さる 11 月 18 日にグーグル学術論文検索エンジンのテスト版がウエブに登場したことを、Nature 誌 11 月 25 日号で知った。試しに自分のフルネームで検索してみると 15 件、ファーストネームの頭文字と姓に、元所属の名称の一部を加えての検索では、70 件余のヒットがあった。しかし、後者には他の類似の著者名のものがいくらか、まぎれ込んでいる。"Hideki Yukawa" で試すと 85 件。通常のグーグル検索エンジンにあるような advanced search(検索オプション)のページがまだ用意されていないので、検索の絞り込みなどを行うのに不便であるが、いずれ備えられるのであろう[後日の注記:その後用意された]。
アブストラクトを公開している機関が調査した当該論文の被引用件数が、論文題名のあとに表示され、そこをクリックすると、引用している論文のリストが現れる。私の学位論文(Physical Review 誌掲載)の被引用件数は 4 とある。その引用論文を見ると、Physical Review 誌掲載のもののみが集められている。各種雑誌中での引用を合わせれば、数十件あるはずである。この検索エンジンがそこまでの情報を与え得るようになるためには、Science Citation Index 誌の協力が必要であろう。
私自身のウエブサイトにおいてある元所属研究機関・大学の論文誌中の論文や報告書の PDF ファイルまでも出てくるので、かなり膨大なデータベースが構築されていることがうかがえる。退職者が大学等の図書館へ出かけて行かなくても、自宅で文献をある程度知ることができるようになったことは喜ばしい。各出版社が近い将来、アブストラクトだけでなく、論文本体の大幅な無料公開をして、インターネットによるデータ利用に協力することが望まれる。
コメント(最初の掲載サイトから転載)S 12/01/2004 12:53
Google は世界に冠たる検索エンジンで、学術論文も多数掲載されていることは知っていました。引用回数や重要性を考慮してデータベースの構築を行っているようですね。しかし、まだβ版ですから、これからも進化を続けるものと期待しています。Ted さんが言及されたニュースは、米 Google、学術論文サーチエンジン「Google Scholar」ベータ版発表 にも載っています。
学術論文を広く開放することは、学生、教育者、研究者、企業、一般人にも有益なことであり、「各出版社が近い将来、アブストラクトだけでなく、論文本体の大幅な無料公開をして、インターネットによるデータ利用に協力することが望まれる」というご意見に賛同するものです。「無料開放」に関する問題は、コンピュータの世界にもあり、個人向けコンピュータの世界ではマイクロソフトが圧倒敵なシェアを確保しています。ただし、ソースは公開されていません。ベンダー側もマイクロソフトの要求する性能を飲まざるを得ない状況が起きています。
そこで、登場するのが、Linux です。Linux は Operation System のソースを無料で開放していますので、世界中のエンジニアが寄ってたかって、よりよいものにしようと開発が続けられており、どんどん進化しています。アメリカのコンピュータ会社 DELL は Linux をプリインストールした PC を用意しています。企業が運用する大型サーバについても、OS の軽さと、その堅牢性から、Linux を採用するところが増えており、この分野でのマイクロソフトのシェアは落ち続けています。マイクロソフトが OS の公開をすれば、最初はシェアが落ち込んでも、長い目で見れば結果的にはマイクロソフトのためにもなると考える人は多いです。
マイクロソフトの統合ソフト Office についても、Open.Office.Org がそれに対応して同等の機能を搭載した統合ソフトをフリーでダウンロードできるようにしており、これも日々進化を遂げています。
Ted 12/01/2004 13:47
Thanks a lot for writing much about related information.
T. M 様
「一物理屋のコメント」が「難しい用語が並んでいて、言いたいことがよく分からない」とのこと、おっしゃる通りかと思います。『鏡の中の左利き』の本論がかなり学問的に書かれていて、それに調子を合わせました。また、鏡像の問題については、いろいろ反論をする人も多いので、それを防御するための予防線をたくさん張った書き方をしたことが、あの文を分かりにくくしている、もう一つの原因かと思います。そして、なによりも、「鏡像の謎」自体が多くの人たちに正解を拒んできた厄介ものである、ということがあります。
ご参考までに、共著者と私が心理学専門誌で展開した説明を、ここにもう少し分かりやすく書いてみます。
まず、「鏡像の謎」でいう上下と左右は、実物と鏡像のそれぞれについての上下、左右と見なします(そうしないと、問い自体にいろいろな反論がでます)。普通、「上」といえば、重力場の上方に位置する側という意味ですが、「鏡像の謎」では、人体での「上」は頭、「下」は足というように、外観から判断されるものになります(由来としては M さんがお考えのように、重力に関係しています)。そして、「前」と「後」は、腹と背です。
ところが、左右方向には、普通の人体では外観での区別がなく、上下、前後の場合のように、「左」は何なに、といえる人体の部位はありません。それで、左右は、上下と前後が先に決まって、それらとの関係で初めて決まる向き、という概念に定着したのです(その結果として、直円すい体や矢のように、上下または前後がはっきりしていても、上下と前後の両方の区別がそろっていない物体には、そのもの自体の左右は決められません)。
ところで、鏡映では、鏡面に垂直な向きが逆転され、非対称な物体の鏡像は、その対掌体(左手に対する右手のような関係の物体)と呼ばれるものになりますが、非対称な物体はどんな一方向について逆転させても、対掌体に変わります。したがって、鏡像についても、実物同様に、上下と前後が外観からの判断でまず決められ、その結果、最後に決まる左右の向きに逆転が押しつけられてしまうのです(そして、これは対掌体のでき方との矛盾はないのです)。
要は、「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」ということです。
ご理解いただけましたら幸いです。
Ted
翌日の追記
1999 年 9 月 14 日付け朝日新聞の大岡信「折々のうた」に次の短歌が取り上げられていた。ちょうど、共著者と私の鏡の謎についての反論が心理学専門誌に掲載されることが決まった頃だったのが面白い。いつか鏡の謎について和文で書くときに利用しようと思って切り抜いておきながら、忘れていたのが、いま、ひょっこり出てきた。大岡信の解説にも「鏡に映ると顔の上下はそのままなのに、左右は入れ替わって見える。鏡の不思議である」と書かれている。左右非対称のわが顔鏡に見てゐしが人の見る顔と左右がちがふ ――尾崎左永子『夕霧峠』
