2010年5月25日火曜日

2010年4月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y.'s Comments on April-2010 Articles)

 M.Y. 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2010年4月分への感想を5月24日づけで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。




1. 「街頭で名を叫んだ日に:井上ひさしさんを悼む」

 「さる4月9日は、『福泉・鳳憲法9条の会』の署名活動の日で、午前中に私は何人かの仲間と街を歩き、マイクで「日本が二度と戦争を起こさない平和な国であるように、憲法9条を守り、また、これを世界に輝かせようと、井上ひさしさん、大江健三郎さん、故加藤周一さんらの呼びかけで、2004年に『九条の会』が発足しました」と叫んだ。井上さんの他界はその晩のことだった」と井上さんを悼んでいます。

 ——戯曲は60を超え、小説、随筆も多数執筆しているとのことだが、筆者はそのどれをも知らない。ただ、彼と「こまつ座」が編集した写真集『井上ひさしの大連』を持っている。井上さんの親友が、1944年9月に、筆者と同様に日本から大連の国民学校へ移った。——この二つのことが、筆者と井上さんとの結び付きに過ぎませんが、テレパシ-で通じているかのごとく、筆者の憲法9条を守る活動を励ましているように感じられました。

 井上さんはらは、「9条の会」を「平和都市にふさわしい鎌倉にも」と呼びかけ、2005年6月10日に会発足の記念講演会を計画しました。準備会は市から後援を取り付け、ポスターやチラシなどにも「後援・鎌倉市」と入れました。ところが直前になって後援取り消しの通知が届きました。講演会には、会場いっぱいの1400人を超す人たちが参加しました。呼びかけ人の井上氏、三木睦子氏、内橋氏が話し、なだいなだ氏がメッセージを寄せました。井上さんは後援を取り消した市長の姿勢を批判し、イラク戦争で米軍の活動を民間会社が請け負い、副大統領が最高責任者の会社があることを紹介し、「そこになぜ協力して大事な憲法を変えようとするのかというのが最大の義憤です」と訴えました。

 「9条の会」は、政治家に頼らない草の根の運動として、粘り強く活動を続けていくことが筋合いでしょう。井上さんは、顔を出すことが最後となった昨年5月の会の催しで、「これから明るく、楽しく、面白く、憲法を考えながら、ことがあったときには、「いざ鎌倉」という言葉もあるくらいで、暗くなく頑張りましょう」と話されました。朝日新聞が4月17、18日に実施した世論調査では、9条改正については67%が反対、「平和に役立つ」と考える人は70%にのぼったことが報道されています。民意は時代の情勢に左右され、移ろいやすいものです。筆者のますますのご活躍をお祈りします。

2. 「竹田城跡と立雲峡へのバス旅行」

 「中国・舞鶴若狭道、遠阪トンネル、和田山を経て、正午前頃に山城の郷へ着く。車中から眺めた加古川沿いの桜並木も見頃だった。山城の郷から2キロメートルの上り道を歩き、古城山頂上の竹田城跡へ。石垣の上部まで思い思いに登り、満開直前の桜や、周囲の眺望を楽しみながら、バス内で配られた弁当を開いて昼食とする。」

 「竹田城は、南北約400メートル、東西約100メートルの縄張りが、虎が臥せているように見えることから、虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)の別名がある。また、城下から遥か高く見上げる古城山(虎臥山、353.7メートル)の頂に位置し、しばしば円山川の川霧によって霞むことから、天空の城の異名をもつ。」

 「立雲峡は朝来山(756 m)の中腹にあり、サクラの木の種類が多く、長期にわたって開花を楽しめる。」「朝来山の近くの小さな山には、ふもとから中腹にかけて、サクラが華やいだ色を呈している。こういう状況を「山笑う」というのであろう。」

 以上のような記述と、概念的によく分かる竹田周辺見取り図(朝来市商工観光課のリーフレットから)や北千畳から見た、天守のあった場所が望める雄大な城跡を含む数々の写真を見ると、旅の様子と春の美しさがよく分かります。竹田は山陰線の和田山から播但線に分かれた一つ目の駅です。学生時代、姫路、大阪経由京都行きの急行があったので、帰省の際よくここを通りましたが、このような城跡があるとは全く知りませんでした。

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