2004年11月29日月曜日

鏡の世界:解答編

T.M 様

 「一物理屋のコメント」が「難しい用語が並んでいて、言いたいことがよく分からない」とのこと、おっしゃる通りかと思います。『鏡の中の左利き』の本論がかなり学問的に書かれていて、それに調子を合わせました。また、鏡像の問題については、いろいろ反論をする人も多いので、それを防御するための予防線をたくさん張った書き方をしたことが、あの文を分かりにくくしている、もう一つの原因かと思います。そして、なによりも、「鏡像の謎」自体が多くの人たちに正解を拒んできた厄介ものである、ということがあります。

 ご参考までに、共著者と私が心理学専門誌で展開した説明を、ここにもう少し分かりやすく書いてみます。

 まず、「鏡像の謎」でいう上下と左右は、実物と鏡像のそれぞれについての上下、左右と見なします(そうしないと、問い自体にいろいろな反論がでます)。普通、「上」といえば、重力場の上方に位置する側という意味ですが、「鏡像の謎」では、人体での「上」は頭、「下」は足というように、外観から判断されるものになります(由来としては M さんがお考えのように、重力に関係しています)。そして、「前」と「後」は、腹と背です。

 ところが、左右方向には、普通の人体では外観での区別がなく、上下、前後の場合のように、「左」は何なに、といえる人体の部位はありません。それで、左右は、上下と前後が先に決まって、それらとの関係で初めて決まる向き、という概念に定着したのです(その結果として、直円すい体や矢のように、上下または前後がはっきりしていても、上下と前後の両方の区別がそろっていない物体には、そのもの自体の左右は決められません)。

 ところで、鏡映では、鏡面に垂直な向きが逆転され、非対称な物体の鏡像は、その対掌体(左手に対する右手のような関係の物体)と呼ばれるものになりますが、非対称な物体はどんな一方向について逆転させても、対掌体に変わります。したがって、鏡像についても、実物同様に、上下と前後が外観からの判断でまず決められ、その結果、最後に決まる左右の向きに逆転が押しつけられてしまうのです(そして、これは対掌体のでき方との矛盾はないのです)。

 要は、「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」ということです。

 ご理解いただけましたら幸いです。

 Ted

翌日の追記

 1999年9月14日付け朝日新聞の大岡信「折々のうた」に次の短歌が取り上げられていた。ちょうど、共著者と私の鏡の謎についての反論が心理学専門誌に掲載されることが決まった頃だったのが面白い。いつか鏡の謎について和文で書くときに利用しようと思って切り抜いておきながら、忘れていたのが、いま、ひょっこり出てきた。大岡信の解説にも「鏡に映ると顔の上下はそのままなのに、左右は入れ替わって見える。鏡の不思議である。」とある。

左右非対称のわが顔鏡に見てゐしが人の見る顔と左右がちがふ ――尾崎左永子『夕霧峠』


 
[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

yt 04/29/2006 02:31
 「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」ということですが、どのようにして決まるのでしょうか? 関数的に決まるのでないことはたしかですが、すると上下と前後が決まったからといって、そのことから自動的にあるいは必然的に決まるわけではないと思いますが。

Ted 04/29/2006 08:18
 「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」といえる根拠は、それ自体の上下・前後の二つの向きを揃えて持たない物体には左右もないということです。たとえば、本文にも書きましたように、直円錐には上下だけ、また、矢には前後だけがあるといえますが、それぞれ上下軸、前後軸の回りに任意角度の回転対称性を持っていて、前後または上下がなく、左右もありません。
 上下と前後が決まっているものについて、実際に左右を決めるには、重力の向きと東西南北というような別の系を借用する必要があります。すなわち、北を向いて立っているとき、東にある方が右、というように。
 時計回りと普通のネジの進む向きという対も利用できますが、時計回りは「右回り」、普通のネジは「右ネジ」ともいわれるので、左右を決めるのに左右の概念自体に頼るようなことになり、こちらの方は避けたい説明です。

yt 04/29/2006 09:52
 ありがとうございました。続いておたずねいたします。「北を向いて立っているとき、東にある方が右」ということですが、北を向いて立つとき、どちらが東かをどのようにして知るのでしょうか?『広辞苑』「北」や「東」をみていくと循環していることに気づきましたので、このようなことを質問しました。