コメント(最初の掲載サイトから転載)yt 04/29/2006 02:31
「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」ということですが、どのようにして決まるのでしょうか? 関数的に決まるのでないことはたしかですが、すると上下と前後が決まったからといって、そのことから自動的にあるいは必然的に決まるわけではないと思いますが。
Ted 04/29/2006 08:18
「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」といえる根拠は、それ自体の上下・前後の二つの向きを揃えて持たない物体には左右もないということです。たとえば、本文にも書きましたように、直円錐には上下だけ、また、矢には前後だけがあるといえますが、それぞれ上下軸、前後軸の回りに任意角度の回転対称性を持っていて、前後または上下がなく、左右もありません。
上下と前後が決まっているものについて、実際に左右を決めるには、重力の向きと東西南北というような別の系を借用する必要があります。すなわち、北を向いて立っているとき、東にある方が右、というように。
時計回りと普通のネジの進む向きという対も利用できますが、時計回りは「右回り」、普通のネジは「右ネジ」ともいわれるので、左右を決めるのに左右の概念自体に頼るようなことになり、こちらの方は避けたい説明です。
yt 04/29/2006 09:52
ありがとうございました。続いておたずねいたします。「北を向いて立っているとき、東にある方が右」ということですが、北を向いて立つとき、どちらが東かをどのようにして知るのでしょうか?『広辞苑』「北」や「東」をみていくと循環していることに気づきましたので、このようなことを質問しました。
Ted 04/29/2006 10:44
いろいろとよいご質問をいただき、ありがとうございます。
確かに『広辞苑』の「北」の説明には「日の出る方に向かって左の方向」とありますが、これは、科学的でなく、便宜的なものと思います。
たとえば、"Compact Oxford English Dictionary" の "north" の説明には、"the direction in which a compass needle normally points, towards the horizon on the left-hand side of a person facing east" とあります。後半にはやはり「左」が出て来ますが、前半の「磁針の指す方」だけで十分な説明になっており、東は「日の出る方」と考えれば、循環は起こりません。
なお、厳密にいえば、磁針の指す北、つまり地磁気の北は、北極(地球の自転軸と地球表面との交点の一つ)からは少しずれていて、経年変動もしていますし、日の出る方も一年を通じて若干移動しますが、それらの差は左右を決めるのに問題にはならないでしょう。左右方向自体が厳密な一直線ではなく、いくらか幅のあるものでよいのですから。
yt 04/29/2006 11:57
ありがとうございました。最初の説明では、「それ自体の上下・前後の二つの向きを揃えて持たない物体には左右もない」ので、これは「左右は、上下前後が決まらなければ決まらない」ということだと思います。このことは「左右は上下前後が決まれば決まる」ということとはちがうと思います。つまり質問の趣旨は、上下前後が決まることは、左右が決まることの必要条件であるが、さらにまた十分条件でもあるのだろうかということでした。そして、十分条件でもあるとすれば、そのくわしい内容はどのようなものかをおたずねした次第です。そこで「北に向かって立つとき、日の出る方」が右であるとされました。そこで二つの質問が出てきました。一つは、これによる「右」の決め方は日の出の時でないと有効ではありませんが、わたしたちはじっさいに一度でもこのような決め方を(教える場合であれ、教わる場合であれ)使ったことがあるのでしょうか? 磁石をもって日の出を待つというこの決め方をもし使っていないなら、他の決め方があるにちがいありません。二つには、わたしたちは一度教わった右をどのようにして保持しているのでしょうか? つまり、自分自身のうちに何らかの非対称性が成立していなければ、一度教わった左右の区別を保持することはできなく、そのつど外部のなにかを参照しなければなりません。しかし、これは事実に反しているように思われますので、第二の質問を付け加えました。
Ted 04/29/2006 14:38
「十分条件でもあるのだろうか」と書いていただき、最初のご質問の意味がはっきりしました。記事中の「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」という文は、「左右は上下前後が決まれば決まる」という十分条件の記述とはニュアンスが異なる、つまり、むしろ必要条件の記述のつもりで書きました。したがって、最初のご質問への答えとしても、他に必要な、比較ということについて述べました。
「日の出の時でないと有効ではありません」との件ですが、居住している場所であれば、日の出の方角がどちらか、あるいは東自体がどちらかが、日の出を待つまでもなく分かっていて、常時有効です。しかし、「北を向いて…」というのは原理的な説明で、通常左右をどうやって判断するかといえば、自分の利き手や心臓の位置(いみじくも書かれている「自分自身のうちの何らかの非対称性」)を補助として記憶(ご質問の「一度教わった左右の区別の保持」)をしているのです。ただし、利き手や心臓の位置は、個々人の左右の記憶には有効でも、一般的な説明としては有効ではありません。心臓はごくまれに右にある人もいるのです。そういう意味で、決定の基本としては「北を向いて…」というようなことが必要になりますので、最初のご質問に対し、これを持ち出した次第です。
私は幼いときに一時左利きだったことがあり、また、いまでも平素あまりしないことをする、たとえばドライバーでネジをまわすようなときには、つい左手が出たりします。そのせいか、左右の判断が遅いほうです。心理学の専門家の調査でも、左利きや両手利きの人たちの左右判断力は、右手利きの人たちより弱いという結果が出ていたように思います。
yt 04/29/2006 19:26
