2004年12月9日木曜日

The Canal of Venice: Watercolor (ベニスの運河:水彩画)


The watercolor shown here was painted from one of the photos my wife took during gondola cruise in Venice, Italy. I began watercolor painting last year, except for my experience at my boyhood. This work was made last year and was the fourth from the beginning. The first one was the same scene as this one painted in a small sketchbook.

The actual colors of this painting are paler than the above image, so that the original work looks weaker. I was afraid of making the picture dark and used blue for windows. However, the use of black must have made the work stronger. I made the contrast of the image stronger to some extent with the image-processing program. The size of the original painting is F4.

You can see a few more of my paintings made after this work at my Web site.

Note added later: About three years later, I changed the coloring of this painting completely by the use of gouache. The image of the work after rebirth and the story related will appear somewhere in my blog sites.

Comments (Copied from the blog site where this post originally appeared. Minor editorial changes have been made.)

R 12/10/2004 00:54
Thank you for your comment on my blog post. I felt that the watercolor you painted was very beautiful!

Ted 12/10/2004 07:59
Thanks for your kind comment on my watercolor.

S 12/10/2004 19:55
Ted, you post a blog article everyday. I admire your diligence. This picture is certainly beautiful.

Ted 12/10/2004 20:12
These days I'm spending too much time for blogging, though I have many other things to do!

M☆ 12/11/2004 00:04
透明感のある素敵な絵です! That's great! I want to go to Itary too! (>▽<)/

Ted 12/11/2004 07:52
Thanks for your kind comment, M☆. Someday you should visit Italy, which is the country Goethe loved so much.

2004年12月5日日曜日

「ぼくの真似をしたな」

 私は敗戦前後の 2 年余り、大連嶺前小学校に在学していた。同小学校同窓会会報「嶺前」第 20 号がこのほど届いた。以下は同誌に掲載された私の一文である[1]。

「太田先生の英語教室」執筆後日談


 今回は別の内容で投稿するつもりでしたが、本誌前々号の拙文「太田先生の英語教室」[2]に関連して、その後もお便りをいただいたり、前号のお礼文中に誤りのあったことが判明したりしましたので、再度、上記拙文にかかわることを書かせていただきます。

 まず、I.Y. さん(25 年卒)が拙文に呼応して、本誌前号に「太田英語塾の思い出」を投稿されたことに、お礼をお申し上げたいと思います。お陰様で、私がどちらも太田先生のお嬢様と思っていた 2 人の女先生のおひとりが、太田先生の弟さんの奥様、志乃さんと分かりました。I.Y. さんは、志乃先生に習い、その奇麗な先生にあやかった名前を後年娘さんにつけた、と書いておられたことをほほ笑ましく思いました。私も内心、どちらかの女先生に一度は習いたいと望んでいたことを告白しておきましょう。

 文頭に書きました、その後いただいたお便りというのは、Y.O. さん(16 年卒)からのものです。Y.O. さんは太田先生のご次女、M.N. さんと嶺前の 3 年生頃まで同級でいらっしゃったそうです。そして、Y.O. さんは 1940 年 12 月初めまで桃源台の、後に 1944 年から私が住むことになった家の西隣に住んでおられたそうです(Y.O. さんは私の家を、嶺前 70 周年記念誌「喜び永久に」に記載の私の文から同定されたのです)。また、Y.O. さんが会報 4 号に寄稿された「私の桃源台地図」と題する文に、「T さんの家のことも書いております」とお知らせ下さいました。私は、残念ながら、その頃まだ会報を購読していなかったという返事を差し上げましたところ、早速コピーをお送り下さいました。

 ここで、話は少しそれますが、私の嶺前時代の思い出を一つ記します。上記の Y.O. さんのご寄稿中に、「この家(注:私の東隣の家に当たります)の外観は、私の家とよく似ていた」という箇所がありました。この箇所が私に次のことを思い出させました。

 桃源台の近所に、私と同学年の T.M. 君というのがいました。彼は 4 年生か 5 年生のとき、Y.O. さんがかつて住んでおられた家(当時は S さんという方が入っておられました)を巧みに写生し、その作品が彼の教室に貼り出されました。それに感心した私は、自分の東隣の家(Y.O. さんが桃源台におられた頃は、Y.O. さんより少し年下の M.I. さんの家だったそうですが、私のいた頃は、私と同学年の M.T. さんがお住まいでした)の写生を試みて、担任の松本先生に提出しました。その作品も貼り出される結果となりましたが、それを見た T.M. 君から「ぼくの真似をしたな」といわれ、悔しい思いをしました。