Ted 04/29/2006 10:44
 いろいろとよいご質問をいただき、ありがとうございます。
 確かに『広辞苑』の「北」の説明には「日の出る方に向かって左の方向」とありますが、これは、科学的でなく、便宜的なものと思います。
 たとえば、"Compact Oxford English Dictionary" の "north" の説明には、"the direction in which a compass needle normally points, towards the horizon on the left-hand side of a person facing east" とあります。後半にはやはり「左」が出て来ますが、前半の「磁針の指す方」だけで十分な説明になっており、東は「日の出る方」と考えれば、循環は起こりません。
 なお、厳密にいえば、磁針の指す北、つまり地磁気の北は、北極(地球の自転軸と地球表面との交点の一つ)からは少しずれていて、経年変動もしていますし、日の出る方も一年を通じて若干移動しますが、それらの差は左右を決めるのに問題にはならないでしょう。左右方向自体が厳密な一直線ではなく、いくらか幅のあるものでよいのですから。

yt 04/29/2006 11:57
 ありがとうございました。最初の説明では、「それ自体の上下・前後の二つの向きを揃えて持たない物体には左右もない」ので、これは「左右は、上下前後が決まらなければ決まらない」ということだと思います。このことは「左右は上下前後が決まれば決まる」ということとはちがうと思います。つまり質問の趣旨は、上下前後が決まることは、左右が決まることの必要条件であるが、さらにまた十分条件でもあるのだろうかということでした。そして、十分条件でもあるとすれば、そのくわしい内容はどのようなものかをおたずねした次第です。そこで「北に向かって立つとき、日の出る方」が右であるとされました。そこで二つの質問が出てきました。一つは、これによる「右」の決め方は日の出の時でないと有効ではありませんが、わたしたちはじっさいに一度でもこのような決め方を(教える場合であれ、教わる場合であれ)使ったことがあるのでしょうか? 磁石をもって日の出を待つというこの決め方をもし使っていないなら、他の決め方があるにちがいありません。二つには、わたしたちは一度教わった右をどのようにして保持しているのでしょうか? つまり、自分自身のうちに何らかの非対称性が成立していなければ、一度教わった左右の区別を保持することはできなく、そのつど外部のなにかを参照しなければなりません。しかし、これは事実に反しているように思われますので、第二の質問を付け加えました。

Ted 04/29/2006 14:38
 「十分条件でもあるのだろうか」と書いていただき、最初のご質問の意味がはっきりしました。記事中の「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」という文は、「左右は上下前後が決まれば決まる」という十分条件の記述とはニュアンスが異なる、つまり、むしろ必要条件の記述のつもりで書きました。したがって、最初のご質問への答えとしても、他に必要な、比較ということについて述べました。
 「日の出の時でないと有効ではありません」との件ですが、居住している場所であれば、日の出の方角がどちらか、あるいは東自体がどちらかが、日の出を待つまでもなく分かっていて、常時有効です。しかし、「北を向いて…」というのは原理的な説明で、通常左右をどうやって判断するかといえば、自分の利き手や心臓の位置(いみじくも書かれている「自分自身のうちの何らかの非対称性」)を補助として記憶(ご質問の「一度教わった左右の区別の保持」)をしているのです。ただし、利き手や心臓の位置は、個々人の左右の記憶には有効でも、一般的な説明としては有効ではありません。心臓はごくまれに右にある人もいるのです。そういう意味で、決定の基本としては「北を向いて…」というようなことが必要になりますので、最初のご質問に対し、これを持ち出した次第です。
 私は幼いときに一時左利きだったことがあり、また、いまでも平素あまりしないことをする、たとえばドライバーでネジをまわすようなときには、つい左手が出たりします。そのせいか、左右の判断が遅いほうです。心理学の専門家の調査でも、左利きや両手利きの人たちの左右判断力は、右手利きの人たちより弱いという結果が出ていたように思います。