ありがとうございました。要点が二つあるように思います。まず、上下と前後が決まることは左右が決まるために必要な条件であるという点です。これについてはまったく同感です。また、上下と前後が決まれば、そのことから左右の区別が関数的あるいは自動的あるいは必然的に決まるわけではないというように理解して差し支えないと推察します。
そのさきの話が分明でないのですが、以下のように整理してみました。左右の区別の決まり方の説明として、原理的一般的な説明と通常のやり方の説明とある。前者は決定の基本を述べるものであり、後者は個々人による補助的な決定にかかわるものである。
前者によれば、右は「北に正対して日の出る方」となります。そして居住している場所にかぎっては日の出をじっさいに目撃しなくてもよい。それは、おそらく見慣れた風景その他が参照されているからだと思います。しかし、風景の中の何がじっさいに参照されているかは、まさしく個人的なことがらのように思います。また、極地付近でも「北に正対して日の出る方」でよいのかどうか判然としません。なによりも、この原理的一般的な説明は、それによってわたしたちがじっさいに左右の区別をするためのものではなく、すでに知られている左右の区別を外部の非対称性に関係づけていうとすれば、どのようになるかをいうものではないかと思います。ですから、必ずしも厳密に規定しなくてもすむのではないでしょうか。
後者についていえば、話は分かりやすく、そしてこちらのほうがむしろ重要な点ではないかと思います。左右の区別が歴史的にどのように決まったのかは難問ですが、どのように教えればよいかは分かっています。それは、教わる側の上下部と教える側の上下部を、そして教わる側の前後部と教える側の前後部を、じっさいにまたは想像上において、一緒にそろえて、それから自分の右部と同じ側の手を「こっちが右手だよ」というふうに教えます。教わった方はその右手を自分の備えている非対称性に結びつけます。それはなんであってもよいのですが、最も多くは利き手の非対称性だと思います。
大事な点は、このようにしてして教わったとき、教える者と教わる者との上下前後左右がそれぞれ同じ側にそろうことができるという点が必然的であるということで、そのために左右は非対称性から自由になっており、またそのために人によっては利き手が右、人によっては利き手が左ということになるのではないでしょうか。ここには原理的一般的な記述はすこしも用いられていません。北も日の出も見慣れた風景も必要でなく、いつでもどこでも、ある人が他の人に左右の区別を教えることができます。決定の基本はまさしくこの教え教わるしかたのなかにあるのではないでしょうか。
Ted 04/29/2006 20:02
「そのさきの話が分明でない」以下に書いていただいたことは、全くおっしゃる通りだと思います。鏡像が左右逆転したと認識する理由を考えるには、「上下と前後の決まることが、左右が決まるために必要な条件」というところまで分かれば、ほぼ十分でしたので、そのさきについての考察をいままで注意深く行っていなかったところから、ボロが出ました。ご質問にお答えしていたつもりが、かえって重要なご教示をいただくことになりました。ありがとうございます。yt さんは教育関係のお仕事をされているのでしょうか。
Ted 04/29/2006 20:20
追伸:上の返信を書いてから、yt さんの最後のパラグラフにもう一度目を向けましたところ、「教える者と教わる者との上下前後左右がそれぞれ同じ側にそろうことができるという点が必然的であるということで、そのために左右は非対称性から自由になっており」のところが、ちょっと気になりました。「そのために左右は非対称性から自由になっており」というより、逆に、もともと人体は外見的にはほぼ左右対称であり、このことから、「上下と前後が決まることが、左右が決まるために必要」という左右の性質ないしいは定義方法が生じたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
yt 04/29/2006 22:02
ありがとうございました。わたしは大学を退職した者でまさしく教育関係の仕事をしておりました。専攻は哲学です。関連した論文も書いてはおりますが、それよりも対話をとおして一歩一歩進むことが大切だと思っています。
さて、追伸に述べられた件ですが、人体はたしかに外見的にほぼ左右対称です。このことは、左右は上下と前後が先に決まらないと決まらない組、その意味で最後の一組になる根拠となり得ると思います。厳密には、左右が対称に近いからではなく、他の組より非対称性が弱いからだというべきかもしれません。つまり非対称性の強い順から方位の区別が決まると考えるほうが合理的だと思うからです。
そこで、いま仮にカニのはさみのように左右に関しても外見上の明らかな非対称性が観察されたとします。そしてその非対称性のゆえに、「腕-手」の名称が使われているとします。すると、ここに「頭-足」「腹-背」「腕-手」の名称体系が考えられます。これに対して、上下前後左右というそれ自体は身体の特徴を表していない方位名があります。そして、わたしたちは「頭-足」「腹-背」「右手-左手」の名称体系をもっています。可能な名称体系として、特徴と方位のいろいろな組み合わせが考えられます。
1.「頭-足」「腹-背」「腕-手」
2.「頭-足」「腹-背」「右手-左手」
3.「頭-足」「前面-後面」「腕-手」
4.「上端-下端」「腹-背」「腕-手」
5.「頭-足」「前面-後面」「右手-左手」
6.「上端-下端」「腹-背」「右手-左手」
7.「上端-下端」「前面-後面」「腕-手」
8.「上端-下端」「前面-後面」「右手-左手」
このうち 2、3、4 は同じ仲間であり、そしていうまでもなく 2 の名称体系ががわたしたちのものです。2 の場合は左右の逆転、3 の場合は前後の逆転、4 の場合は上下の逆転が鏡像において生じると考えられます。つまり、非対称性の弱い組が最後の組となり、この組に方位名がついて特徴名にとって代わります。そして、方位名がついた場合、二人の間で、ということは万人の間で上下前後左右が必ずそろうように、この組の方位が定まっていると考えたらどうでしょうか。
その場合、その組の方位(たとえば左右)は方位関係をつねに同一に保つようにできているので(つまり上下前後左右を必ずそろえることができるようになっているので)、その意味で特徴から独立です。そうだとしたら、左右は鏡に映りません。上下や前後は非対称性にむしろ縛り付けられていますから、腹や頭が映ればとりもなおさず前部や上部も鏡に映ります。左右については、わたしの腕(いつもは右)が映っても右が映っていることにはなりません。この場合、右は鏡像の腕ではなく手のほうになります。なぜなら、左右の役割は方位関係を同一に保つ点にあるからです。舌足らずの説明ですが、大体こんなふうに考えています。どうでしょうか?