 M.T. さんの家の屋根と壁の色の組み合わせは、S さんの家のものよりメルヘン的でした。それで、二つの作品は色彩上かなり隔たっている、と私は思っていました。また、S さんの家は、Y.O. さんが「この通りでは一番高い位置にあり」と書いておれれるように、高くそびえ立っている感じでした。それに反し、M.T. さんの家には、前庭の木々でさえぎられた形でしか見ない部分があり、私は描くのにかなり苦労したのでした。それでも、Y.O. さんのご指摘のように、建物の外観がよく似ていたため、私の絵の構図は T.M. 君のものと相当似ている結果になったのでしょう。

 そもそも、近所の家を画題にするという着想は、T.M. 君が先に抱いたものであり、さらに、彼の作品はたいへん力強く描かれていたので、いまでも私の脳裏に、ぼんやりとながら浮かぶほどの出来栄えでした。他方、私の作品は、自分でもほとんど思い出せません。これらの点でも、「真似をしたな」といわれても仕方がなかったといわなければなりません。近年、私がもっぱら建物を中心にした風景の水彩画を美嶺展[3]に出品するようになった原点は、T.M. 君の絵に惚れたところにあるのかも知れません。――このようなことを久しぶりに思い出すことが出来たのも、太田先生のことを書いたお陰です。――

 私は前号の文中に、「T.I. さん(21 年卒)のご尊父が英国へ長期ご出張の折の日記に、太田先生が近くにお住まいで親しくされていたことを書かれている」旨を書きました。その後、T.I. さんからご尊父の日記を整理されたワープロ原稿のコピーをいただきました。それによれば、ご尊父は下宿の女主人のライエル夫人から、「大連高女の先生でテニスの選手、太田がロンドンにいたときのことを、よく知っている」などと、お聞きになったということでした。「親しくされていた」は、私の想像の働かせ過ぎでした。ここに訂正させていただきます。

 なお、T.I. さんのご尊父の日記(1934 年)には、アーネスト・ラザフォード教授(1871-1937;1908年、元素の崩壊と放射性物質の化学に関する研究でノーベル化学賞受賞)の研究室を訪問されたことや、王立協会で彼の講演を聞かれたことが、多くの略図入りで詳しく述べられていて、物理学を専門にしていた私にとって、まことに興味深いものがありました。

 挿絵は、桃源台 140 番地の私のいた家(右側手前)の付近を、T.I. さんからいただいた写真をもとに描いたものです。画面手前が東になります。その写真は、T.I. さんが 1983 年に大連へ行かれた折に撮られたもので、その頃は、両隣のお宅の前庭に建物が出来ている以外、まだ引揚げ前とあまり変わっていない様子でした。

ブログへ転載時の注
  1. 原文中の同窓生の本名は、ここではローマ字の頭文字に書き換えてある。
  2. 「太田先生の英語教室」
  3. 大連嶺前小学校美嶺会美術展。毎年1回、東京で開催。

コメント(最初の掲載ブログサイトから転載)

Y 12/05/2004 08:04 なるほど、Ted さんの個人的な私生活についての文章は、このような大変こまやかな、誠実な文章になるのですね。それでまた、添えられたこの絵の、誠実ではかないと思えるほどに余りに美しいこと。近所の家どうしが似ていて、その絵を二人が描いて、というお話も、なかなか実話でないと出てこない話で、面白いですね。
 私は事情(病気)あって、高校より以前の学校時代の思い出がほとんど何もなく、担任の教師の名前もひとりも思い出せない病気でもあります。生涯、同窓会に行くことはないんですね、大学の同窓会があったとしても、私はK大では落ちこぼれの人生(笑)ですから、行くことはないでしょう。
 でも、今は大変豊かな、多彩な友人たちに恵まれて、充実していますし、けれども付き合いがしきれなくて困っている次第です。

Ted 12/05/2004 09:15 素早くコメントいただき、ありがとうございます。Y さんは、落ちこぼれの人生などではなく、愛と思考に充ちた、普通なかなか味わえない人生を過ごしておられると思います。

2004年12月4日土曜日

東晋の歴史に学ぶ

 必要があって、中国に西暦 317 年から 420 年にかけて存在した東晋という国の歴史を少し勉強した。この国は主に中国の江南地方を支配した。四川も東晋の大半の期間、これに属したが、初期には成漢、後半の一時期には前秦がここを治めている。他方、この頃の華北では多くの国ぐにが興亡を繰り返す五胡十六国時代にあった。

