雨中のアジサイ
写真は、一昨日のブログに記した千早赤坂村のレストラン「山燈花」の庭園。多彩なアジサイの花が雨の中でひときわ艶やかだった。
兄弟がいないということ
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年9月23日(火)晴れ
M 新聞 K 支局長だった(次の仮定が真ならばこの過去形は正しいだろうが、そうでなければ、現在形にしなければならない。けれども「である」と書けば次の言葉が書けない。昨日書いた h と v のような関係だ)Y・T 氏のお嬢さんが Green ではないのかね [1]。もしもそうならば、彼女は神戸から移って来たそうで、そこでは UW 君と同じ小学校にいたということだ。「弥次さんと京人形」に似た話だ。(完全に類似しているためには、小学校の頃の君が UW 君でなければならないが。)この話を聞かせてくれたのは、「弥次さんと京人形」の作者の Jack だ。
Green の父君が Y・T 氏ならば、昨年の高文連新聞研究会で、「『菫台時報』の短評記事『曲言直言』は、長すぎて『直言』になっていない。1行1行の間に寸鉄人をえぐるような言葉でもって魅力を増すべきだ」といわれた人だ。それから、もしもそうならば、その姓から、Green が中学生時代にぼくに対して最近の君に与えたよりも少ない好感(と書いては失礼なようだが、――「いや、かえってその方がよい」と君はいうかも知れない――実際そうだった)を与えた女生徒だったことを思す。
つまらないことを、それも仮定のもとに、たくさん書いてしまった。ただ、もしも仮定が正しければ、『思出の記』の中で蘆花が何度も使っていた「事実は小説よりも奇」という言葉が、なるほどそうだと思われる、ということを書きたかったのだ。
(Sam)
Wood splitting をやる。かなりよいノコギリを借りてきたのだが、直径八寸ぐらいの柱材を両断するには、十五分も要した。根気の要る仕事だ。そして、経験による熟練も必要だ。
白菊町の駅で岩本から出て来る YM 君を待って、二人で早道町XX へ行く。途中の駄菓子屋できょうの訪問にふさわしいと思われるものを求めて行った。小さな子が二人もいるのだということは知らなかったのだが。
「兄弟がいない」ということについて、どう考えるかね。* 小さい間はわがままができてよいかも知れないが、大きくなったとき、真の相談相手としてひじょうに大事なものであるという先生の意見だった、そして、先生はこのために人一倍苦労したと、つけ加えられた。先生の質問に答える発言と、話の途中での二三の質問をした以外は、出された柿山を口に入れながら、次つぎと続く先生のさまざまな話に聞き入った。先生の言葉を借りていえば、人格の形成と人生観の確立のための真の学問をしたことになるだろう。
先生の家を出てから、「足が痛い、足が痛い」と YM 君がこぼした。われわれはあぐらの姿勢で三時間ばかりいたわけだ。
(Tedの欄外注記)* 血のつながった「真の相談相手」がいるに越したことはないが、いなければ仕方がない。けれども、その代わりとなる人物を見出して、互いに信頼し理解し協力し合うならば、「いない」からといって、人一倍苦労しなければならないことはあるまい。こういえば、「そういう人物を見出すためにも苦労しなければならないのだ」といわれるかも知れない。なるほど、それは、たやすい仕事とはいえないだろうが、決して「人一倍の苦労」ではない。そのためには、ただ、自分自身を信頼出来る人間にする努力を惜しまなければよいのだ。
引用時の注
Sam は先の日記「海水浴」において、Green に好感を抱いたことを記していたが、その少し後の紛失した日記帳に、彼女が転校してしまうことを書いていたようだ。そうならば、ここに書いてある仮定が正しい場合、それは Y・T 氏の転勤に伴うものだったことになり、彼が M 新聞 K 支局長だったのは、この時点ですでに過去のことになる。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
四方館 07/05/2005
兄弟関係というのは、その親和力からくる依存性と、他者としての排他性との、対立的な二面性のなかで良くも悪くもいつまでも縺れあってゆくものですね。慎太郎と裕次郎、若乃花と貴乃花のように、二人兄弟ならばつねに反面教師的な存在となりましょうから、いかに対照的に生きるかを思春期に学びとるのが賢明なのでしょうが、いまのところこの二組の場合、成功と失敗の典型例となってしまっているようですネ。
Ted 07/05/2005
私の長兄は生まれて間もなく死亡。小学校3年生で死亡した次兄が、その頃すでに志望していたと母がいっていた将来の進路を、図らずも私がとることになりました。次兄が生きておれば、そうならなかったかも知れません。
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