Ted 04/30/2006 09:03
yt 先生は哲学の教育・研究をされ、関連の論文も書いていらっしゃったのですか。道理で、筋道をたてた手ごわい議論をなさいます。私は放射線物理学をやっていて、ご同様に退職したものでございます。
いろいろな面白い名称体系の例を挙げてご説明いただきましたが、昨日最後のコメントの最後のパラグラフから、おおよそ推定していました通りのお考えです。ただ、左右のはさみの大きさが異るカニの場合は、腹ばいになっている状態を基準にして、もっとカニになりきれば、「頭-足、腹-背、腕-手」でなく、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」というようなことにならないでしょうか。
もう一つ私の感じました問題は、先生が「左右の役割は方位関係を同一に保つ点にある」とおっしゃるのは、方位関係についての要請があってそうなっているように聞こえますが、そうではなく、たまたまそうなっているということではないか、ということです。もしも上記の種類のカニが、いまの人間の立場にあれば、彼らの身体に基づいて決めたどれかの方位について「方位関係を同一に保つ」ことなど考えないでしょう。つまり、鏡映で右手座標系がその反転である左手座標系に変わるのと同じく、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の方位関係が鏡の中の世界では反転していると認識するでしょう。人間の場合、たまたま左右には外見上の区別がほとんどないので、鏡の中の世界にも、反転した方位関係でなく、実物の世界と同じ方位関係を適用する習慣になっているのだと思います。
yt 125.1.76.16804/30/2006 11:54
ありがとうございます。この問題は、分野のちがいを越えて誰もが自分で考え議論することのできるものであり、また分野に特有の知識をふりかざすと失敗しがちな面白い問題だと思います。「左右の役割は方位関係を同一に保つ点にある」というのは、わたしたちの間で左右の区別を教え教わるしかたのなかにふくまれていることを述べたつもりです。交通規則はそれを前提にしているように思われます。古代社会でも左右の区別はあったと思いますが、それは交通その他、わたしたちの間での行動の必要からでてきたものではないでしょうか。
ところで、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の方位関係が鏡の中の世界では反転しているとありますが、非対称性の関係と上下前後左右の関係とは異なると思います。方位関係というのは後者をさしています。前者についていえば、「背-腹」と「頭-尻」と「大はさみ-小はさみ」相互の間には何の関係もありません。したがって、その鏡像をとりあげた場合、一つの軸について逆転が起きても、他の組には何の影響もありません。それで、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の三組の非対称な特徴相互の関係は鏡の中の世界では反転しています。
しかし、方位関係はそれとは別です。方位関係はもしそれが同一に保たれないならば、そもそも何のために上下前後左右の言葉を非対称な特徴を表す言葉とは別に作ったのか、その意味を失ってしまうように思われます。そこで、鏡に正対した場合、その鏡像においては前後の方位が逆転し同時に左右の方位も逆転します。前後の方位が逆転するのは前後の特徴が逆転するからですが、左右の方位が逆転するのは左右の特徴が逆転するからではなく、方位関係を同一に保つからだと考えます。このとき、左右の特徴と左右の方位とはいつもとは逆の結合になります。しかし、前後の特徴と前後の方位とはいつもどおりの結合です。それで、左右の逆転だけが目立つのではないでしょうか? 要するに、非対称な特徴については一つの軸の特徴の逆転が起き、方位については二つの軸の方位の逆転が起きることになります。どうしても舌足らずになりますが、こんなふうに考えています。
話はそれますが、以前『数学セミナー』で朝永振一郎の「鏡の中の世界」を読んだことがあります。その中で、天井や床に鏡があるときは上下逆転が起きるとありました。これはこれでまた一つの問題になると考えています。たとえば、「天井に鏡があるときは上下の逆転に誰もが気づくのに、前に鏡があるときは前後逆転をまっさきにいわずに左右逆転をいうのはなぜか?」前後の逆転を誰もがすぐに気づいてよいはずなのに、あろうことか左右の逆転をいうわけですから、ここにも説明が必要かと考えます。すると、問題は二つあって、ひとつは「人体の鏡像はなぜ左右逆転に見えるのか?」であり、もうひとつは「上下逆転は誰もが気づくのに、前後逆転に気づかないのはなぜか?」というものであります。いかがでしょうか?