yt 04/29/2006 19:26
 ありがとうございました。要点が二つあるように思います。まず、上下と前後が決まることは左右が決まるために必要な条件であるという点です。これについてはまったく同感です。また、上下と前後が決まれば、そのことから左右の区別が関数的あるいは自動的あるいは必然的に決まるわけではないというように理解して差し支えないと推察します。
 そのさきの話が分明でないのですが、以下のように整理してみました。左右の区別の決まり方の説明として、原理的一般的な説明と通常のやり方の説明とある。前者は決定の基本を述べるものであり、後者は個々人による補助的な決定にかかわるものである。
 前者によれば、右は「北に正対して日の出る方」となります。そして居住している場所にかぎっては日の出をじっさいに目撃しなくてもよい。それは、おそらく見慣れた風景その他が参照されているからだと思います。しかし、風景の中の何がじっさいに参照されているかは、まさしく個人的なことがらのように思います。また、極地付近でも「北に正対して日の出る方」でよいのかどうか判然としません。なによりも、この原理的一般的な説明は、それによってわたしたちがじっさいに左右の区別をするためのものではなく、すでに知られている左右の区別を外部の非対称性に関係づけていうとすれば、どのようになるかをいうものではないかと思います。ですから、必ずしも厳密に規定しなくてもすむのではないでしょうか。
 後者についていえば、話は分かりやすく、そしてこちらのほうがむしろ重要な点ではないかと思います。左右の区別が歴史的にどのように決まったのかは難問ですが、どのように教えればよいかは分かっています。それは、教わる側の上下部と教える側の上下部を、そして教わる側の前後部と教える側の前後部を、じっさいにまたは想像上において、一緒にそろえて、それから自分の右部と同じ側の手を「こっちが右手だよ」というふうに教えます。教わった方はその右手を自分の備えている非対称性に結びつけます。それはなんであってもよいのですが、最も多くは利き手の非対称性だと思います。
 大事な点は、このようにしてして教わったとき、教える者と教わる者との上下前後左右がそれぞれ同じ側にそろうことができるという点が必然的であるということで、そのために左右は非対称性から自由になっており、またそのために人によっては利き手が右、人によっては利き手が左ということになるのではないでしょうか。ここには原理的一般的な記述はすこしも用いられていません。北も日の出も見慣れた風景も必要でなく、いつでもどこでも、ある人が他の人に左右の区別を教えることができます。決定の基本はまさしくこの教え教わるしかたのなかにあるのではないでしょうか。

Ted 04/29/2006 20:02
 「そのさきの話が分明でない」以下に書いていただいたことは、全くおっしゃる通りだと思います。鏡像が左右逆転したと認識する理由を考えるには、「上下と前後の決まることが、左右が決まるために必要な条件」というところまで分かれば、ほぼ十分でしたので、そのさきについての考察をいままで注意深く行っていなかったところから、ボロが出ました。ご質問にお答えしていたつもりが、かえって重要なご教示をいただくことになりました。ありがとうございます。ytさんは教育関係のお仕事をされているのでしょうか。

Ted 04/29/2006 20:20
 追伸:上の返信を書いてから、ytさんの最後のパラグラフにもう一度目を向けましたところ、「教える者と教わる者との上下前後左右がそれぞれ同じ側にそろうことができるという点が必然的であるということで、そのために左右は非対称性から自由になっており」のところが、ちょっと気になりました。「そのために左右は非対称性から自由になっており」というより、逆に、もともと人体は外見的にはほぼ左右対称であり、このことから、「上下と前後が決まることが、左右が決まるために必要」という左右の性質ないしいは定義方法が生じたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

