2010年2月27日土曜日

科学と文芸:湯川秀樹の場合 (Science and Literature in H. Yukawa)

 さる2月18日、姫路京友会で行なった講演の要旨を以下に記す。なお、より短い英語版を先に掲載した。




 湯川秀樹は幼少の頃から中国古典に親しんでいた。彼の半生の自伝『旅人』[1] には、5、6歳の頃、祖父から『大学』『論語』『孟子』などを習ったことが記されている。そして、『湯川秀樹自選集』第5巻 の「まえがき」[2] に概略次のような記述がある。

 ——私は若いころ、 芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭の文、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」に共感していたが、この文の前半は、私が同じく好んでいた中国唐時代の詩人・李白の言葉、「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」からの引用である。逆旅とは宿屋の意味で、李白の文の前半からは「この世界は万物のために、ある種の受け入れ態勢を整えている」という含意を汲みとれる。1964年頃に、このことに気づき、物理学者の集りで、「いれもの」としての時間・空間と、「中味」としての素粒子の間の相互規定を考える手がかりになりそうだとして、この言葉を何度も引き合いにだした。——

 1964年といえば、湯川が素領域理論を発表した1966年の2年前である。ここまで読んだ限りでは、湯川は素領域の概念を説明する例えに李白の言葉を利用したようにもとれるが、さらに先を読むと、前者と後者の関係はもっと密接なものだったことが分かる。すなわち、次の通り記されている。

 『これが二年ほど後に「素領域」という概念を結晶させるための核ともなったのである。こんなことを言うと、人は奇妙に感じるかも知れない。しかし私にとって、学問と文芸とは全く別なものではない。』

 湯川の素粒子モデル作成において、李白の言葉はきっかけの役割を果たしたのである。このことは、専門書 [3] の中にも記されている。そこには、素領域の概念についての導入文として、素粒子論の専門書にしては珍しく、式も記号もない三つのパラグラフが2ページほども続いているところがあり、その中ほどに次の文がある。

 『…広い意味の原子論的視点をさらに拡げて、時間・空間についても分割不可能な最小領域を想定してみたらどうであろうか。後になって思い返すと、こういう考えが漠然とした形で相当期間、意識下に潜在していたらしい。しかし、それを顕在化させる、もうひとつの動機となったのは、ある時 "天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり" という唐代の詩人、李白の言葉が念頭に浮んだことであった。』

このあと、李白の言葉の説明と解釈があって、次の文が続く。

 『そこで、もしも天地という代りに3次元の空間全体、万物という代りに素粒子という言葉を使ったとすると、空間は分割不可能な最小領域から成り、そのどれかを占めるのが素粒子ということになる。この最小領域を素領域と名づけることにしよう。』

上記の文では空間の最小領域だけについて述べてあるが、これに続いて、時間を含めた4次元素領域の考察が展開されている。このあたりの文は、専門書中の素領域概念の導入文としては長すぎる感がなくもないが、李白の言葉が、意識下に潜在していた考えを顕在化させる一つの動機になったという、湯川の思考過程が記録されている点では、貴重なものといえよう。

 ところで、湯川のノーベル賞受賞対象となった中間子論の場合も、何か中国古典の言葉が発想の一つのきっかけになったということがあっただろうか。湯川の大学での同期生で、原子核実験を専門にした木村毅一は、京大での「原子核物理学実験」という講義の中で、『老子』と並び称される『荘子』の一節を引用して、『湯川君は中国古典に造詣が深いから、彼の中間子論はこの言葉がヒントになったのではないかと思う』という話をした。その『荘子』の一節を記憶している人はいまのところ見当たらないが、『荘子』にはそれらしい言葉がある。例えば、「陰陽相い照らして、相いそこない相い治む」[4] である。湯川はこの言葉から、陽子と中性子が電荷を帯びた中間子を交換して互いに引き合う力を生じるときに、相互転換する、すなわち、陽子と中性子が入れ替わる、というアイディアを得たのではないか、と木村が考たように思われる。

 しかし、陰陽の陽のほうが陽子を連想さるとしても、陰を電気的に中性である中性子に結びつけるのはしっくりしない。また、陽子・中性子の相互転換については、湯川よりも先にドイツのハイゼンベルクが、核力の初歩的理論を提唱したときに、すでに述べているので、木村が注目した『荘子』の一節は、これとは別の、中間子自体を直接連想させるようなものだったかも知れない。いずれにしても、『荘子』の言葉と中間子論の直接的な関係はなかったということが、湯川の随筆から分かる。これについては後で述べる。

 上記の木村の講義がなされたのは、1957年頃である。他方、湯川が李白の「天地は万物の逆旅」を契機の一つとして素領域理論に取り組み始めたのは、それよりも後の1964年頃である。湯川は『荘子』の一節を中間子論のヒントにしたのではなかったが、木村がその可能性について湯川に質問していたとすれば、そのことが、湯川の心に中国古典の言葉を素粒子論のアイディアに役立てようという気持ちを誘起したと想像できなくもない。