Ted 04/30/2006 14:16
いまコメントをいただいている私の元記事に対する前編「鏡の世界」の末尾に文献 [5] としてリンクしてあります私の文「一物理屋のコメント」にも、朝永振一郎の「鏡の中の世界」のことや、鏡の問題を考えるにはどういう座標系でものをいっているかが、まず大切だというような話を書いております。まだお読みでなければ、それをご覧いただければ幸いです。
yt 04/30/2006 20:59
ありがとうございます。これからゆっくり読ませていただき、きちんと整理した上で後日またコメントさせていただきたいと思っております。
yt 05/06/2006 09:43
お説拝読しました。要点が明確になり感謝します。
まず大筋で共感できるものでありながら、その経路で違和感があるのはなぜなのか考えてみました。それで、これはおなじ山をちがう場所から描いたものだといえば適切な表現になると思います。全体としての趣旨はまったく異論のないものであり、しかし細部ではちがいが目立つのは、おなじことをちがう経路をたどって見ているためだと気づきました。
1. まず、「おなじ」ということから述べます。固有の方位を有する対象とその鏡像にかんするかぎり、たがいの前後と上下を先にそろえようとするから、生じうる不一致は左右においてより以外にはない。これが1.4の「固有座標系を採用する限りでは、つねに左右が逆転している」ということだと思います。そう考えてよければ、これこそ鏡像問題の核心ですから、最も肝要な点について考えていることは「おなじ」であることになります。
さらにもうひとつ「おなじ」点があります。それは平らにおいた鏡では上と下が逆になる事実について、このように上下が逆になるのはさきの左右逆転とは異なる基準がはたらいている。つまり、上下は不動の軸としてわたしたちに共有されていて、左右のようにそれぞれの対象に応じて異なるのではないということだと思います。もしそうなら、この第二に重要な点についても考えは「おなじ」です。
「おなじ山」といったのは以上のような内容をさしています。したがって、これ以上もう何も言うことはないといえばないのですが、ちがう場所から見るのもまたなにがしかの興味をひくのではないかと希望しています。ただしこれは細部のちがいを勢い強調することになりますから、おそらく違和感を招き、場合によっては蜂の巣をつついたような騒ぎになるかもしれません。しかし、より完成度の高いものをめざすにはそれもまた必要な作業と考えます。
2. 最初に問題を限定して狭義の鏡像問題にしぼっていますが、じつに適切です。わたしもこの点では同感です。またこの問題が心理的なことがらとは無関係であるという点でも同意見です。ただし、「なぜ上下は逆にならないのか」の部分を当初から解決済みとして扱うのは早すぎるように感じました。
1.1 の最後の箇所で、固有の上下をいう言葉として top-bottom を使い、重力の向きとまぎらわしい表現 up-down をさけたとありますが、これはもっと重視すべきことがらではないでしょうか。前に述べた「第二に重要な点」はこの表現のちがいに関連していると思います。わたしは、身体の範囲内に限定された上下部、前後部、左右部をまとめて「方位部」と呼び、身体をこえて外の空間へ延びていく上方や前方や左方といった方位を「方位線」と呼んでいます。ただし、上下の方位線だけは不動で、わたしが逆立ちしても上方は頭の延長ではなく足(下部)の延長になります。仰向けになっていれば、上方は腹(前部)の延長になります。
そこで、ふつう上下の逆転は、上下の不動の方位線に沿った対象の上下の方位部の逆転とみることができます。左右や前後については、直立の場合、左方や前方は左部や前部と一緒に動き、方位線は不動でないためおなじいいかたはできません。方位線が関係してくるのは上下逆転の場合のみですから、ふだんは方位部と区別する必要のない成分ですが、理論的には別にしておくべきものと考えます。
2.1 さて、先生の説の中心に位置しているのは「従属軸仮説」です。わたしは以前(1984)、上下と前後を「単独で定まる組」、左右を「依存的な組」と述べたことがあります。また、ひとりの研究者(Don Locke,1977)は前者を「非寄生的な方位」あるいは「構造的方位」、後者を「寄生的な方位」あるいは「非構造的方位」と呼んでいました。他にも、命名はしていませんが、上下前後を先に決まるペアと考えている人たち(J. Bennett, 1970, N. J. Block, 1974)がいます。
しかし、わたしはいまでは「依存的」「寄生的」「従属」という同工異曲の表現を捨てています。その理由は、これらの表現は、間違ってはいないが、左右の組の持つ消極的な側面「他の組をさきに決めないと決まらない」ことしかみておらず、方位の方位たるゆえんを発揮する積極的な側面を無視していると考えたからです。わたしはそれを「方位関係を同一に保つように決まる」ことと捉えます。つまり、左右の組は「どのようでないと決まらないのか」という消極的側面と「どのように決まるのか」という積極的側面をもっています。
見方を変えれば、上下や前後は頭足や腹背にのり付けされた、その意味で非対称性に「従属」する組であり、左右は逆に非対称性に依存しない「独立」の組です。左右の持つこの積極的側面に注目すると従属軸仮説とは似て非なるものになり、鏡像問題の解明の仕方にもちがいがでてきます。「ちがう場所」といったのはこのことをさします。
2.2 従属軸仮説に戻りますが、あらかじめ確認しておきたい点があります。吉村説では鏡像は前後のみが逆転し、上下と左右は逆転しません。そこで、実物が右手を挙げるとき、鏡像は「それ自身の」右手を挙げたことになります。つぎに、実物の方が垂直軸の周りを半回転して回り込んで鏡像に重なります。このとき、実物の前後と鏡像の前後がそろいます。そして、実物の「挙げていない左手」と鏡像の「挙げている右手」が同じ側になります。この理解でよろしいでしょうか?
先生の仮説では、鏡像は「それ自身の」左手を挙げていることになります。したがって回り込みをした場合、実物の「挙げてない左手」と鏡像の「挙げている左手」が同じ側になります。これで間違いないでしょうか?
