写真はわが家の庭の草花(2005年5月2日写す)。
高校時代の交換日記から
(Sam)
1952年6月17日(火)晴れ
第六巻を読み終った。あゝ何と深い感銘を覚えることだろうか。
1952年6月27日(金)
短い行ばかりしかない。
その次が空白!
ぼくは一体何をしているのか?
貧乏暇なし。まったく余裕のない生活だ。それでいて、けっしてぼくの体ははち切れるほど快活さに満ちているのではない。誰だったかが、Sam の目はたるい、といったそうだ。まったくだ。心の窓が曇っているのだろう。心も体も疲れきっているらしい。体重曲線も下降の兆しを見せている。
多忙の蜜蜂には考える暇はない、という諺があったように思う。考えることのできない者は、幸福か不幸か。
考えることのために多忙な蜜蜂もいる――。それにも考える暇はない。考える、また考える。それも、単なる葦にすぎないのと同じように――。
ヨハネ伝福音書
福音、福音、福音、福音、
見えざる聞こえざる光と音に、
我は見たり、
救いの漁に我も行きて――。
おゝ高きもの、
おゝ恵みあるもの。
明日には明日の朝日が輝くであろう。
どんな意義や言い伝えがあるのかも知らないで、むしゃむしゃと氷室の万頭というのを食べた。世の中には、えてしてこういうことが多い。
どのような精神・目的によって生みだされたものかということを顧みることなく、ただ、その結果造りだされたものをのみ云々するやからの多いことよ。
Random writings of a retired physicist
Continuation of "Ted's Coffeehouse" (now being restored in archives of this site)
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2005年5月6日金曜日
考えることのできない者は幸福か不幸か
2005年5月5日木曜日
われわれの持ち合わせていない何か
写真は堺市八田北町の泉北スポーツ広場に沿う並木。左前方にスポーツ広場がある(2005年5月2日写す)。
高校時代の交換日記から
(Sam)
1952年6月14日(土)晴れ
三限と四限の間に長土塀郵便局まで行った。ちょっとした金を送るためであった。IS 君が連れだってきてくれた。四十七円五十銭払い、無事用件をすませて帰校したら、幾何の時間に十分ほど後れていた。
買手と売手で双方の条件が一致しなければ、売買は成立しない、ということはよく知っているのだが、なかなか難しいものだ。きょうもとうとう見つけられなかった。一冊十円以内であること、現金は後払いであること、たったこれだけの条件なのに――。
たいへんな人出だ。香林坊から武蔵が辻へ行くまでに何回も足を降ろして止まらなければならなかった。
1952年6月15日(日)晴れ
リーダーなどをしているうちに午前は終ってしまった。
きょうの午後はすべて有意義だったかな? Ted もぼくも持ち合わせていないものが何かあるね。どちらか一方にそれがあれば、もっと充足した時間が得られるのだが――。Ted が尻込みする理由を、別の方面から考えなければならない。
1952年6月16日(月)雨
M・K 先生の時間に、次の時間の内職をしていて、たしなめられたが、やり遂げるまでは、止める気になれなかった。四限と六限が入れ替え、H は、ぼくがホームに本年度予算作成についての報告を行い、そのあとで HR アドバイザーの説話を聞いた。
ドレスデン国立美術館展
