最近書いた「鏡の謎」[1, 2]に関連して、ここ数年、何人かの人たちと討論を交わす機会があった。この謎は、科学者でなくても自分なりの答えを考え出すことができる問題なので、討論相手はさまざまであった。中には、自説を強く主張してやまない人たちもいる。自分の考えに自信を持ち、それをはっきりいうのは、よいことである。
しかし、討論において相手と考え方が異なるときには、どこが相違点であるかを理解し、理解できなければ理解できるまで相手に質問し、相違点において自説がどういう理由ですぐれているかを述べることが必要である。そうすることなく、いたずらに自説を繰り返すだけでは、討論は成り立たない。このような、討論の科学的方法をわきまえない人たちが、ときおり見受けられたのは残念なことである。
討論に科学的方法が必要なのは、科学上の問題の討論に限らない。政治の討論でも同じである。ある政治家は、「いろいろな考え方があるでしょう」と、質問をはぐらかし、「自衛隊の活動しているところが非戦闘地域である」という、子どものナゾナゾ遊びに対するような回答を得々として述べる。これでは、討論の科学的方法が全く身についていないといわなければならない。
[1]鏡の世界
[2]鏡の世界:解答編
コメント(最初の掲載サイトから転載)
Y 12/03/2004 15:32
人文系の論文の書き方の基本をご紹介しますが、まず、依拠する学者・学説・著書・論文に徹底的に「沿って理解する」ことに努める文章が、論文の分量のほとんどを占めます。「自分」(研究者)は自分を「捨てて」、あるいは対極的な言い方ですが、「自分の実体験と人間性のみによって」、この「理解する」作業をします。テクニックは通用しませんし、すぐ見破られます。自分という人間そのもの、で読んで、書くしかないんですね。
その上で、最後にその依拠したものに対して、「批判」を行うんですね、ほんの少しでも「批判」ができなければ、単なる「紹介論文」、つまりレヴューの中でもレベルの低いレビューになってしまうんですね。
つまり、Ted さんが言われている討論とほぼ同様ですね。まず第一にすることは、相手の言っていることを「相手に沿って、相手の立場になってみて」理解することですね。でなければ、相違点も判明しないですものね。この手続きを踏めない人は、論者として勉強しなおしてこないといけないですねえ。
また、本当に相手や著者を「理解」すれば、それに対して批判を加えるのが、いかに難しいことであるか、人文系の論文書きの初心者が一番苦しむのは、その点なのです。けれども、本当に「理解」すれば、批判点もいずれは見えてきます。討論の場においては、そこに至るまでに必要な「時間的成熟」の時間・期間がどれだけ認められているのか、難しい問題ですね。
もうひとつご紹介しておくと、精神病理学(精神医学の基礎学)は、精神医学者たちのほとんどがとびつく「治療論」を捨てて、治療論は一切書かずに、患者の病理を「理解する」ことに徹して、精神病理学自身が医学や治療の実践に貢献しうる可能性の根拠としては、「疾患の成因論」を解明することが治療につながるはずだ、という姿勢を表明しています。
そうやって書かれてきた歴代の精神病理学の著作が、医学の分野をはるかにこえて、人間が生きていることの真実を語るものとして、他分野の研究者たちから注目され、盛んに引用されているのは、今でもそうなのです。生物学的・自然科学的精神医学がほとんどの権威を握るようになって、学界で「自分は精神病理学をやっていて」と名乗ることさえ、はばかられる(肩身が狭い)今の時代になってもね。
Ted 12/03/2004 17:01
「理解」ということが、人文系の論文書きや、精神病理学においても重要だという、貴重なお話を書いていただき、ありがとうございました。
ご紹介いただいた分野では、「理解」と研究がある程度重なり合っているように思われます。他方、物理学などの自然科学系の論文では、従来なされた関連の研究については、緒言の部で簡潔に述べるだけです。しかし、研究に取りかかるまでに、それらの研究を十分に理解しておかなければなりません。といっても、たいていの場合、比較的少数の最新の関連論文を読めば、自分の取り上げたいテーマにおける現状の理解が得られますので、レビューや著書を書くときは別として、人文系の仕事におけるほど、膨大な資料を「理解」する必要はありません。