 中間子論発想の契機については、朝日新聞の記事 [5] に、柔道家の芦田幸男が大学院生時代に湯川博士から電車の中で聞いたという話がある。湯川は夫人が産気づいて産院へ駆けつける途中、「赤ちゃんが求心力となって夫婦を密着させる。そんな存在が原子核にあるのではないか」と考えたという話である。これは実際のいきさつというより、湯川が中間子の概念を専門外の人にわかりやすく、また、面白く伝えた例え話ではないだろうか。

 物理学史の上では、中間子論発見のいきさつは、先行して発表されたハイゼンベルクやフェルミの理論を参考にして、さらにまた、すでに分かっていた電磁気的な力が、光の粒子である光子を媒介にして生じているということからの類推(アナロジー)によって、電磁場の方程式に手を加えた式から出発するという、巧みな方法でなされたということになっている。ただ、アナロジーというものは、文芸でよく使われる「例え」に似たものであり、湯川博士の中国古典の知識が、アナロジーの巧みな発揮に役立った、という間接的な影響は大いに考えられる。

 湯川博士と中国古典の『荘子』の関係としては、その中の「渾沌」という寓話にふれた随筆 [6] が、中学校の国語の教科書に載っていたようで、湯川といえば渾沌を思いだす人もある。湯川は、その随筆の初めに、中学生時代には『老子』や『荘子』をよく読んだが、それ以後長らく老荘の哲学を忘れていたと書いている。この随筆は1961年に書かれたものであり、1935年の中間子論の発表は、老荘哲学を忘れていた期間のことになりる。したがって、先述のように、中間子論の着想に中国古典の直接的な影響はなかったことになる。

 その随筆には、続いて、「四、五年前、素粒子のことを考えている最中に、ふと『荘子』のことを思い出した」として、渾沌の寓話が紹介されている。その寓話は次のようなものである。

 ――南海の帝王・シュクと北海の帝王・コツが中央の帝王・渾沌の領土へ来て会い、渾沌から歓待された。そこで、シュクとコツの二人はお礼として、渾沌が持っていない人間の七つの穴、目、耳、口、鼻を試しにあけてみることにした。毎日一つずつ穴を作っていったところ、七日目に渾沌は死んでしまった。――

この寓話の紹介の後に、湯川はこれを思い出した理由を概略次のように述べている。

 ――この随筆が書かれた当時、基本的な素粒子と考えられていた陽子や中性子に加えて、それらの仲間が多数発見されて、素粒子が30数種にもなっており、素粒子よりも、もう一つ進んだ先のものを考えなければならない状況であった。素粒子よりも先のものとは、さまざまな素粒子に分化する可能性を持った、しかしまだ未分化のもののことで、それを、私がそれまでに知っていた言葉でいうならば、渾沌というようなものになる。――

 さらに続いて、渾沌の話に登場するシュクもコツも素粒子のようなものと考えて、それらが、南と北からやってきて、渾沌の領土で一緒になったことを、素粒子の衝突が起こったのだと思えば、渾沌というのは、素粒子を受け入れる時間・空間のようなものといえる、という意味の記述がある。これも、素領域概念のほうの一つの端緒と考えられるような言葉である。

 なお、湯川と『荘子』の関係としては、別の話題もある。湯川は『荘子』の「 天地の美にもとづきて、万物の理に達す」という言葉を好んでおり、中間子論発表30年を記念して1965年に京都で開かれた素粒子国際会議の準備中、彼の「この言葉はぼくの気持をよく表わしているのだが…」という発言で、その会議の招待状に、「原天地美 達萬物理」と漢文でスカシにして入れることになったということである [7] 。

 以上、湯川の素領域理論の発想には李白の言葉が重要なヒントになっていたということと、中間子論と中国古典の直接的な影響はなかったものの、木村が影響を想像した『荘子』の中には、確かに湯川の好んだ寓話や言葉があったということを見て来た。

 素粒子物理学の分野で新しい理論を生み出すには、まず物理的な模型を考えて、さらに、それを数式化することが必要である。このうち、新しい模型を考え出すという第一段階では、想像力が重要な役割を果たす。したがって、想像力と数学的能力は、理論物理学者にとって車の両輪のようなものといえる。湯川の場合、想像力を培った一つの主な源泉が中国の古典だったということは確かだと思われる。そして、中国古典の影響は、中間子論の場合には、アナロジーの巧みな利用という間接的な形だったと思われるが、晩年の素領域理論では、もっと直接的な、発想のヒントという形だったということは、物理学史上でも珍しい例ではないだろうか。

文献

  1. 湯川秀樹, 旅人,『湯川秀樹自選集』 第5巻, p. 5 (朝日新聞社, 1971).

  2. ibid, p. iii.

  3. 湯川秀樹, 片山泰久・編,『岩波講座 現代物理学の基礎11 素粒子論』(岩波, 1974).

  4. 金谷治・訳注『荘子』 (岩波, 1971) 第三冊, p. 313.

  5. 「ニッポン人脈記:柔道のこころ(8)」,『朝日新聞夕刊』 (2006年5月25日).

  6. 湯川秀樹,「『荘子』」, 『湯川秀樹自選集』第3巻, p. 363 (朝日新聞社, 1971).

  7. 中間子30年 (上), 『朝日新聞』 (1965年9月20日).

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