さる4月28日、兵庫県立美術館で開催中の「ドレスデン国立美術館展―世界の鏡」を観に行った。ドレスデンはエルベ川に沿うドイツ東部の中心都市であり、16世紀以来、ザクセン公国の首都として繁栄してきたところである。この展覧会では、12の美術館・博物館の総合体であるドレスデン国立美術館から選りすぐった品じなが展示されている。それらは、近世から近代にかけて国際交流によって集められた、世界有数の美術コレクションの一部をなすものである。(写真は兵庫県立美術館の上部に掲げられている展覧会の看板を、斜め位置の陸橋から撮影したもの。)
展示室は七つあり、「I ドレスデンの美術収集室」「II オスマン帝国―恐怖と魅惑」「III イタリア―芸術の理想」「IV フランス―国家の表象と宮廷文化」「V 東アジア―驚嘆すべき別世界」「VI オランダ―作られた現実」「VII ロマン主義的世界観」と名づけられていた。一瞬、ドレスデンはドイツの都市と思っていたのが間違いかと思わされるほど、このコレクションには各国の文化が映し出されている。展覧会の副題に「世界の鏡」とある由縁である。
第 I 室へ入ると、まず、集光鏡、四分儀、天球儀、地球儀、渾天儀が展示されている。これらは美術品というより科学技術品であるが、集光鏡は鉱石等の溶解を観察するだけでなく、美術品の成分を調べ、また試し焼きをするなど、その使用は美術と深く関わっていたようである。また、渾天儀は天のメカニズムを思い描くために考えられたものであり、ここにも科学の探求心と芸術の創造性の融和がみられる。この展覧会を紹介する朝日新聞の記事 [1] が「科学と芸術 共存の時代」と題されていたことがうなずかれる。
その記事は、今回の目玉であるヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む若い女」(1659年頃;上掲の写真の中央にその一部が見られる)が、正確な遠近法を簡単に表現できるカメラ・オブスクーラを利用したらしいことも、科学と芸術の共存の範疇に入れている。私はデジィタル写真を参考にして水彩画を描くとき、写真をちょうど画用紙の大きさにしてコンピュータのモニターに表示し、必要に応じて物差しで計測もしながら、デッサンをする。また、彩色に当たっては、画像処理ソフトによって、明るさをいろいろに変えて写真を眺めることもする。これなども科学と芸術の共存であろうか。
展示されていた絵画では「窓辺で手紙を読む若い女」のほか、ティツィアーノの「白いドレスの女性の肖像」(1555年頃)、カナレットの「ヴェネツィア、サン・ヴィオ広場とカナル・グランデ」(1722、23年頃)、カスパー・ダーヴィッド・フリードリヒの「月を眺める2人の男」(1819年)、エルンスト・フェルディナント・エーメの「サレルノ湾の月夜」(1827年)、ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダールの「満月のドレスデン」などが見ごたえがあった。日本の伊万里焼とそれに習ったマイセンの磁器(模様や絵柄もほとんど同じものが作られている)が、幾組も並べて展示されているのも興味深かった。フランスの宮廷文化の影響を受けたザクセン最盛期の君主・アウグスト強王は、伊万里焼を熱愛したそうである。強王という名からは想像し難い、繊細な心をも合わせ持つ人物だったらしい。
加藤義夫、ドレスデン国立美術館展 世界の鏡:科学と芸術 共存の時代、朝日新聞夕刊、2005年4月8日
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
テディ 05/05/2005 11:40
ドレスデンといえば第二次世界大戦末期に連合国軍により徹底的な空爆を受けて壊滅的な被害を受けた都市として有名ですね。
→4. ドレスデン爆撃(姫路城不死鳥伝説)
→Bombing of Dresden in World War II(Wikipedia, the free encyclopedia.)