 司馬炎の建国によって続いていた晋(西晋、265~316)が匈奴によって滅ぼされたとき、ただ一人難をまぬがれた司馬氏の一族がいた。司馬睿であった。彼は、豪族の王氏に助けられて、江南に移り、建康(現在の南京)で皇帝の位につき、東晋の幕開けとなる。

 江南に東晋が成立すると、華北に住んでいた漢人の豪族や多くの農民が、戦乱をさけてこの地に移住した。このため開発の途上にあった長江の中・下流域は急速に発展した。東晋の朝廷においては皇帝の権力が弱く、行政や軍事の実権をにぎった者は、王氏を初めとする豪族たちであった。地方の大きな勢力家であった豪族も、数代にわたって朝廷の高位高官を占めると、貴族としてその地位を確立するに至った。

 そして、貴族によって自由清新な精神的活動が行われた結果、優雅な貴族文化が発達した。詩人としては陶淵明(365 頃~427)、書には後世、書聖と呼ばれた王羲之(307 頃~365 頃)、絵画では画聖と称された顧がい之(344 頃~405 頃)が活躍した。宗教においては、白蓮社を結成した慧遠(334~416 または 417)らの布教によって、仏教が貴族層に受けいれられた。

 一言でいえば、皇帝の権力が弱かったことが、東晋に貴族文化の繁栄をもたらしたのである。政治と文化の関わりの深さを東晋の歴史から学び取ることができる。日本では敗戦後、戦争を放棄した平和憲法のもとで、文化国家作りが叫ばれ、芸術・科学等、文化面で、ようやく国際的な活躍をする人たちが大幅に増えてきている。しかし、戦争放棄を形骸化するような憲法「改正」が行われれば、文化の衰退も生じかねないと危惧される。

参考書
  1. 木下康彦、木村靖二、吉田寅・編『詳説世界史研究』(山川出版社、1995)(その後、2008 年改訂版が出ている)
  2. 山口修・著、宮崎正勝・改定『この一冊で「中国の歴史」がわかる!』(三笠書房、2002)

コメント(最初の掲載サイトから転載)

Y 12/04/2004 12:26
 こんにちは。Ted さんとお話できることが、私の命を本当に助けてくださってもいるんですよ。パソコン画面での文章書き・読みや私のしゃべり方と、生活障害の重さとのギャップが激しい現状が長年続いているので、理解しがたいかと思いますが、Ted さんとの出会いに感謝しております。まったく不得手な歴史の分野ですが、パソコン技術の勉強をする前のステップにもなるかと思い、何かコメントさせてもらうために、頑張って読んでみました。
 「貴族文化」という私が感じる語感と、陶淵明、王羲之らが残した素晴らしい文化芸術との間に、何か尊さの違うものを感じるのがひとつの感想です。(ただの貧乏人の発想かもしれませんが…笑。)で、この「貴族文化」の語感を受け入れるとして、皇帝の権力が弱かったことが、このような文化が繁栄する結果をもたらしたのですね。
 だいたい、政治的レベルで考える(文化庁など?)文化の繁栄・充実と、この現実社会で生きている人たちが生み出す「巷の文化」とでは、性質に大いに違いがあるのではないかなと、政治音痴の私ですが、そう思うのです。だからこそ、政治的圧力が文化に対して低いほうが、かえって文化が自由でいられるのは、自然に理解できることで。
 Ted さんがこの歴史資料調べから得ようとされた観点がどのへんにあるかは、だいたい想像できます。戦争放棄を形骸化するような憲法「改正」は、上記の私の受け取っている感覚から連続的に考えると、憲法改正「それ自体」として討論され、考えられなければならないことで、また政治担当者に任せるしか方途がなく、そしてそれが、文化衰退を招きかねかいかどうかは、これはひとつ Ted さんが提唱されたかなり画期的なご意見ですが、文化は個々人が、あるいは個人のうちの同志たちが集まって創出するものだと思うので、特に平和憲法と直接関係するかどうか…。
 これについて一応の結論を出すには、「平和とは何か」ということを今一度、考え直さなければならないかもしれませんね。そして、何が平和的行動であり、何が戦禍加担する行為であるかの見極めの必要性。そのあたりの Ted さんのお考えを、お聞きしたく思いますが、いかがでしょうか。私は世界的な平和に疎い人間ですので、教えていただければ。