そして古来の疑問文の解釈では「私が右手を上げた姿を鏡に映すとき、鏡の中の私は左手を上げている」わけですから、これは先生の仮説と一致しています。なお、ここ(2.2)で使われた上下前後左右の語は対象に固有の方位をさしています。わたしの言い方では対象の方位部をさしています。
Ted 05/06/2006 13:23
議論が長くなるようですので、以後はメールで意見交換をさせていただきたいと存じます。私のメールアドレスは xxxxxxxxxxxxx です。迷惑メール防止のため、先生がアドレスをコピーされ次第上記アドレスを消去したいと思いますので、すぐにご一報いただければ幸いです。
yt 05/06/2006 14:59
了解しました。

I posted photos taken at Takao, Kyoto, on my blog posts of November 16 and 18 [1, 2]. There are more I want to show to the visitors of this site. I have chosen one of those photos to put here, and another, at the index page of my website [3].
Wolfgang told me that pictures of maple leaves would show good colors when we took them against the light. The photo shown here is one of the backlighted shots I made in the precincts of Jingo Temple, Takao, following his advice. He knew well about how to take pictures of autumn leaves!
- "Autumn leaves" (November 16, 2004).
- "What little I observed" (November 18, 2004).
- IDEA & ISAAC Home; Japanese index page of IDEA & ISAAC. Note added later: The photo on these pages are changed nearly once per month. After some day in December 2004, therefore, you will see not a photo taken at Takao, but a different picture.
Comments (Copied from the Web site where this blog post originally appeared)P 11/28/2004 10:54
The season of autumn leaves in Hokkaido already finished. I didn't go out to see those leaves this year. Seeing your photo, I felt as if I watched them. It's so beautiful. Thanks, Ted!
Ted 11/28/2004 20:33
P-san, thanks for your kind comment. It's already very cold in Hokkaido, isn't it?
M☆さんのブログ[1]に執筆者本人が鏡に向かって撮った写真があり、詩のような文の中に「左右対称の私」ということばがあった。これを見て、私は近年自分が取り組んできたことにふれなければならないという気になった。
「鏡はなぜ左右を逆にし、上下を逆にしないか」という謎が、古くはプラトンによって論じられ、最近にいたるまでも、哲学や心理学の専門誌において議論されてきた。1997 年に心理学者、高野陽太郎氏(東大)が、アメリカの心理学専門誌に翌年印刷されることになった論文に記したものと同じ説明を、一般読者向けの本[2]にして出版した。私は以前、ノーベル賞物理学者、朝永さんの随筆集[3]で、この鏡の謎を知って以来、これに興味を持ち続けていたので、さっそく高野氏の本を買って読んだ。しかし、氏の説明は、とてもややこしいもので、納得できなかった。
私は高野氏から論文の別刷りや、それが掲載された専門誌の投稿規定を送ってもらった。そして、元同僚の一人を共著者に引っぱり込んで、勤務時間後にビールを飲みながら議論し、高野論文への反論を書き上げて投稿した。ニュージーランドの心理学者マイケル・コーバリスが、同様の趣旨の反論を少し先に投稿していたので、本来ならば、私たちの投稿はボツになるところだった。幸い、物理学を専門とする私たちの、心理学者から見れば一風変わった書きぶりを、編集者が気に入ってくれたようで、私たちの原稿は、コーバリスのものと並んで、めでたく掲載された。
しかし、肝心の高野氏は、鏡の謎に対するコーバリスや私たちの答えに納得しない。昨年 6 月、日本認知心理学会大会で、「鏡像反転の問題」をテーマに、シンポジウムが開催され、私も聞きに行った。シンポジウムを高野氏とともに企画した吉村浩一氏(法政大)の解説に続いて、高野氏がその後の研究について講演した。その講演で、吉村氏と私は、高野氏が実際には、「鏡像が左右を逆にしていない」と認知する場合も含めた、鏡の謎よりも広い問題を扱っていることに気づいたのだった。
そこで、吉村氏は拡張された鏡像問題をすっきりと説明する一つの仮説を考え、これを著書[4]にまとめた。私はその巻末に、補足と解説のような文[5]を書かせてもらった。――以上が、私と鏡の世界とのかかわりの、現時点で公表できる部分である。鏡の謎に対する答えは、この文の読者の方がご自分で思いつかれたら、コメントに記してみて下さい。また、私たちの答えを知りたい方は、[5]をご覧下さい。――
ところで、鏡の謎でいう左右逆転が起こるには、鏡にうつされる物体は左右非対称でなければならない。したがって、最初に引用した、M☆さんの左右対称な顔は、鏡の謎の対象にならない。M☆さんは対掌体へ反転することなく、現実世界と鏡の世界を往復できる、まれな存在である。
なお、M☆さんから、「ちょっと高価だけれど、最近ではそのままの自分を映す鏡も売っている」と教えてもらった。そのような鏡として、原理的には、直角合わせ鏡[4, 6](三面鏡のうちの 2 面を使って実験できる)や曲面鏡[6]が知られているが、これらでは奥行きの深いものになって不便である。ホログラフィの技術でも応用して薄型にしたのであろうか。
文 献- M☆ ブログ記事「素顔の自分・・・」(2004)
鏡に向かって写真を撮ってみる
左右対称の私
これも私
…
- 高野陽太郎『鏡の中のミステリー』(岩波、東京、1997)