それらの美術品は戦火をくぐりぬけたのでしょうか?ドレスデン国立美術館展の Web Site を見てもそこらへんに触れた記述はありませんでした。
Ted 05/05/2005 17:04
私も、その点を不思議に思っていました。最近テレビのクイズ番組「世界不思議発見」で、古代エジプト女王の像が、戦争中に他の美術品とともに岩塩の採掘坑へ疎開してあって、戦火をまぬがれたという話がありましたが、それらがドレスデン国立美術館のものだったかも知れません。
Y 05/08/2005 14:19
兵庫県立美術館は、あの世界的な建築家の方がデザインされた、けれども少し不便なところにある美術館でしたでしょうか? 長時間かけて行ったことがあるのですが、混同していて…この美術展は行きたいですねー。私は京都の美術館については、あまり納得していないのです。博物館はいいのですが。それに、京都は土日の人出がすごいので、行列にもまれなければなりません。夫と一緒にしか行かないもので、土日になるのですが。
ヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む若い女」がありましたか、それは素晴らしいですね。科学領域に見出せる芸術性や美術、芸術創作に欠かせない科学的要素、というのは確かにあると思います。
Ted 05/08/2005 14:47
そうです。兵庫県立美術館は安藤忠雄氏が設計したもので、JR灘駅から南へ徒歩約10分、阪急王子公園駅からならば約15分のところです。土日はやはり混雑すると思います。
2005年5月4日水曜日
Life's Speeding Up at Higher Ages (歳とともに人生は速くなる)
概要:表記のことを題名にした本 [2] の批評 [1] が Nature 誌に掲載されていたので読んでみたが、その書評中には、そのことの理由までは紹介してなかった。インターネットの書店・アマゾンのウエブサイトで顧客による同書の書評 [3] を見たところ、親切にもその理由が書いてあった。定説はないが、1890年にウィリアム・ジェイムズが次のように説明しているそうだ。若いときには毎日新しい経験をするが、歳とともに毎日・毎週・毎年のことは日常化し、均されて、記憶に残るような時間が少なくなる。そこで、振り返ってみると、記憶の一杯詰まった時期が、長かったように思われるのである、と。(本文は英文のみ)
We sometimes say, "Time passes faster as we get older." But this is a strange expression, because we cannot define the speed of time. In physics speed is defined as the distance traversed by something within a unit time, and time is not the thing that travels through space. In everyday language the concept of speed is also used to refer to the frequency of some event happening within a unit time. For example, we say about a woman who utters many words within a given duration of time, "She speaks quite quickly." However, time is not an event happening along time either.
In the latest issue of Nature I found a review [1] of the book entitled "Why Life Speeds Up As You Get Older" [2]. "Life speeds up." -- This seems to be an appropriate expression. The appropriateness comes quite naturally; the author of the book, Douwe Draaisma, is a historian of psychology at the University of Groningen in the Netherlands. I wanted to know what was the author's answer to the question "Why does life speed up as you get older?" and read the review.
The reviewer, Yadin Dudai of the Department of Neurobiology, Weizmann Institute of Science in Israel, writes a brief introduction to the science of memory in the first half of his review. Note that the subtitle of the book reviewed is "How Memory Shapes Our Past." So, I noticed that the central theme of the book is not human perception of time but memory.
From the review we learn the followings: Memory can be classified into "declarative memory" and "non-declarative memory." The latter refers to bodily memory such as habits and modified reflexes. The former refers to conscious memory, and includes "episodic memory" and "semantic memory." "Episodic memory" is mental travel to the personal past, usually involving some re-experienced emotion. "Semantic memory" is acquired information transparent to conscious awareness and not always related to unique personal experience.
Dudai then tells us these: Draaisma's book reminds us that an interest in memory is primarily synonymous with a wish to understand the joy and sorrow of personal memory, i.e., "episodic memory." The book is a fine collection for memory lovers who will appreciate the facts it contains as well as rich metaphors. The title of the book comes from one of touching essays included in it. -- Oh, I could not learn the answer to the question "Why does life speed up as you get older?" --
Then I sought other reviews on Draaisma's book at Amazon.com Web site. There was just one good review written by a customer. The writer, Rob Hardy, is a psychiatrist and is ranked at the 50th among Amazon.com customers who send reviews (by the way, I am the 3537th). He kindly writes what I wanted to know as follows: There is not a fully accepted reason for that question. William James explained in 1890 that in youth, there were novel experiences, something new every day, but that every passing year brought routine which smoothed the days, weeks, and years into a collapse of time. A period full of memories, viewed in retrospect, seems to expand and be fuller and longer. [William James (1842 - 1912) was an American philosopher and psychologist, and was the novelist Henry James's brother.]
Y. Dudai, Nature Vol. 434, p. 823 (2005).
D. Draaisma, Why Life speeds Up As You Get Older: How Memory Shapes Our Past translated by A. & E. Pomerans (Cambridge University Press, 2004).