Ted 12/04/2004 14:02
 1937 年、日中戦争の開始と同時に、政府は戦争を批判するすべての思想・言論に、きびしい弾圧を加え始めました。そして、その弾圧は太平洋戦争での敗戦まで続いたのです。このような状況のもとでは、文化は歪められ、正常な発展が望めません。
 いま、政府・自民党が考えている憲法「改正」では、「有事」の場合に、国民が「自衛軍」の活動に協力する義務を負う、というようなことを盛り込もうとしています。これは、敗戦前の思想・言論の弾圧に近い状況の再現に道を開こうとするものです。
 また、「自衛軍」を創設すれば、いまよりもっと多くの国家予算が、防衛費に回され、ただでさえ少ない文化活動への国の補助が、ますます削減されることにもなるでしょう。
 これらのことを考えれば、創出自体は Y さんのいわれるように、個々人あるいは個人のうちの同志たちが集まってする文化も、その発展の可能性は、政治と深くかかわっているのです。
 憲法「改正」は政治担当者に任せるしか方途がない、という問題ではなく、世論の高まりがあれば、多数の国民が望む方向へ、政治担当者の考え方を変えさせる可能性のある問題なのです。

Y 12/04/2004 15:00
 お教えくださってありがとうございます。
 戦争に関わる体制のために、思想・言論に弾圧が加えられる可能性を危惧される、という趣旨でしたか。「文化」といっても、実に幅広いものがありますものね。この件に関して一番深く問題となってくる「文化」は、ほかならぬ思想・言論ですね、もっとも、思想は日本ではなかなか発達しきらないところがあるので(西洋思想に比べれば…なんというか、日本人は本格的な土台と論理をもった「思想」を発達させるに向かない国民なんでしょう)、究極限れば言論の自由、ということになるんでしょうね。
 それと、「自衛軍」の創設によって、文化活動への国の補助が削減される、という論点になると、上記の、言論の自由にとどまらない、より広い文化活動の可能性が狭められることになりそうですね。文化、というものには、私も大変関心をもっているのです。それこそ、このエコー!サイトですら、ひとつの文化、なわけで。それこそ宗教でも音楽でも絵画でも、文化、ですものね。
 そうですね、世論がしっかりすれば、政治担当者に対して響かせるものも出来てくるのですからね。問題のひとつは、「多様」であるはずの世論を、どのように政治担当者に伝えるか、ということにあるように思います。選挙投票だけでそれを反映させられるはずがないよなあ、と普段から素朴に思っております。

Ted 12/04/2004 15:55
 過去の思想・言論の弾圧は、いわゆる思想(マルキシズム)に限らず、平和や自由という概念を少しでもほのめかすような文学や演劇にもおよんだのです。
 「多様」な世論であっても、最低限一致できるところで、声をそろえて、政治担当者にその意志を伝えることが必要です。本来、選挙が最も効果的であるべきなのですが、政治不信や無関心から、棄権者が半数前後にもなったりするのは残念なことです。

2004年12月3日金曜日

討論の科学的方法

 最近書いた「鏡の謎」[1, 2]に関連して、ここ数年、何人かの人たちと討論を交わす機会があった。この謎は、科学者でなくても自分なりの答えを考え出すことができる問題なので、討論相手はさまざまであった。中には、自説を強く主張してやまない人たちもいる。自分の考えに自信を持ち、それをはっきりいうのは、よいことである。

しかし、討論において相手と考え方が異なるときには、どこが相違点であるかを理解し、理解できなければ理解できるまで相手に質問し、相違点において自説がどういう理由ですぐれているかを述べることが必要である。そうすることなく、いたずらに自説を繰り返すだけでは、討論は成り立たない。このような、討論の科学的方法をわきまえない人たちが、ときおり見受けられたのは残念なことである。

 討論に科学的方法が必要なのは、科学上の問題の討論に限らない。政治の討論でも同じである。ある政治家は、「いろいろな考え方があるでしょう」と、質問をはぐらかし、「自衛隊の活動しているところが非戦闘地域である」という、子どものナゾナゾ遊びに対するような回答を得々として述べる。これでは、討論の科学的方法が全く身についていないといわなければならない。

[1]鏡の世界
[2]鏡の世界:解答編

コメント(最初の掲載サイトから転載)