- 朝永振一郎『鏡のなかの世界』(みすず書房、1965)
- 吉村浩一『鏡の中の左利き』(ナカニシヤ、2004)
- 「一物理屋のコメント」([4]から転載)
- マルチン・ガードナー『新版 自然界における左と右』(紀伊国屋、1992)
コメント(最初の掲載サイトから転載)Y 11/27/2004 09:43
やっぱり今日はこの話題で、こられましたか。鏡の謎については、私には解明する能力がないと始めから気づいていて、プラトンがこれを最初に問題にしたというのも不思議なくらいで、
たとえばですね。鏡で左右が逆になるのは、やっぱり不便だ。それで、よく考えてみると、自分は生涯、この左右反転した自分しか、「動く自分」としては見られないことになる。…いや、写真じゃそうならないし、今はビデオだとかあるじゃないか。安心した。生涯、自分が見られないのかと思った。——という感想になるわけです。上下が逆転しないのは、もちろん重力問題とか関係してないのだろうと思いますし、もう絶対に、心理学や哲学の領域で解明できることではないと思うんですけどね。
私は「不思議だ、と思う」精神をあまり持っていないのだ、と今気づきました。科学者にてんで向いてないですね。むしろ不思議なものをそのままに受け取ってしまう感性や対応力はあるんだと思います。「これが不思議でわからなくて」で本を読んだことがないものなあ。その分、「解明してくれた」科学にも、その時点(時代)における当面の価値・絶対性以上の権威を感じていないのですね。精神科・精神医学領域では、とっくに(自然)科学が猛威をふるっている昨今ですので、もちろんそれは治療にとっては、よい道なのですが…これも書くと長くなりますね。
それで、私が研究したり本を読むときがあるとすると、ただ「面白い」という動機、それと「生きることと全く同じだと考えている」意識がありますね。そこではほとんど「生きることへの答え」も見つけません。生きることや人生は、結果論でなく、答えもみつけなくてよいと思っているからです。
T 11/27/2004 10:27
『ただ「面白い」という動機』、それは科学をする動機とも同じです。
上下が逆転しないのは、外見によって優先的に上下を決めているという、単純な理由によります。人の身体で上は頭、下は足。顔だけならば、頭頂部が上、あごが下と。しかし、左右は…。鏡の謎の答えを自分で考えてみようと思う方のため、ここでやめておきます。
J 11/27/2004 10:57
わたしは、目が横(水平方向)に並んでいるからだと単純に考えてました。
立位で、鏡に自分の姿を写している A さん。左右が逆になって写ります。床に横になって、左手側を地面に付けている B さん。
・現実の自分は左手を地面に付けてますが、鏡の中の自分は右手を地面に付けています。
・B さんが、A さん及び鏡の中のAさんを見ると(B さんにとっての)上下が反転して見えます。B さん座標での上下は、A さん座標の水平のことです。
要するに、鏡は被写体の各部分を平行移動して鏡の表面に、写し取っているだけで、後はその鏡像を認識する側の問題ということです。
でも…、プラトン以来、論じられていると言うことなので、こんなに簡単ではないのでしょう。
上に書いた私の話は、見ている人が変れば上下反転になっているということに過ぎないですね…(恥)。でも、目が鉛直方向に並んでいる生物ならば、上下反転と認識するのでしょうね。目が 5 つもあったといわれているオパビニアなどは、鏡をどんな風に認識するのでしょう。
Ted 11/27/2004 14:24
片目で見ても左右逆転していることから、「目が横(水平方向)に並んでいる」説は成り立たないのでは?
J 11/27/2004 17:48
そうですね (^^; われながら、安直でした。でも、考えてみたら、何が問題点なのか、わからなくなってしまいました(爆
S 11/27/2004 11:29
鏡の写り方については、次の URL を見つけました。
http://www.page.sannet.ne.jp/matukawa/sayuuzenngo.htm
水面を鏡に見立てた場合、上下が逆になりますね。逆さ富士がよい例です。上記から引用しました。で、鏡の働きは、実は、鏡面に垂直に立てた軸(前後軸と名付ける)を逆転させているだけのようです。
Ted 11/27/2004 15:12
書いて下さった例や、ご説明は事実です。しかし、鏡の謎が問うている、左右が逆転して上下が逆転しないのも事実なのです。たとえば、あなたが右手を上げてその姿を鏡にうつすと、あなたの鏡像は、それを一個の人間のようにみなすならば、左手を上げた姿をしています。これは、鏡があなたの前、横、上、下、どこにあろうと、いえることです。これをどう説明するか、が問われているのです。
教えていただいた URL のページを見ましたが、左右の概念が上下や前後の概念とは異なる、という意味のことを述べているだけで、異なる根本原因への言及が不足していると思いました。
J 11/27/2004 18:01:13
わたしも見ました。観察者の概念で決まることのようですね。もうちょっと考えてみます。
T 11/27/2004 20:34
J さん、観察者がどういう座標系を選ぶかは、鏡像の左右逆転を認知するかどうかに関わりますが、ある座標系を選べば、上下、前後、左右の3軸うち、逆転したのは性質のやや異なる左右軸方向であると必ずみなされてしまうのです。
問題は、そのような座標系とはどういうものであるか、そして、上下、前後の 2 軸と左右軸の性質はどう異なるのか、また、実物と鏡の位置関係に依存しないで左右が逆になることをどう説明するか、ということです。
ヒントを与えたつもりが、かえって問題を難しくしましたか。
M☆ 11/28/2004 22:50
読みに来ました~、コメントの「外見によって優先的に上下を決めているという、単純な理由によります」という一文を読んでまた「なるほど!」と…。
いつも新しい方向から様々な考え方ができることに、少なからず驚きと喜びを感じます(^_^)。とても興味深く拝見させていただきました。
機会をみつけて、この問題について、私なりにまた違った角度から色々と掘り下げて考えてみたいと思いました♪
Ted 11/29/2004 08:20
M☆, you have a good character to feel surprise and pleasure in learning different methods of thinking. One of your children might become a scientist.
M☆ 11/29/2004 09:36
I hope so!(^__^);;; そうだったらいいのになァ~(´▽`)/♪ 仮定法が苦手だった私…英語で書けず(滅)I wish one of them was 〇×▽※?!
T 11/29/2004 15:17
I wish that your hope may come true.