R. Hardy, Evaluation of Our Real Memories (Amazon.com Web site, 2005).
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
Y (Nomura,Atsuko) 05/04/2005 15:24
驚嘆するような「個人的に私の分野にとって」重要な、懐かしい単語の数々をあたえていただき、ありがとうございます。ですので、私の立場から述べていきますね。ウィリアム・ジェイムズはもちろん私の分野では哲学者として名を残した人で、私の大学院指導教授かどなたかの恩師が、ジェイムズ研究を過去になさっていたはずです。でも、Ted さんが捜し求められた、"Why does life speed up as you get older?" への答えですが、私も想像に過ぎませんが、歳を取るほどに時間は(時間の過ぎ去る主観的な感覚は)速い、ということで、日常的な感慨で納得できることだと思うのですね、私の歳ですと、まだ10年前と比較してもなかなかそうも思えませんが…もちろん別様・正反対の感慨もありますね。
実は内容が、大変ついていきにくい、つまり、私の分野の問題そのものが取り上げられているのですが、「哲学の源流・発想」とはかなり異なる域で考察がなされているので、ともかくも「哲学→精神病理学」の立場から、以下、申し上げますね。
Ted さんがお書きになった英文には、西田幾多郎の哲学の英訳としてぴったりだと私が思ったものが多く含まれています。awareness を「自覚」、reflectを「映す」、これらはぴったりだと思います。私は西田哲学は未だ専門外ですが、「自覚」は conscious を取り除いた(西洋哲学だと「超越論的に」常に既に判っている、ということになります)awareness だと思いますので(時間や自己についても、反省意識を限りなく、自己の感性に誠実に延ばし拡げていくと、常日頃意識しているような領域の事項は「解り切っていること」として取り払われる、つまり哲学では「未だ解明されていないこと」を解明していくので、「自明なこと」は解説不要にするのです、これは科学論文でも自明な先行研究の紹介は省略されると親友から聞いていますから、同様の面がありますね)。
とにかく私は、英文の本文を読んで、episodic memory、この episodic には、やはり一面的な物語性を有した記憶、という印象があり(精神分析的には、そのように簡単に片付けてはならないのですが)、semantic memory の方を重視したくなるのですが、 "Semantic memory" is acquired information transparent to conscious awareness and not always related to unique personal experience." この通りだと思います、ただ、information という単語のみ、何かもっと奥行きを持った単語に変えられないだろうか、と思ったのですが、いかがでしょうか。とにかく私の分野では、生命性を深く有していない単語は使わない、という方針なのです、また英語についてお教えいただければ。
"there were novel experiences, something new every day, but that every passing year brought routine which smoothed the days, weeks, and years into a collapse of time." はい、この通りだと共鳴します。
私は以前、初めての哲学ブログで、タイトルを「哲学的センス=『体』で理解するもの」と端的に表しましたが、このブログは、「最低20年弱、生きてきた体の歴史があれば(哲学をやるには)十分です」といった文章で始まっていました。20世紀哲学・現象学は身体論だと説明していますが、もちろん精神病理の解明にこの上なく有益だったのですから、「心・精神を含む身体論」でして、たとえば「愛」や「体のセンス」や「Ted さんの水彩画の素晴らしいセンス」のようなものは、この身体や現実空間のどこにも、表層的な視覚でもって「発見する」ことはできませんよね、このようなものを「発見し、解明していく」のが現象学哲学です。
私がやはり疑問に思ったのは、本ブログでご紹介いただいている中では、「時間」「空間」「記憶」「過去」などがどんどん連関させられているのに、「存在論」が見出せないことなんですね。哲学でも、堂々と存在論を書いた哲学者はまず少なく、ハイデガー『存在と時間』(これは未完の大作、何と失敗作でもありますが、不朽の名著です)が歴代、第一にくる名著でしょうし、私の修士課程での第一専門でもあります。
