Social Networking Service "Echoo!" の「小説好きの方来てね」というグループで、私は、「私の好きな小説中のラブシーン」という投稿テーマを提案した。これに対し、モデレータの Y さんが、太宰治の『斜陽』の、かず子と上原のシーンを紹介した。折しも、私は大宰のもう一つの代表的な作品に対する評論を目にした。雑誌『図書』に小説家・佐藤正午が、連載中の「書く読書」12回目として、『人間失格』を取り上げているのだ。
佐藤はいつも独特の着眼点を持ち、その点にこだわり続けて作品を論評する。そのことが、A4 版小雑誌 4 ページの短い批評を魅力的なものにしている。そしてまた、今回の『人間失格』論を注意深く眺めると(といっても、あまり大きな注意力はいらない)、それは、みごとな起承転結の構造をなしている。
「起」においては、「無頼派の作家はみんな結婚している」ことを論じて、読者の興味をそそる。「さて。」の一行で始まる「承」においては、無頼派の代名詞のような太宰治がどんな人間を失格人間よばわりしているのか、と問う。そして、この小説が犯人自身の告白によって謎が解明される、倒叙型の推理小説の発想で書かれていることを述べる。
「転」も、それと分かりやすい「でもそれは違う。」の一行で始まる。まず、「はしがき」と「あとがき」を書いているのは、小説家の「私」であり、それに挟まれた三つの手記を「自分」という一人称で書いているのは、大庭葉蔵という男であることを述べる。そして、そのことを、「私」と「自分」の文体の違いの文例で示す。しかし、読点の打ち方がそっくりで、『人間失格』は推理小説として矛盾をはらんでいる、と一応の結論を出す。
そこへ、「でもそれも違う。」という一行を挟む。ここから「結」が始まる。太宰治が、つねに読点の打ち所を考え続けた作家であることを述べ、『人間失格』中の「忘れも、しません」という読点の使い方をもって例証とする。このことから、佐藤は、先の矛盾と見えた書きぶりは、大宰が「私」と「自分」の文章が同じ文体で書かれていることを意図的に示したものと考える。小説家と大庭葉蔵が同じ人物だとすると、「承」で問うた、この小説で人間失格とされているのは誰か、が分からなくなり、「両手で耳をふさいで叫びたいような」(この表現はムンクの絵「叫び」を思いながら書いたに違いない)気味の悪い読後感に襲われる、と結ぶ。
読点の打ち方にこだわったところから、独特な評論ができ上がっている。さらに、謎を残して終わることによって、未読の読者を当該の書へ強くいざない、既読の読者にも再読欲を目覚めさせる。私はインターネットの書店・アマゾンにいくつかの書評[1, 2]を投稿してきたが、こういう書評の書き方もあるか、と学ばされる。>
コメント(最初の掲載サイトから転載)未月 12/02/2004 09:30
その記事、ぜひ読んでみたいと思います。『図書』だから図書館に行けばありますよね(シャレじゃありません^^;;)。面白い書評は本当に惹きつけられるように読んでしまいますが、実際に自分が書くとなると難しいものです。
Ted 12/03/2004 08:17
『図書』は、図書館になければ、書店の店頭で定価100円で求められます。ただし、下の Y さんのコメントへの回答にも書きますように、私は佐藤正午の評論を持ち上げすぎているきらいがありますので、その点をご了解の上、お読み下さい。
Y 12/02/2004 09:50
太宰治『人間失格』は、作家・太宰治を生涯(27歳以降は)「演じ切った」太宰でも、さすがに「グッド・バイ」の手前の最後の作で、不朽の名作であることは揺るぎのないこと、今後もそうであることは間違いないのですが、もちろん、評者たち、文学研究者たちから、さすがの太宰も『人間失格』では完璧な作品を創れなかった、もう生きる力がそこまで残っていなかったため、欠点も散見される、と見る人が多いです、そのうえで、彼らは大絶賛な人が多いわけですが。私ももちろんそうです。
「はしがき」と「あとがき」のうち、特に「はしがき」は異様に気取った文体で書かれてますよね。本文の大庭葉蔵の「恥の多い生涯を送ってきました」に始まる、「です・ます」体、それ以上の「恥の多い生涯」を文章にしている男性の、不器用ともなんとも形容のできない独特の丁寧調の文体と大違いですね。
究極言って、「はしがき」は私は、太宰ほどの作家になれば、失敗に近いと思うんです。ただ、「あとがき」は、「葉ちゃんは、…神様みたいな子でした」という台詞で終わっているように、本文の「生きていけない、周囲に迷惑さえしょっちゅうかける」葉蔵と非常に対照的な、彼への形容で終わっていることなど、評価できる点であると思っています。
それで、重要なのはひたすら主人公の告白の本文なのですね。「忘れも、しません。」に代表されるような、この大庭葉蔵の独特の読点の打ち方、これが彼の「人間失格性」の告白体として、どんな美文・文学的な文章よりも、素晴らしいものなんですね。