しかし、討論において相手と考え方が異なるときには、どこが相違点であるかを理解し、理解できなければ理解できるまで相手に質問し、相違点において自説がどういう理由ですぐれているかを述べることが必要である。そうすることなく、いたずらに自説を繰り返すだけでは、討論は成り立たない。このような、討論の科学的方法をわきまえない人たちが、ときおり見受けられたのは残念なことである。
討論に科学的方法が必要なのは、科学上の問題の討論に限らない。政治の討論でも同じである。ある政治家は、「いろいろな考え方があるでしょう」と、質問をはぐらかし、「自衛隊の活動しているところが非戦闘地域である」という、子どものナゾナゾ遊びに対するような回答を得々として述べる。これでは、討論の科学的方法が全く身についていないといわなければならない。
[1]鏡の世界
[2]鏡の世界:解答編
コメント(最初の掲載サイトから転載)
Y 12/03/2004 15:32
人文系の論文の書き方の基本をご紹介しますが、まず、依拠する学者・学説・著書・論文に徹底的に「沿って理解する」ことに努める文章が、論文の分量のほとんどを占めます。「自分」(研究者)は自分を「捨てて」、あるいは対極的な言い方ですが、「自分の実体験と人間性のみによって」、この「理解する」作業をします。テクニックは通用しませんし、すぐ見破られます。自分という人間そのもの、で読んで、書くしかないんですね。
その上で、最後にその依拠したものに対して、「批判」を行うんですね、ほんの少しでも「批判」ができなければ、単なる「紹介論文」、つまりレヴューの中でもレベルの低いレビューになってしまうんですね。
つまり、Ted さんが言われている討論とほぼ同様ですね。まず第一にすることは、相手の言っていることを「相手に沿って、相手の立場になってみて」理解することですね。でなければ、相違点も判明しないですものね。この手続きを踏めない人は、論者として勉強しなおしてこないといけないですねえ。
また、本当に相手や著者を「理解」すれば、それに対して批判を加えるのが、いかに難しいことであるか、人文系の論文書きの初心者が一番苦しむのは、その点なのです。けれども、本当に「理解」すれば、批判点もいずれは見えてきます。討論の場においては、そこに至るまでに必要な「時間的成熟」の時間・期間がどれだけ認められているのか、難しい問題ですね。
もうひとつご紹介しておくと、精神病理学(精神医学の基礎学)は、精神医学者たちのほとんどがとびつく「治療論」を捨てて、治療論は一切書かずに、患者の病理を「理解する」ことに徹して、精神病理学自身が医学や治療の実践に貢献しうる可能性の根拠としては、「疾患の成因論」を解明することが治療につながるはずだ、という姿勢を表明しています。
そうやって書かれてきた歴代の精神病理学の著作が、医学の分野をはるかにこえて、人間が生きていることの真実を語るものとして、他分野の研究者たちから注目され、盛んに引用されているのは、今でもそうなのです。生物学的・自然科学的精神医学がほとんどの権威を握るようになって、学界で「自分は精神病理学をやっていて」と名乗ることさえ、はばかられる(肩身が狭い)今の時代になってもね。
Ted 12/03/2004 17:01
「理解」ということが、人文系の論文書きや、精神病理学においても重要だという、貴重なお話を書いていただき、ありがとうございました。
ご紹介いただいた分野では、「理解」と研究がある程度重なり合っているように思われます。他方、物理学などの自然科学系の論文では、従来なされた関連の研究については、緒言の部で簡潔に述べるだけです。しかし、研究に取りかかるまでに、それらの研究を十分に理解しておかなければなりません。といっても、たいていの場合、比較的少数の最新の関連論文を読めば、自分の取り上げたいテーマにおける現状の理解が得られますので、レビューや著書を書くときは別として、人文系の仕事におけるほど、膨大な資料を「理解」する必要はありません。
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