『存在と時間』は恐ろしく魅力的な文体ですが、われわれは将来へ向かって自己(という表象、あるいは自己認識、自己認知)を「投企」し(=つまり、自分は未来において、このようにありうる、このような存在でありうるだろうという自己表象を「投企」する)、最終的にはたえず「おのれの死へ向かっての(時間を歩む)自分」というこの人生を、不安があろうとも受容する、という時間論ですね。たえず出てくるのが「世人」で、これは世の中の人々の総体、どの unique な私でもないような「世人的自己」に没入することなく、真に自己自身になりきること、が解かれるのですが、ハイデガー論への私の修士論文での批判は今回は省略します。
私が統合失調症患者の「仕事論」や「作業療法」が、とよく言っていますよね。これはroutine に近い、それ自体それほど大きな社会的な意味は生産しないかもしれない「日常的手仕事」ですが、それが彼らのリハビリや「日常生活の形成、生成」に非常に良いと、考えられて実践されているのが、精神科医療の日常です。そのような「日常性」に徹して患者さんたちのために尽くしたうえで、「この人生を物語(ドイツ語ゲシヒテ)そのものだと」思える(そのように認識しえた)ということが肝要ではないかと、私は考えているのです。——理解しづらい点がありましたら、いつでもおたずねください。個々簡潔に、省略内容が多いままで書いていますので。
Y (Nomura,Atsuko) 05/04/2005 18:41
現象学という哲学が扱うもの、もう少し書いておきますね。統合失調症患者さんが「自然な自明性の否定を生きる患者さん」だと現象学的に解かれていたのが、関連してお分かりいただけると思います。「葛藤」「皆に合わせる人付き合い」「不安」「会話や日常生活や恋愛の『ルール』」「この人生での目標」「死」といったものを扱う「身体論」なのです。また、では精神分析学の立場からだと、どんな見識をご提供できるのか、といったこともおいおい、お話できればと思います。「シニフィアン」(意味するもの)「シニフィエ」(意味されるもの=書かれた文字(などの記憶))など、今日の記憶時間のテーマとぴったりなのですが。
Ted 05/04/2005 21:36
「実は内容が、大変ついていきにくい、…『哲学の源流・発想』とはかなり異なる域で考察がなされている」について:私のオリジナルな英文は第1パラグラフだけぐらいのもので、あとは書評の紹介(文としては書き換えもしていますが、用語は借用しています)なので、ここで取り上げた本の著者が心理学者、そして書評を書いたのが神経生物学者であることが、哲学とは異なった発想様式になっているのでしょう。しかし、本当は異分野間で通じる合えるような書き方をすることが重要だと思います。
「semantic memory の方を重視したくなる」について:心理学の研究では episodic memory の実験は困難なので、確かに最近は semantic memory が重視されているようです。しかし、人びとが恐れるのは、episodic memory の喪失で、別の意味でこちらも重要といういことを Draaisma の著書は想起させているようです。Information の語は書評を書いた Dudai が使っているのですが、私も少しぴったりしない気もしました。どう言い換えればよいかは、ちょっと思いつきませんが。
「疑問に思ったのは、…『存在論』が見出せないこと」について:記憶について、その基本から議論するには「存在論」が関わってくるでしょうが、Draaisma の著書は、記憶について人びとが疑問に思いがちな話題を随筆風に書いたものなので、「存在論」から説き起こすことをしていないのだと思います。
Y (Nomura,Atsuko) 05/04/2005 23:05
はい、今一度、読み直してみました。大学院入試で普通に通ったぐらいで、10年近くまともに英語を読んでいませんので、加えて、上のコメントは私の研究分野の色を出しすぎて、ブログ本文にあまり丁寧に接しきれていなかったのと、異分野間での話が交わしきれていませんでしたね。
一回目に読んだ時もそうですが、Ted さんのオリジナルな文と、他の心理学者・神経生物学者の方が書かれた論と、それからウィリアム・ジェイムズの論そのものとは、だいぶ読んでいて判別つくのですね。