yt 04/29/2006 22:02
 ありがとうございました。わたしは大学を退職した者でまさしく教育関係の仕事をしておりました。専攻は哲学です。関連した論文も書いてはおりますが、それよりも対話をとおして一歩一歩進むことが大切だと思っています。
 さて、追伸に述べられた件ですが、人体はたしかに外見的にほぼ左右対称です。このことは、左右は上下と前後が先に決まらないと決まらない組、その意味で最後の一組になる根拠となり得ると思います。厳密には、左右が対称に近いからではなく、他の組より非対称性が弱いからだというべきかもしれません。つまり非対称性の強い順から方位の区別が決まると考えるほうが合理的だと思うからです。
 そこで、いま仮にカニのはさみのように左右に関しても外見上の明らかな非対称性が観察されたとします。そしてその非対称性のゆえに、「腕-手」の名称が使われているとします。すると、ここに「頭-足」「腹-背」「腕-手」の名称体系が考えられます。これに対して、上下前後左右というそれ自体は身体の特徴を表していない方位名があります。そして、わたしたちは「頭-足」「腹-背」「右手-左手」の名称体系をもっています。可能な名称体系として、特徴と方位のいろいろな組み合わせが考えられます。
 1.「頭-足」「腹-背」「腕-手」
 2.「頭-足」「腹-背」「右手-左手」
 3.「頭-足」「前面-後面」「腕-手」
 4.「上端-下端」「腹-背」「腕-手」
 5.「頭-足」「前面-後面」「右手-左手」
 6.「上端-下端」「腹-背」「右手-左手」
 7.「上端-下端」「前面-後面」「腕-手」
 8.「上端-下端」「前面-後面」「右手-左手」
このうち2、3、4は同じ仲間であり、そしていうまでもなく2の名称体系ががわたしたちのものです。2の場合は左右の逆転、3の場合は前後の逆転、4.の場合は上下の逆転が鏡像において生じると考えられます。つまり、非対称性の弱い組が最後の組となり、この組に方位名がついて特徴名にとって代わります。そして、方位名がついた場合、二人の間で、ということは万人の間で上下前後左右が必ずそろうように、この組の方位が定まっていると考えたらどうでしょうか。
 その場合、その組の方位(たとえば左右)は方位関係をつねに同一に保つようにできているので(つまり上下前後左右を必ずそろえることができるようになっているので)、その意味で特徴から独立です。そうだとしたら、左右は鏡に映りません。上下や前後は非対称性にむしろ縛り付けられていますから、腹や頭が映ればとりもなおさず前部や上部も鏡に映ります。左右については、わたしの腕(いつもは右)が映っても右が映っていることにはなりません。この場合、右は鏡像の腕ではなく手のほうになります。なぜなら、左右の役割は方位関係を同一に保つ点にあるからです。舌足らずの説明ですが、大体こんなふうに考えています。どうでしょうか?

Ted 04/30/2006 09:03
 yt先生は哲学の教育・研究をされ、関連の論文も書いていらっしゃったのですか。道理で、筋道をたてた手ごわい議論をなさいます。私は放射線物理学をやっていて、ご同様に退職したものでございます。
 いろいろな面白い名称体系の例を挙げてご説明いただきましたが、昨日最後のコメントの最後のパラグラフから、おおよそ推定していました通りのお考えです。ただ、左右のはさみの大きさが異るカニの場合は、腹ばいになっている状態を基準にして、もっとカニになりきれば、「頭-足、腹-背、腕-手」でなく、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」というようなことにならないでしょうか。
 もう一つ私の感じました問題は、先生が「左右の役割は方位関係を同一に保つ点にある」とおっしゃるのは、方位関係についての要請があってそうなっているように聞こえますが、そうではなく、たまたまそうなっているということではないか、ということです。もしも上記の種類のカニが、いまの人間の立場にあれば、彼らの身体に基づいて決めたどれかの方位について「方位関係を同一に保つ」ことなど考えないでしょう。つまり、鏡映で右手座標系がその反転である左手座標系に変わるのと同じく、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の方位関係が鏡の中の世界では反転していると認識するでしょう。人間の場合、たまたま左右には外見上の区別がほとんどないので、鏡の中の世界にも、反転した方位関係でなく、実物の世界と同じ方位関係を適用する習慣になっているのだと思います。