Y 12/03/2004 15:32
 人文系の論文の書き方の基本をご紹介しますが、まず、依拠する学者・学説・著書・論文に徹底的に「沿って理解する」ことに努める文章が、論文の分量のほとんどを占めます。「自分」(研究者)は自分を「捨てて」、あるいは対極的な言い方ですが、「自分の実体験と人間性のみによって」、この「理解する」作業をします。テクニックは通用しませんし、すぐ見破られます。自分という人間そのもの、で読んで、書くしかないんですね。
 その上で、最後にその依拠したものに対して、「批判」を行うんですね、ほんの少しでも「批判」ができなければ、単なる「紹介論文」、つまりレヴューの中でもレベルの低いレビューになってしまうんですね。
 つまり、Ted さんが言われている討論とほぼ同様ですね。まず第一にすることは、相手の言っていることを「相手に沿って、相手の立場になってみて」理解することですね。でなければ、相違点も判明しないですものね。この手続きを踏めない人は、論者として勉強しなおしてこないといけないですねえ。
 また、本当に相手や著者を「理解」すれば、それに対して批判を加えるのが、いかに難しいことであるか、人文系の論文書きの初心者が一番苦しむのは、その点なのです。けれども、本当に「理解」すれば、批判点もいずれは見えてきます。討論の場においては、そこに至るまでに必要な「時間的成熟」の時間・期間がどれだけ認められているのか、難しい問題ですね。
 もうひとつご紹介しておくと、精神病理学(精神医学の基礎学)は、精神医学者たちのほとんどがとびつく「治療論」を捨てて、治療論は一切書かずに、患者の病理を「理解する」ことに徹して、精神病理学自身が医学や治療の実践に貢献しうる可能性の根拠としては、「疾患の成因論」を解明することが治療につながるはずだ、という姿勢を表明しています。
 そうやって書かれてきた歴代の精神病理学の著作が、医学の分野をはるかにこえて、人間が生きていることの真実を語るものとして、他分野の研究者たちから注目され、盛んに引用されているのは、今でもそうなのです。生物学的・自然科学的精神医学がほとんどの権威を握るようになって、学界で「自分は精神病理学をやっていて」と名乗ることさえ、はばかられる(肩身が狭い)今の時代になってもね。

Ted 12/03/2004 17:01
 「理解」ということが、人文系の論文書きや、精神病理学においても重要だという、貴重なお話を書いていただき、ありがとうございました。
 ご紹介いただいた分野では、「理解」と研究がある程度重なり合っているように思われます。他方、物理学などの自然科学系の論文では、従来なされた関連の研究については、緒言の部で簡潔に述べるだけです。しかし、研究に取りかかるまでに、それらの研究を十分に理解しておかなければなりません。といっても、たいていの場合、比較的少数の最新の関連論文を読めば、自分の取り上げたいテーマにおける現状の理解が得られますので、レビューや著書を書くときは別として、人文系の仕事におけるほど、膨大な資料を「理解」する必要はありません。

2004年12月2日木曜日

ある『人間失格』論

 Social Networking Service "Echoo!" の「小説好きの方来てね」というグループで、私は、「私の好きな小説中のラブシーン」という投稿テーマを提案した。これに対し、モデレータの Y さんが、太宰治の『斜陽』の、かず子と上原のシーンを紹介した。折しも、私は大宰のもう一つの代表的な作品に対する評論を目にした。雑誌『図書』に小説家・佐藤正午が、連載中の「書く読書」12回目として、『人間失格』を取り上げているのだ。

 佐藤はいつも独特の着眼点を持ち、その点にこだわり続けて作品を論評する。そのことが、A4 版小雑誌 4 ページの短い批評を魅力的なものにしている。そしてまた、今回の『人間失格』論を注意深く眺めると(といっても、あまり大きな注意力はいらない)、それは、みごとな起承転結の構造をなしている。

 「起」においては、「無頼派の作家はみんな結婚している」ことを論じて、読者の興味をそそる。「さて。」の一行で始まる「承」においては、無頼派の代名詞のような太宰治がどんな人間を失格人間よばわりしているのか、と問う。そして、この小説が犯人自身の告白によって謎が解明される、倒叙型の推理小説の発想で書かれていることを述べる。

 「転」も、それと分かりやすい「でもそれは違う。」の一行で始まる。まず、「はしがき」と「あとがき」を書いているのは、小説家の「私」であり、それに挟まれた三つの手記を「自分」という一人称で書いているのは、大庭葉蔵という男であることを述べる。そして、そのことを、「私」と「自分」の文体の違いの文例で示す。しかし、読点の打ち方がそっくりで、『人間失格』は推理小説として矛盾をはらんでいる、と一応の結論を出す。