私は、ドイツ語・フランス語交じりの日本語の論述しかした経験がまだありませんが、その際、正確な引用でなくとも、「information(A(氏))」と、(強調するなら)information の部分をイタリックにして次に括弧でその語をあえて用いた論者の名や年号を入れる、などすると、原典に忠実に論ずることができますね。論旨の要約の場合も、「…とAは述べる」等と、要約を閉じる場所を明確にしますね。日本語論文の場合ですが。ですが確かに、世界的に著名なドイツ語原典などになると、上記の手続きがどんどん省略されたレベルのものを読者は理解しなければならないので、これと決まった論述方法はないように、広義での文化論の類は見てきているのですね。
それで、ブログ本文は一貫して memory についてのお話ですものね、その点を尊重しないといけませんね。「人びとが恐れるのは、episodic memory の喪失で、別の意味でこちらも重要といういことを Draaisma の著書は想起させているようです。」まさにそうなんですね、実はどちらも重要だと思います。ですので、精神分析学的に観れば、どちらの memory も重宝されるものだと私は判断したのです。コメント分量を考えたため説明が足りませんでしたね。episodic memory の方に、恐らく私が提示したかった「人生の物語性」が多く見出されるのだろうと思いますし、またそれはその episodic の性質ゆえに「繰り返し想起される」のでしょう。re-experienced emotion を含むのですから、私のような心的外傷の障害だと、これこそが「想起され、恐怖になって繰り返される」のですね。
なかなかもって、過去に渡っての自分の記憶と、「歳とともに人生は速くなる」ということとを簡潔につなぎあわせて論ずるのは大変な作業だろうと思いますが、テーマは大変興味深いと思います。「人生は速くなる」ということで、私は「未来へ向かって速く前進する自己」というふうに理解し、それでハイデガーの将来への「投企」概念を提出したのですね。ですが、「私たちの人生の過去へのこだわり」「過去はどのように形成され、何ゆえに大切なのか」というところに焦点を当てたほうが、この問題は考察しやすいでしょうね。
Y (Nomura,Atsuko) 05/04/2005 23:14
訂正:要約の際は、「…とAは述べる」よりも、「…といったようにAは述べている」などと、緩みをもたせて、引用ではなく要約であることを明示するのですが、英文ではどうなるのかは、Ted さんのほうがよくご覧になっていることと思います。
Y (Nomura,Atsuko) 05/05/2005 00:34
もちろん、information をイタリックにするのは、よほどの論点提示の強調の場合ですので、普通は引用符で次に括弧に論者と年号を入れれば良いですよね。でも、重要な研究成果は、年号をもう省略していったり、あるいは本ブログのジェイムズ論のように、最重要なものは年号を読者に確かめておきますね。
Y (Nomura,Atsuko) 05/05/2005 00:42
Ted さんに教えていただきたい英語の真意がありまして、real や reality ですね。「本当の」「現実的な」「真実味のある」といった意味をどれも含み、actual、actuality と比較しても(これは社会的な「事実問題性」がある場合によく使いますよね)、やはりreal、reality の方を、主観的な体験である memory の問題に関しても使いますよね? →私の読んできた精神病理学の文献に、これらがしょっちゅう出てくるのですが、皆英語の達人ではないので…でも、私のやる社会福祉学はもちろん英語を使えないといけませんから。
Ted 05/05/2005 11:10
英文で書くときの引用の方法ですが、物理学の論文では、一ヵ所に複数の文を引用するような機会は滅多にないので、そのような場合の取り扱い(インデントしてそっくり引用するという簡単な引用方法は別として)については、私もよく知っているとはいえません。今回の元記事では、第1〜3パラグラフが私自身の文(昨日、第1パラグラフぐらいしかない、と書きましたのは、記憶違い)、第4パラグラフの "followings:" のあと、パラグラフ終りまでが引用ですが、記述の順序を逆にして、大分類から小分類へという書き方に変えています。第5パラグラフの "these:" のあと、 "--" の前までは、とびとびの箇所からの引用をつないでしまっています。第6パラグラフの "as follows:" 以下、"[" の前までは、文を多少修正しての引用です。ということで、おおよそは似た形の引用(":" の次から始まり、大体パラグラフの終りまで行く)ですが、細かい点では互いに多少異なる引用方法になっています。