M☆ 11/30/2004 09:40
Thank you!
It's cloudy and cold today. Xmas will come soon. It makes me feel so happy. I love beautiful illumination!
岩波書店の宣伝誌『図書』に、多摩美術大学の平出隆氏が「遊歩のグラフィスム」というエッセイを連載している。11 月号の「一冊きり 一通きり」と題する文では、プリニウスのことば「一行なしに一日なし」から始めて、氏の「毎日、必ず、唯一通の便りを書かなければならない」あるいは「毎日、必ず、唯一通の便りしか書いてはいけない」計画を紹介している。この計画は、氏が今年から年賀状を廃して取り組むことにしたものだそうであり、この季節にふさわしい話題である。
平出氏は、その取り組みについて、方々に散っていくだろう私の便りは、一通ずつを拾いなおしていけば私の生きた時間の連続的な形象となる。
と記している。賀状に代えてこのような便りをしたためるのは、魅力あることではあるが、デジタル人間になった私には、到底真似ができそうにない。
それはよいとして、平出氏がその文の初めの方において、現代の日本語でいう「格言」と「箴言」とでは、微妙な、そして決定的なニュアンスのちがいがあるように思える。
として述べている両者のちがいについて、私は納得できない思いがした。氏は、格言には「メッセージの性質が濃く保たれており、明快な意味は流通に耐える」のに対して、箴言は「飛躍をふくんでいて、説明不能の言切りにこそ、その本質的な魅力がひそむ」とする。
私はこれまで、格言はより一般的内容のものであり、箴言は禁止的内容を主とするもののように思っていた。そこで、『広辞苑』と『新明解国語辞典』にあたってみる。
広辞苑:【格言】深い経験を踏まえ、簡潔に表現したいましめの言葉。金言。箴言。
【箴言】(1)いましめとなる短い句。格言。(2)旧約聖書中の一書。格言・教訓・道徳訓を多く含む。ソロモンの箴言。
新明解国語辞典:【格言】人間の生き方を端的に言い表した個人の言葉。「時は金なり」など。
【箴言】(1)いましめの言葉。「ソロモンの——」(2)「格言・金言」の意の漢語的表現。
これらの説明からは、「ソロモンの」につくのは箴言であり、格言ではないこと、また、単に箴言といって「ソロモンの箴言」を意味することがある、ということは分かる。しかし、『広辞苑』では、格言と箴言にニュアンスのちがいがあるとは受け取れない。
「いましめ」の一つの意味は、「禁止すること。禁制」(『広辞苑』)であるから、箴言のみに「いましめ」の語を出している『新明解国語辞典』の説明は、私の理解に一致する。他方、『広辞苑』の説明では、「箴言」の方に「格言・教訓・道徳訓を含む」という幅広さがあり、これは私の理解の逆を行くものである。
格言には日常よくお目にかかるが、これが箴言だ、というものには、あまりお目にかからない。『新明解国語辞典』の(2)で述べられている、箴言が格言の漢語的表現ということからすれば、現代において箴言ということばの登場機会が減っていて不思議ではない。しかし、同辞典の【箴言】(1)と【格言】のニュアンスの違いが実在しながら、なお箴言にあまりお目にかからないとすれば、平出氏のいう「流通に耐える」ものと、そうでないものという相違が、あたっているのかも知れない。
コメント(最初の掲載サイトから転載)J 11/26/2004 10:30
わたしも、旧約聖書の箴言をイメージしていました。確かに、口をついて出る言葉は、一般的には少ないですね。
話は、それますが「目には目を歯には歯を」は、よく使われていますね。しかも間違った意味で。
Y 11/26/2004 11:37
こんにちは。一日一通の手紙はよいし、私もそういう形で人を大切にしているつもりですが、「格言」というものには興味がないんですね。そういうのにとびついて自分の道にするほど、甘い人生を生きていないというか、私は今はずっと、本が読めない状態(病状)ですが、今まで読んできた本は、学術書も大いに含めて参考にしていて、人にわかりやすく伝えもしますが、一番頼っている、信頼しているのは自分自身の人間性、自分の体験から得てきた言葉(経験知)ですから。
ですから、「格言」が「流通に耐える」というのも、ひどく一般的な話で、私には当てはまらないなー、と傍観しますね。なんとなく、この「格言」という、到底到達できていないココに飛びつきなさい的な言葉に引っかかるんですね、率直に言って。私なら、重要な言葉、文章は、どの文献のどこからでも、自分の力で見つけてきます、流通なんか待っていないで。「箴言」は、旧約聖書等でのいましめの言葉のことを言っているのでしょうから、それはいいんじゃないでしょうか。
本当の生きる指針になる言葉は、もっと地味に誠実に、人間が人間に対して書く言葉として、この世界のいろんなところで綴られていると思いますよ。短いからいいってものではないです。
Ted 11/26/2004 16:41
J さん、Y さん、
コメントありがとう。皆さん、旧約聖書をよくご存知ですね。私は「創世記」ぐらいしか読んでいない、この方面の不勉強者で、「箴言」の語を見ても、旧約聖書を思い浮かべられませんでした。
格言についても、常識として知っておこうか、という程度の関心で、自分の好きな格言があるわけではありません。Y さんのいわれる「重要な言葉、文章は、どの文献のどこからでも、自分の力で見つけてきます」に同感です。岩波書店から 2002 年に、岩波文庫に出典を持つ『世界名言集』が出版され、何かのときにあれば便利かと思って買いはしましたが、自分に本当に役立つ名言集は、自分が読んだ本の中で共感したことばをノートに書き留めて作るべきだと思っています。若いときにはそのようなノートを作っていました。最近は科学に関する英書を多く読むので、人生にかかわる名言には、あまり出会いません。