2005年5月6日金曜日

考えることのできない者は幸福か不幸か


 写真はわが家の庭の草花(2005年5月2日写す)。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年6月17日(火)晴れ

 第六巻を読み終った。あゝ何と深い感銘を覚えることだろうか。

1952年6月27日(金)

 短い行ばかりしかない。
 その次が空白!
 ぼくは一体何をしているのか?
 貧乏暇なし。まったく余裕のない生活だ。それでいて、けっしてぼくの体ははち切れるほど快活さに満ちているのではない。誰だったかが、Sam の目はたるい、といったそうだ。まったくだ。心の窓が曇っているのだろう。心も体も疲れきっているらしい。体重曲線も下降の兆しを見せている。
 多忙の蜜蜂には考える暇はない、という諺があったように思う。考えることのできない者は、幸福か不幸か。
 考えることのために多忙な蜜蜂もいる――。それにも考える暇はない。考える、また考える。それも、単なる葦にすぎないのと同じように――。

 ヨハネ伝福音書
  福音、福音、福音、福音、
 見えざる聞こえざる光と音に、
 我は見たり、
 救いの漁に我も行きて――。

 おゝ高きもの、
 おゝ恵みあるもの。

 明日には明日の朝日が輝くであろう。

 どんな意義や言い伝えがあるのかも知らないで、むしゃむしゃと氷室の万頭というのを食べた。世の中には、えてしてこういうことが多い。
 どのような精神・目的によって生みだされたものかということを顧みることなく、ただ、その結果造りだされたものをのみ云々するやからの多いことよ。

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