。が、子どもたちにとっては、十分楽しみと新しい知識の得られるものであっただろう。だが、知識の提供方法には問題がある。各動物の説明も大人向きで不親切だったし、案内係もいなかったようだ。


 引用時の注

  1. Octo は高校卒業後、一流金融機関の金沢支店に就職した。大学へ進学した私は、休暇ごとに、また Octo と親しく交わった。のちに彼は東京へ転勤して、習志野市に居を構え、私は学会出張の折などに彼と会うことを楽しんだ。一昨年春、彼はオーストラリアに住む次男の近くへ移住したが、間もなく、急死を知らせる夫人からのメールを受け取った。彼はよい夫人と2人の息子たちに恵まれ、性格通りの穏やかな、そして幸せな人生を送ったと思う。

2005年7月2日土曜日

全開でないのがよい / 最小・最大目標


全開でないのがよい

 写真は堺市・中の池公園で(2005年6月28日)。ハスの花は全開でなく、この程度に開いているのがよい。

最小・最大目標

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月20日(土)晴れ

 切迫、切迫。明日と23日の休みが邪魔になるほどの切迫。何もしないで1週間を送ることは、この仕事にとって莫大な損失だ。
 昨年の通り毎週クラブ活動だったならば、この切迫に際していくらかの助けとなっただろうと惜しまれる4限にあったアセンブリーは、金城高校校長加藤氏の講演だった。音楽に関する話で、音楽とは何ぞや、芸術なり、芸術とは何ぞや、文化の一つなり、文化とは何ぞや、とさかのぼり、人間の真善美および信仰の追求という活動を具体的に説き、それから音楽に戻り、それが身近にあるものだということや、メロディ、リズム、ハーモニーがどういうものかということを身振りとともに面白く話された。最後につけ加えられた音楽だけでなく会話においても必要な発声上の注意は、実にぼくなどの実行しなければならないことだった。きょうに限って、講堂の後ろの方で聞いたのだったが、氏の話はたいへん聞きよく、しかも退屈を感じさせないものだった。

 午後は大桑の仮橋を渡る。板の渡されていない丸太のところを TKS 君は馬乗りになって、少しずつ腰を前方へ運びながら進まなければならなかった。一歩一歩に足下の茂った草の中からバッタが飛び出すのに驚きながら、畦道を行く。Jack が取って投げてくれるイチジクの実をたくさん食べ、舌の先を痛くする。招待者の SN 君は身体の具合が悪くてちょっと元気がなく、そのことがわれわれに、与えるともなく一抹の淋しさを与えた。

(Sam)

 FJ 君と連絡がとれなかったが、帰宅後、一人だけで出かけた。もしかすると彼は先に行っているのでは、と思っていたのだが、二水からはぼくだけが出席したことになった。
 競技は、50字、75字、100字、150字、200字と行われた。参加者は、桜ケ丘からの二人とぼくの他は菫台の生徒ばかりで、全部で十五名くらいだった。50字のときは、ぼくともう一人を残した他はみんな0だったが、ぼくは「ホリョ」を「コレヲ」と聞き違えて-3。100字のときは、速記原稿では2200億円と書いておきながら、訳すとき二万二千億円として-2となり、0は一度も取れなかった。失点は-3、-2、-2、-22、-97という状態で、非常に欠陥があることを示している。菫台の M・T 君は最後まで0で通した。ぼくは、この競技の中では五位の成績だった(実際にはこういう順位は決めなかったのだが、成績表から判断して)。きょうの結果から、毎秒二字までは書けるという自信を得たが、現在の二倍の速さにすることを最小目標、三倍の速さにすることを最大目標にして努力しなければならない。