yt 125.1.76.16804/30/2006 11:54
 ありがとうございます。この問題は、分野のちがいを越えて誰もが自分で考え議論することのできるものであり、また分野に特有の知識をふりかざすと失敗しがちな面白い問題だと思います。「左右の役割は方位関係を同一に保つ点にある」というのは、わたしたちの間で左右の区別を教え教わるしかたのなかにふくまれていることを述べたつもりです。交通規則はそれを前提にしているように思われます。古代社会でも左右の区別はあったと思いますが、それは交通その他、わたしたちの間での行動の必要からでてきたものではないでしょうか。
 ところで、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の方位関係が鏡の中の世界では反転しているとありますが、非対称性の関係と上下前後左右の関係とは異なると思います。方位関係というのは後者をさしています。前者についていえば、「背-腹」と「頭-尻」と「大はさみ-小はさみ」相互の間には何の関係もありません。したがって、その鏡像をとりあげた場合、一つの軸について逆転が起きても、他の組には何の影響もありません。それで、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の三組の非対称な特徴相互の関係は鏡の中の世界では反転しています。
 しかし、方位関係はそれとは別です。方位関係はもしそれが同一に保たれないならば、そもそも何のために上下前後左右の言葉を非対称な特徴を表す言葉とは別に作ったのか、その意味を失ってしまうように思われます。そこで、鏡に正対した場合、その鏡像においては前後の方位が逆転し同時に左右の方位も逆転します。前後の方位が逆転するのは前後の特徴が逆転するからですが、左右の方位が逆転するのは左右の特徴が逆転するからではなく、方位関係を同一に保つからだと考えます。このとき、左右の特徴と左右の方位とはいつもとは逆の結合になります。しかし、前後の特徴と前後の方位とはいつもどおりの結合です。それで、左右の逆転だけが目立つのではないでしょうか?要するに、非対称な特徴については一つの軸の特徴の逆転が起き、方位については二つの軸の方位の逆転が起きることになります。どうしても舌足らずになりますが、こんなふうに考えています。
 話はそれますが、以前『数学セミナー』で朝永振一郎の「鏡の中の世界」を読んだことがあります。その中で、天井や床に鏡があるときは上下逆転が起きるとありました。これはこれでまた一つの問題になると考えています。たとえば、「天井に鏡があるときは上下の逆転に誰もが気づくのに、前に鏡があるときは前後逆転をまっさきにいわずに左右逆転をいうのはなぜか?」前後の逆転を誰もがすぐに気づいてよいはずなのに、あろうことか左右の逆転をいうわけですから、ここにも説明が必要かと考えます。すると、問題は二つあって、ひとつは「人体の鏡像はなぜ左右逆転に見えるのか?」であり、もうひとつは「上下逆転は誰もが気づくのに、前後逆転に気づかないのはなぜか?」というものであります。いかがでしょうか?

Ted 04/30/2006 14:16
 いまコメントをいただいている私の元記事に対する前編「鏡の世界」の末尾に文献 [5] としてリンクしてあります私の文「一物理屋のコメント」にも、朝永振一郎の「鏡の中の世界」のことや、鏡の問題を考えるにはどういう座標系でものをいっているかが、まず大切だというような話を書いております。まだお読みでなければ、それをご覧いただければ幸いです。

yt 04/30/2006 20:59
ありがとうございます。これからゆっくり読ませていただき、きちんと整理した上で後日またコメントさせていただきたいと思っております。

yt 05/06/2006 09:43
 お説拝読しました。要点が明確になり感謝します。
 まず大筋で共感できるものでありながら、その経路で違和感があるのはなぜなのか考えてみました。それで、これはおなじ山をちがう場所から描いたものだといえば適切な表現になると思います。全体としての趣旨はまったく異論のないものであり、しかし細部ではちがいが目立つのは、おなじことをちがう経路をたどって見ているためだと気づきました。

1. まず、「おなじ」ということから述べます。固有の方位を有する対象とその鏡像にかんするかぎり、たがいの前後と上下を先にそろえようとするから、生じうる不一致は左右においてより以外にはない。これが1.4の「固有座標系を採用する限りでは、つねに左右が逆転している」ということだと思います。そう考えてよければ、これこそ鏡像問題の核心ですから、最も肝要な点について考えていることは「おなじ」であることになります。
 さらにもうひとつ「おなじ」点があります。それは平らにおいた鏡では上と下が逆になる事実について、このように上下が逆になるのはさきの左右逆転とは異なる基準がはたらいている。つまり、上下は不動の軸としてわたしたちに共有されていて、左右のようにそれぞれの対象に応じて異なるのではないということだと思います。もしそうなら、この第二に重要な点についても考えは「おなじ」です。
 「おなじ山」といったのは以上のような内容をさしています。したがって、これ以上もう何も言うことはないといえばないのですが、ちがう場所から見るのもまたなにがしかの興味をひくのではないかと希望しています。ただしこれは細部のちがいを勢い強調することになりますから、おそらく違和感を招き、場合によっては蜂の巣をつついたような騒ぎになるかもしれません。しかし、より完成度の高いものをめざすにはそれもまた必要な作業と考えます。