 そこへ、「でもそれも違う。」という一行を挟む。ここから「結」が始まる。太宰治が、つねに読点の打ち所を考え続けた作家であることを述べ、『人間失格』中の「忘れも、しません」という読点の使い方をもって例証とする。このことから、佐藤は、先の矛盾と見えた書きぶりは、大宰が「私」と「自分」の文章が同じ文体で書かれていることを意図的に示したものと考える。小説家と大庭葉蔵が同じ人物だとすると、「承」で問うた、この小説で人間失格とされているのは誰か、が分からなくなり、「両手で耳をふさいで叫びたいような」(この表現はムンクの絵「叫び」を思いながら書いたに違いない)気味の悪い読後感に襲われる、と結ぶ。

 読点の打ち方にこだわったところから、独特な評論ができ上がっている。さらに、謎を残して終わることによって、未読の読者を当該の書へ強くいざない、既読の読者にも再読欲を目覚めさせる。私はインターネットの書店・アマゾンにいくつかの書評[1, 2]を投稿してきたが、こういう書評の書き方もあるか、と学ばされる。>
  1. 和書書評の目次
  2. 洋書書評(英文)の目次

コメント(最初の掲載サイトから転載)

未月 12/02/2004 09:30
 その記事、ぜひ読んでみたいと思います。『図書』だから図書館に行けばありますよね(シャレじゃありません^^;;)。面白い書評は本当に惹きつけられるように読んでしまいますが、実際に自分が書くとなると難しいものです。

Ted 12/03/2004 08:17
 『図書』は、図書館になければ、書店の店頭で定価100円で求められます。ただし、下の Y さんのコメントへの回答にも書きますように、私は佐藤正午の評論を持ち上げすぎているきらいがありますので、その点をご了解の上、お読み下さい。

Y 12/02/2004 09:50
 太宰治『人間失格』は、作家・太宰治を生涯(27歳以降は)「演じ切った」太宰でも、さすがに「グッド・バイ」の手前の最後の作で、不朽の名作であることは揺るぎのないこと、今後もそうであることは間違いないのですが、もちろん、評者たち、文学研究者たちから、さすがの太宰も『人間失格』では完璧な作品を創れなかった、もう生きる力がそこまで残っていなかったため、欠点も散見される、と見る人が多いです、そのうえで、彼らは大絶賛な人が多いわけですが。私ももちろんそうです。
 「はしがき」と「あとがき」のうち、特に「はしがき」は異様に気取った文体で書かれてますよね。本文の大庭葉蔵の「恥の多い生涯を送ってきました」に始まる、「です・ます」体、それ以上の「恥の多い生涯」を文章にしている男性の、不器用ともなんとも形容のできない独特の丁寧調の文体と大違いですね。
 究極言って、「はしがき」は私は、太宰ほどの作家になれば、失敗に近いと思うんです。ただ、「あとがき」は、「葉ちゃんは、…神様みたいな子でした」という台詞で終わっているように、本文の「生きていけない、周囲に迷惑さえしょっちゅうかける」葉蔵と非常に対照的な、彼への形容で終わっていることなど、評価できる点であると思っています。
 それで、重要なのはひたすら主人公の告白の本文なのですね。「忘れも、しません。」に代表されるような、この大庭葉蔵の独特の読点の打ち方、これが彼の「人間失格性」の告白体として、どんな美文・文学的な文章よりも、素晴らしいものなんですね。
 Ted さんが挙げられた上記の評論よりも、私は個人的には、同じ読点に関心を寄せるのなら、太宰が創ったこの主人公の内面の苦しみにもっともっと近づく評論を書いて欲しかったですね。もっともこの評者では無理ですね、趣向が違いますから。『人間失格』は、趣味趣向で読む・評論する小説ではないと私は言い切りますが。
 だんだん Ted さんに対する話し振りが歯に衣着せぬものになっているのは、Ted さんへのいつわらない親しみの情を込めているしるしだと受け取ってくださいね。容赦ないしゃべり方が出来る方が、ほんとに私と本格的に話ができる、しかも親しい方です。

Ted 12/03/2004 08:30
 「歯に衣着せぬ」コメントを書いて下さり、ありがとうございました。私は Y さんから、そういうコメントをこそ期待していました。私は自分では『人間失格』を読んでいないので、佐藤正午の評論を持ち上げ過ぎたきらいがあります。そういえば、佐藤の書評は細部にのみ着目して、要諦を押さえていないものが多いようです。彼としては、そうした、やぶにらみの書評で特徴を出そうとしているのかも知れませんが、真面目に読む読者には迷惑でもあります。