M.Y. 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2010年7月分への感想を8月21日づけで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。
1. 大阪で (In Osaka)、大阪で 2 (In Osaka 2)
「大阪で」には次のように述べられています。
さる3日、埼玉からの来客があった。2007年に日本一周クルーズで知り合った女医・Nさん(81歳)である。一昨年秋に夫君を亡くされた。夕方、妻とともに新大阪駅で出迎え、夜は一同、大阪市内のホテルで過ごした。(…中略…)2日目には OAP(大阪アメニティパーク)港からグルメ・ミュージック船「ひまわり」でのランチクルーズと、水上バス「 アクアライナー」による大阪城・中之島めぐりを楽しんだ。
これを読んで、女医さんご夫妻は、短いクル-ズでの出会いで、筆者ご夫妻の温かみのあるお人柄に親近感をもって接しられ、淡いお付き合いを望まれていたものと拝察いたします。この女医さんご夫妻については、2008年11月24日付け「見舞う」、11月30日付け「祈る」に紹介されていて、私は「クルーズで邂逅した老夫妻とのわずか1年余という短い期間に起こったこの物語には宿縁的な感じがします」として、以下のような感想を書き送っています。
昨年クルーズで知り合い、その後メールで付き合っていただけで、住所も知らなかったのに、ご主人が晩秋の高野山での大学院のスクーリングに参加される出発前に、体調を心配された奥様から、筆者宛てに万一の時には相談にのって下さいと、虫の知らせでもあったようなメールが届きました。万一のことはないだろうと思いながら、ご心配なくと返事を出した後、その万一が起こって、奥様から電話があり、筆者ご夫妻は行ったことのない方面に電車とバスを乗り継いで行かれました。その数日後にご主人は亡くなられました。このように時間的(邂逅から死にいたるまでの短い時間)にも空間的(堺と遠距離の埼玉に住んでいる人が、死の直前に堺に近い霊場高野山に出向かれた)にも最後の時に向かって何らかの力が作用していたように感じられます。
2. 日本語文章においての段落概念の欠如
学士會会報の最新号に掲載された英文学者・外山滋比古氏の講演記録を、概略次のように紹介している。
外山氏は「日本語にはパラグラフが存在しなかったため、『欧米の言語構造が、パラグラフ単位で意味を積み重ねている』ことを見落とし、これを軽視した。今もってわれわれが欧米文化の根本を理解しきれていないのは、ここに原因がある」と述べている。 私は、これに全く同感であり、先日この引用文を私の英訳とともにツイッターで述べた。氏はさらに、「知識と思考が一緒になって出来るエッセイ」が「将来の日本の言葉をリードしていく最も有望なジャンル」と述べている。
外山氏が「日本語にはパラグラフが存在しなかった」といっているのは、古来、日本語で書かれた文にはパラグラフ(段落)ごとに意味をまとめて表現するという手法がとられて来なかったため、パラグラフを文の重要な構成要素とする欧米の言語に比べて、科学性、論理性、思考性において劣る、という意味である。
英文に見られるパラグラフ構造において、パラグラフ自体が三部に分かれているという特徴がある。最初に抽象的な一般論があり、次に具体例が述べられ、最後に抽象的一般論に帰る、という形になっているのが典型的であるというのである。
日本で随筆あるいはエッセイといえば、主に情緒的な作品を指すが、欧米でエッセイというのは、主に論文調のものである。外山氏がエッセイと呼んでいるのは、欧米式エッセイである。文末において、「日本語を他の国の言葉に負けない思考性と創造性を持った言葉にしたいと考えています」と述べている。
筆者は最後に、「氏が「言葉」の語で表現しているのは、単語や文だけでなく文章構造も加えた文章作品である。したがって、ここに述べられているのは、思考的創造性において欧米に引けをとらない欧米式日本語エッセイの輩出が日本語の地位を高める、という考えといえよう」と、講演の要旨を敷衍しています。これを読み講演の論旨がよく分かりました。氏が優れたエッセイの例として挙げている「寺田寅彦」の随筆集を読み返し、氏のいう段落概念を把握し、国際的に認められている作家のエッセイを読み「有望なジャンル」との親近性を見てみようと思います。
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