「未来へ向かって速く前進する自己」をお考えでしたか。Draaisma の著書は、副題から分かるように記憶をテーマにしているので、そこでは、「歳とともに人生は速くなる」も、記憶にかかわる一現象として扱われているのです。私は最初、副題に留意しないで、時間の知覚に関する本かと思ったのでした。Y さんにとって、episodic memory(autobiographical memory とも呼ばれるようです)は、ご病気とも密接な関係があったのですね。
Real、reality、actual、actuality などについてですが、物理学上は現象の模型(model)と現象そのものを区別するためなどに、後者を real phenomenon とか reality と呼ぶことはありますが、actual や actuality が登場することは、ほとんどないように思います。木村敏先生は『偶然性の精神病理』の「序論」で、「リアリティが現実を構成する事物の存在に関して、これを認識確認する立場から言われるのに対して、アクチュアリティは現実に向かってはたらきかける行為のはたらきそのもに関して言われる」と書いておられます(「序論」から先へはまだほとんど読み進んでいないのですが)。これはラテン語の語源からのご説明ですが、これによって、物理学において reality がもっぱら使用されていることがうなずかれます。
Y (Nomura,Atsuko) 05/05/2005 14:39
丁寧にお答えいただき、ありがとうございます。"followings:", "these:", "as follows:" でだいたい、パラグラフの終わりまで行く、という引用・要約方法は、本当に教科書を読み直すようで再勉強になります。どれぐらい早期に、英語を使う仕事をいただけるかはわかりませんが、学会・大型研究会でも福祉・医療関係で一つは既に学会員として即日認められましたね、後二つも志あれば誰でも可、で非常に良い所として既に見つかっているので、いろんな方にまずお会いするのでしょうし、その時に余りに福祉系で珍しい(初、ですね)京都大学出身、という名を背負ってしまうと力が落ちている、等と言い訳できませんからね、「任せてください」と言わねばならないので…。長く一度も研究者を休んでいない夫もその日々ですから一言会話するたびに鍛えあうようにはなりました。
私は、もともと心理学科に少しいましたので、心理学論文では確か、筆者名(年号)と、必ず筆者の直後にその論文の年号を括弧で入れよ、という原則が英語・日本語両論文であったと思います。とにかく、Ted さんは多分野の方に読まれる書き物を今後、していかれると思いますので、皆に共通に伝わる表記であれば良いのでしょう、文科系だけでもこれだけ表記の仕方がばらばらなのですし。私の分野ですと、大きい(大テーマの)文献からの引用・要約は、引用・要約部分が終わった所に(SZ110、訳書220頁)といった簡略表記 "SZ" を用いて、全文の後に、これらの大文字で簡略表記した文献の表題など、すべての文献表記をします。これだと、何度もこの重要文献を本文中で楽に引用できますので。SZ は、Sein und Zeit.『存在と時間』の簡略表記で、頭文字を取るのですね。私は卒論(50枚)が詳細な注釈99個、でしたが、修論(144枚)では、この簡略表記を2文献(不朽の名著・大作なので2文献で修士号レベルになります)について用いたおかげで、簡単な注釈24個で済みました。
私はもちろん広くも狭くも「現象学」専攻ですから、phenomenon やその関連領域の学についてお教えいただけると有り難いのです。Ted さんにお教えいただいた、現象の模型(model)は、大変幅広い学をやったアリストテレスの哲学だと「イデア」の中に入るだろうと思いますが、これに対して、「(物理)現象そのもの」を real phenomenon とか 、また reality とさえ呼ぶのですね。actual はもちろん、語源からいえば「行為」から生起する語で、この「行為」には、「周囲の人にあまりに気を遣いすぎる病気」(=統合失調症に多い)などの「心的・精神の『行為』」(哲学用語「行為」でまとめると便利だからです)を論じる時に良いか、とも思うのですが、
