2011年8月18日木曜日

2011年7月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on the Posts of July 2011)

[In Japanese only]

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2011年7月分への感想を2011年8月17日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。




1. 壮年の日の反逆:住民運動擁護の弁 1~3

 反原発運動が盛んになりつつあるいま、ふと思い出した。私の勤務していた研究機関の所長が所の機関紙に書いた「年頭所感」(1977年)について、私はまず同所労組の機関紙に、反原発を含む住民運動を擁護する反論をペンネームで投稿し、次いで、部門を異にする労組員3名との連名で、少し表現を和らげた形でながら、所の機関紙に同様の主旨の感想文を投稿したのだった。

「終わりに私たちは、科学者・研究者は「守るに難い安全性の問題」に十分慎重に対処するのでなければ、科学の両刃の剣的性格に対する科学者の自戒は達成出来ないのではないかと思っていることを述べておきます」と、その投稿をまとめた筆者は、「以上、古い話だが、いま第一線で活躍している人びとが上司と意見が対立したような場合に、自分の正しいと思う考えを、十分な根拠を示してどうどうと反論する参考になれば幸いと思い、あえて記した次第である」と結んでいます。筆者の長年にわたる実践を通じた住民運動擁護の弁は地道で説得力があり、後世の人びとへ託する筆者の思いが伝わってきます。以下に項目毎のコメントを記します。

 所長が原子力発電のささいな事故を大事故のように言いふらす人たちがいると書かれた「原子力アレルギー」についての筆者の反論に、関電美浜原発一号炉の蒸気発生器細管の漏れと東電福島原発一号炉の1年半使用での大量の破損事故が上げられています。前者は、水質条件の改善と細管の取換え、後者は燃料製造工程の改善と燃料設計の改良研究により解決されました。「軽水炉の改良標準化計画」が官民協力して開始され、1996から東電柏崎6号機に採用されました。このような経過をたどり、わが国の原子炉技術は世界的レベルに達したとして、安全神話が生まれました。2011年3月31日付け朝日紙によると、米国研究機関が1981~82年に東電福島第一発電所と同系のマーク I 型の原子炉について、シミュレーションを行い、今回の福島炉と同様な事故シナリオを示した報告書を米国原子力規制委員会(NRC)に提出していることがわかりました。NRCはこれを安全規制に活用しましたが、原子力安全委員会は90年、原発の安全設計指針を決定した際、「長期にわたる全交流電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の復旧が期待できるので考慮する必要はない」とする方針を示したとのことです。このように重大事故の規制に関して判断の甘さのあったことが災いし、今回の1000年に一度といわれる大津波によって、あえなく原子炉の安全性が崩壊してしまいました。

 次に、所長は原子力船「むつ」の問題でも、「実験過程ですこしばかり放射線漏れがあった」ものと書いておられたとのことです。日本原子力研究所は『原子力船開発の歴史』なる冊子を平成7年12月に発行しています。1963(昭和38)年の原子力船開発事業団の発足から「むつ」の解役[1994(平成6)年12月20日]までの歴史が、A4判約350ページにまとめられたものです。1969(昭和44)年6月12日、皇太子ご夫妻の出席を得ての進水式、1974(昭和49)年8月28日の初臨界達成と放射線漏れ、佐世保での修理から実験航海終了までの原子力船としての活躍などが記されています。実験航海(1次から4次)は平成3年2月から4年4月にかけて行われ、南太洋上を延べ航行距離で地球を2周以上の航行実績を残したこと、「むつ」の炉は国産動力炉としては第1号であり、技術面や政治的な問題でいろいろなトラブルはあったが、動かしてみたら立派な性能を発揮したことなど、成果が中心で、開発の途上で利用目的がなくなったにもかかわらず計画を遂行し、莫大な無駄使いをしたことについての反省はなされていません。今では横須賀の米国海軍基地が、原子力空母ジョージ・ワシントンの停泊港となっていて住民の不安の種になっています。

 最後に、所長は水俣の水銀中毒に似た症状の病気が発生すると「確たる証拠もないままに」住民が騒いだと書いておられたとのことです。今日では、水俣病は、環境汚染による食物連鎖により引き起こされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれています。

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