サザンカ。2014年12月30日撮影。
Sasanqua; taken on December 30, 2014.
2015 年 1 月 1 日までの記事へのエム・ワイ君の感想 4
M・Y 君から貰った "Ted's Coffeehouse 2" 2015 年 1 月 1 日までの記事への感想の続きを紹介する。
3. A・M 君へのメール
(1) A・M 君へ:湯川博士と原子力のことなど
M 君は、第 2 次大戦下の京都帝大における原子核研究と占領軍による捜査について、『原子核研究』誌に次の通り発表しています。
(I) では、次のように書き起こしています。
「これまで第 2 次世界大戦中の日本における原子核研究に関しては、主として理研の研究を中心に調査が進められて来たが、京都帝大における原子核研究の情況や原爆研究の実施は資料不足の為に十分調査したとは言い難い状態にあった。近年、米国の国立公文書図書館などに保管されている大戦直後の占領軍やペンタゴンの機密書類が公開され、日本でも当時の荒勝文策教授、木村毅一助教授の日誌やメモが発見されて、その全容が少しずつ明らかにされて来た。更に米国国会図書館で植村吉明、清水栄両講師の書いた大戦前後の実験ノートが発見され、京都帝大における第 2 世界大戦以前の原子核研究の実態が明るみに出た。これを機に本稿ではこれらの資料を基にして大戦中の研究、更に占領軍による京都帝大捜査の実像に迫りたい。」
(IV) では、「大戦中に世界の原子核理論の研究者の多くが原爆研究に全力で取り組む中で、湯川が原爆の研究よりも中間子論の研究に力を注いでいたことは、事実のようである。とはいえ、京大の荒勝、湯川はもとより、研究室の多くの研究者が原爆研究に関与したことは看過できない事実であり、彼らの『科学至上主義』を現代においてどのように捉えるべきかについてはあらためて論ずることが必要だろう」と、締めくくっています。これらの調査報告は、M 君が精魂をこめて事実を掘り起こした貴重な資料です。
B さんから湯川博士と原子力の関係について尋ねられたという件にも関連するでしょうが、M 君はかねがね、湯川博士が原子力委員長を辞任された理由は、わが国が原子力発電所を海外から導入する事態が切迫したときに、研究により自主開発をすべきだという博士の主張に相容れなかったためといわれているが、その真相はどうだったのだろうかと疑問に思っていたようです。昭和 30 (1955) 年に制定された原子力基本法は、第 2 条において、「原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」としていました。
湯川博士はその後、世界の平和、原子核兵器の廃絶問題に取り組まれましたが、辞任当時、原子力政策についてどのように見通されていたかなど、M 君へ提供された資料は彼のこれらの疑問に対して参考になるものと思います。M 君から貰った本年の年賀状に、奥様と昨年 10 月、北京盧溝橋で撮影された写真があり、「科学者の原罪と科学の行方について考えさせられます」とのメッセージがありました。(つづく)
3. A・M 君へのメール
(1) A・M 君へ:湯川博士と原子力のことなど
2014 年 12 月 4 日
A・M 君
先日は学士会館までお越しいただき、楽しくまた有益な時間を持つことが出来、ありがとうございました。帰阪後すぐにお礼を書こうと思いながら、パソコンを使うと肩や首が痛む状態が続いていたため、サボっていて、大変遅くなりました。
あの時、B さんから湯川博士と原子力の関係について尋ねられたということを伺いましたが、私のブログ記事 「原発計画に関する湯川博士の言葉 1〜3」を見つけていただいたでしょうか。[以下略]
M 君は、第 2 次大戦下の京都帝大における原子核研究と占領軍による捜査について、『原子核研究』誌に次の通り発表しています。
- (I) 原子核の実験的研究の軌跡, Vol. 55, No. 1, September 2010
- (II) サイクロトロンの破壊, Vol. 55, No. 2, March 2011
- (III) 原爆研究の記録―その1, Vol. 57, No. 1, September 2012
- (IV) 同上―その2, Vol. 57, No. 2, March 2013
(I) では、次のように書き起こしています。
「これまで第 2 次世界大戦中の日本における原子核研究に関しては、主として理研の研究を中心に調査が進められて来たが、京都帝大における原子核研究の情況や原爆研究の実施は資料不足の為に十分調査したとは言い難い状態にあった。近年、米国の国立公文書図書館などに保管されている大戦直後の占領軍やペンタゴンの機密書類が公開され、日本でも当時の荒勝文策教授、木村毅一助教授の日誌やメモが発見されて、その全容が少しずつ明らかにされて来た。更に米国国会図書館で植村吉明、清水栄両講師の書いた大戦前後の実験ノートが発見され、京都帝大における第 2 世界大戦以前の原子核研究の実態が明るみに出た。これを機に本稿ではこれらの資料を基にして大戦中の研究、更に占領軍による京都帝大捜査の実像に迫りたい。」
(IV) では、「大戦中に世界の原子核理論の研究者の多くが原爆研究に全力で取り組む中で、湯川が原爆の研究よりも中間子論の研究に力を注いでいたことは、事実のようである。とはいえ、京大の荒勝、湯川はもとより、研究室の多くの研究者が原爆研究に関与したことは看過できない事実であり、彼らの『科学至上主義』を現代においてどのように捉えるべきかについてはあらためて論ずることが必要だろう」と、締めくくっています。これらの調査報告は、M 君が精魂をこめて事実を掘り起こした貴重な資料です。
B さんから湯川博士と原子力の関係について尋ねられたという件にも関連するでしょうが、M 君はかねがね、湯川博士が原子力委員長を辞任された理由は、わが国が原子力発電所を海外から導入する事態が切迫したときに、研究により自主開発をすべきだという博士の主張に相容れなかったためといわれているが、その真相はどうだったのだろうかと疑問に思っていたようです。昭和 30 (1955) 年に制定された原子力基本法は、第 2 条において、「原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」としていました。
湯川博士はその後、世界の平和、原子核兵器の廃絶問題に取り組まれましたが、辞任当時、原子力政策についてどのように見通されていたかなど、M 君へ提供された資料は彼のこれらの疑問に対して参考になるものと思います。M 君から貰った本年の年賀状に、奥様と昨年 10 月、北京盧溝橋で撮影された写真があり、「科学者の原罪と科学の行方について考えさせられます」とのメッセージがありました。(つづく)