私が Ted さんがお読みではないかな、と思うのは、語感から、物理学ではまず出てこないだろうと思ったのですが、平和の問題に関する英語の書き物や英字新聞を先生がお読みになる時に、「今日ほど、これが actual な問題であったことはない」といったように、上に書きましたように社会的な「事実問題性」がある時に、actual はやはり慣用的に使うのだろう、すると語源にさかのぼって、という、哲学に多い手法(ハイデガーが一番よく使うのです)より、今日的な日常英語が尊重されなければならないのでは、と思ったのです。
精神病理学だと、「精神現象そのもの」を扱う、ということで、やはり real phenomenon や reality の範疇に、これらは収まるだろう、と考えていたのが私なんですね。actuality は精神現象の「ありありとした現実性」(たとえば芸術を内面でじかに受け取るときなど・・)と相性が良いと思うので、また保留なのですが。
Ted 05/05/2005 17:39
私がブログやホームページに英文で書くものは、随筆のつもりで、論文にするつもりはありませんので、いままでのところ、引用のスタイルもややいい加減です。しかし、随筆といえども、できれば、きちんとしたスタイルを使った方がよいだろうと思います。その意味で、心理学論文のスタイルについて書いて下さったのは、参考になります。
4月18日付けブログ「時間について」で紹介しました Whitrow の "The Natural Philosophy of Time" にも心理的時間あるいは記憶について書いたところがないかと思って、きょう、取り出してみたところ、私が以前読みかけて中断していたのが、ちょうど、"Human Time" という章中の "Time and the psychological aspects of memory (i)" という節の手前でした。そこに、記憶と忘れることの関係の面白い記述が、引用の形も使って記されていますので、ここに引きます。
We therefore arrive at the paradoxical conclusion that an important condition of remembering is that we should be able to forget! 'Forgetfulness, except in certain cases, is not a disease of memory, but a condition of health and life' (Ribot 1885).
引用の形式は教えていただいた心理学分野のものと同じですね。
確かに、時事問題の英語では actual がよく出て来ると思います。
伝統の新聞部対抗ソフトボール試合
写真は泉北下水処理場の脇で(2005年5月2日)。
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年6月14日(土)
七尾へ行った疲れで昨夜は早く寝たが、きょうの二つの試験はたいしたこともなかった。しかし、計算違いなどしなかったら、もっと快かっただろう。
伝統を誇る二水対菫台の新聞部対抗ソフトボール試合。第1試合は14 – 0で大敗したが、次の試合は1 – 1から延長戦となり、8回表に二水が1点を挙げれば、こちらがその裏2点を返して、3A – 2で勝利をものにした。三塁を守りトップを打っていた少し細長い KS 君というのが編集長かい? Sam も来ればキャラメルを一箱ご馳走したのに。タイプの方が忙しいかい? 2試合を通じて、ぼくは2四球と1安打を奪って、6打数2安打の Jack と同率だったが、得点には少しも貢献できなかった。HM 君と UN 君は7本に2本、二水の2年生で6本に4本という、ずば抜けたのがいた。試合後、二水チームを編集室へ招き入れ、HM 君とKS 君は将棋の勝負を試みた。
昨日 Sam に M・K 先生の時間があったとすれば、休講だっただろう。今度は先生をよく拝顔したが、4月17日の絵はだいぶん違っていたね。眼鏡をかけておられなかったが、前にかけておられたと思ったのは、勘違いだっただろうか。高文連新聞部理事会は七尾高校の図書室で行われ、会長(理事長か)の小松高校 NK 校長が、あごの先よりもずっと奥の方にあって、その両側に()型のくぼみをたくわえている口で、巧みなユーモアを交えながら司会をされた。生徒代表委員は思ったより少なかった。新聞コンクール、新聞研究委員会の開催、機関誌の発行の三つが議題で、2時間話し合い、3時に終った。M・K 先生は前回の研究会のときと同じく、始めのうちずーっと他の人たちの意見を聞いていて、後になってから、ずばずばと、ところどころ語尾を長く引っ張り、舌を上下のあごにしっかりと打ちつけ打ちつけ発音するような話し方で意見を吐露された。