2. 最初に問題を限定して狭義の鏡像問題にしぼっていますが、じつに適切です。わたしもこの点では同感です。またこの問題が心理的なことがらとは無関係であるという点でも同意見です。ただし、「なぜ上下は逆にならないのか」の部分を当初から解決済みとして扱うのは早すぎるように感じました。
 1.1の最後の箇所で、固有の上下をいう言葉として top-bottom を使い、重力の向きとまぎらわしい表現 up-down をさけたとありますが、これはもっと重視すべきことがらではないでしょうか。前に述べた「第二に重要な点」はこの表現のちがいに関連していると思います。わたしは、身体の範囲内に限定された上下部、前後部、左右部をまとめて「方位部」と呼び、身体をこえて外の空間へ延びていく上方や前方や左方といった方位を「方位線」と呼んでいます。ただし、上下の方位線だけは不動で、わたしが逆立ちしても上方は頭の延長ではなく足(下部)の延長になります。仰向けになっていれば、上方は腹(前部)の延長になります。
 そこで、ふつう上下の逆転は、上下の不動の方位線に沿った対象の上下の方位部の逆転とみることができます。左右や前後については、直立の場合、左方や前方は左部や前部と一緒に動き、方位線は不動でないためおなじいいかたはできません。方位線が関係してくるのは上下逆転の場合のみですから、ふだんは方位部と区別する必要のない成分ですが、理論的には別にしておくべきものと考えます。
2.1 さて、先生の説の中心に位置しているのは「従属軸仮説」です。わたしは以前(1984)、上下と前後を「単独で定まる組」、左右を「依存的な組」と述べたことがあります。また、ひとりの研究者(Don Locke,1977)は前者を「非寄生的な方位」あるいは「構造的方位」、後者を「寄生的な方位」あるいは「非構造的方位」と呼んでいました。他にも、命名はしていませんが、上下前後を先に決まるペアと考えている人たち(J. Bennett,1970, N. J. Block,1974)がいます。
 しかし、わたしはいまでは「依存的」「寄生的」「従属」という同工異曲の表現を捨てています。その理由は、これらの表現は、間違ってはいないが、左右の組の持つ消極的な側面「他の組をさきに決めないと決まらない」ことしかみておらず、方位の方位たるゆえんを発揮する積極的な側面を無視していると考えたからです。わたしはそれを「方位関係を同一に保つように決まる」ことと捉えます。つまり、左右の組は「どのようでないと決まらないのか」という消極的側面と「どのように決まるのか」という積極的側面をもっています。
 見方を変えれば、上下や前後は頭足や腹背にのり付けされた、その意味で非対称性に「従属」する組であり、左右は逆に非対称性に依存しない「独立」の組です。左右の持つこの積極的側面に注目すると従属軸仮説とは似て非なるものになり、鏡像問題の解明の仕方にもちがいがでてきます。「ちがう場所」といったのはこのことをさします。
2.2 従属軸仮説に戻りますが、あらかじめ確認しておきたい点があります。吉村説では鏡像は前後のみが逆転し、上下と左右は逆転しません。そこで、実物が右手を挙げるとき、鏡像は「それ自身の」右手を挙げたことになります。つぎに、実物の方が垂直軸の周りを半回転して回り込んで鏡像に重なります。このとき、実物の前後と鏡像の前後がそろいます。そして、実物の「挙げていない左手」と鏡像の「挙げている右手」が同じ側になります。この理解でよろしいでしょうか?
 先生の仮説では、鏡像は「それ自身の」左手を挙げていることになります。したがって回り込みをした場合、実物の「挙げてない左手」と鏡像の「挙げている左手」が同じ側になります。これで間違いないでしょうか?
 そして古来の疑問文の解釈では「私が右手を上げた姿を鏡に映すとき、鏡の中の私は左手を上げている」わけですから、これは先生の仮説と一致しています。なお、ここ(2.2)で使われた上下前後左右の語は対象に固有の方位をさしています。わたしの言い方では対象の方位部をさしています。

Ted 05/06/2006 13:23
 議論が長くなるようですので、以後はメールで意見交換をさせていただきたいと存じます。私のメールアドレスは xxxxxxxxxxxxx です。迷惑メール防止のため、先生がアドレスをコピーされ次第上記アドレスを消去したいと思いますので、すぐにご一報いただければ幸いです。

yt 05/06/2006 14:59
了解しました。

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