Ted さんが挙げられた上記の評論よりも、私は個人的には、同じ読点に関心を寄せるのなら、太宰が創ったこの主人公の内面の苦しみにもっともっと近づく評論を書いて欲しかったですね。もっともこの評者では無理ですね、趣向が違いますから。『人間失格』は、趣味趣向で読む・評論する小説ではないと私は言い切りますが。
だんだん Ted さんに対する話し振りが歯に衣着せぬものになっているのは、Ted さんへのいつわらない親しみの情を込めているしるしだと受け取ってくださいね。容赦ないしゃべり方が出来る方が、ほんとに私と本格的に話ができる、しかも親しい方です。
Ted 12/03/2004 08:30
「歯に衣着せぬ」コメントを書いて下さり、ありがとうございました。私は Y さんから、そういうコメントをこそ期待していました。私は自分では『人間失格』を読んでいないので、佐藤正午の評論を持ち上げ過ぎたきらいがあります。そういえば、佐藤の書評は細部にのみ着目して、要諦を押さえていないものが多いようです。彼としては、そうした、やぶにらみの書評で特徴を出そうとしているのかも知れませんが、真面目に読む読者には迷惑でもあります。
佐藤はいつも独特の着眼点を持ち、その点にこだわり続けて作品を論評する。そのことが、A4 版小雑誌 4 ページの短い批評を魅力的なものにしている。そしてまた、今回の『人間失格』論を注意深く眺めると(といっても、あまり大きな注意力はいらない)、それは、みごとな起承転結の構造をなしている。
「起」においては、「無頼派の作家はみんな結婚している」ことを論じて、読者の興味をそそる。「さて。」の一行で始まる「承」においては、無頼派の代名詞のような太宰治がどんな人間を失格人間よばわりしているのか、と問う。そして、この小説が犯人自身の告白によって謎が解明される、倒叙型の推理小説の発想で書かれていることを述べる。
「転」も、それと分かりやすい「でもそれは違う。」の一行で始まる。まず、「はしがき」と「あとがき」を書いているのは、小説家の「私」であり、それに挟まれた三つの手記を「自分」という一人称で書いているのは、大庭葉蔵という男であることを述べる。そして、そのことを、「私」と「自分」の文体の違いの文例で示す。しかし、読点の打ち方がそっくりで、『人間失格』は推理小説として矛盾をはらんでいる、と一応の結論を出す。
そこへ、「でもそれも違う。」という一行を挟む。ここから「結」が始まる。太宰治が、つねに読点の打ち所を考え続けた作家であることを述べ、『人間失格』中の「忘れも、しません」という読点の使い方をもって例証とする。このことから、佐藤は、先の矛盾と見えた書きぶりは、大宰が「私」と「自分」の文章が同じ文体で書かれていることを意図的に示したものと考える。小説家と大庭葉蔵が同じ人物だとすると、「承」で問うた、この小説で人間失格とされているのは誰か、が分からなくなり、「両手で耳をふさいで叫びたいような」(この表現はムンクの絵「叫び」を思いながら書いたに違いない)気味の悪い読後感に襲われる、と結ぶ。
読点の打ち方にこだわったところから、独特な評論ができ上がっている。さらに、謎を残して終わることによって、未読の読者を当該の書へ強くいざない、既読の読者にも再読欲を目覚めさせる。私はインターネットの書店・アマゾンにいくつかの書評[1, 2]を投稿してきたが、こういう書評の書き方もあるか、と学ばされる。>
コメント(最初の掲載サイトから転載)未月 12/02/2004 09:30
その記事、ぜひ読んでみたいと思います。『図書』だから図書館に行けばありますよね(シャレじゃありません^^;;)。面白い書評は本当に惹きつけられるように読んでしまいますが、実際に自分が書くとなると難しいものです。
Ted 12/03/2004 08:17
『図書』は、図書館になければ、書店の店頭で定価100円で求められます。ただし、下の Y さんのコメントへの回答にも書きますように、私は佐藤正午の評論を持ち上げすぎているきらいがありますので、その点をご了解の上、お読み下さい。
Y 12/02/2004 09:50
太宰治『人間失格』は、作家・太宰治を生涯(27歳以降は)「演じ切った」太宰でも、さすがに「グッド・バイ」の手前の最後の作で、不朽の名作であることは揺るぎのないこと、今後もそうであることは間違いないのですが、もちろん、評者たち、文学研究者たちから、さすがの太宰も『人間失格』では完璧な作品を創れなかった、もう生きる力がそこまで残っていなかったため、欠点も散見される、と見る人が多いです、そのうえで、彼らは大絶賛な人が多いわけですが。私ももちろんそうです。
「はしがき」と「あとがき」のうち、特に「はしがき」は異様に気取った文体で書かれてますよね。本文の大庭葉蔵の「恥の多い生涯を送ってきました」に始まる、「です・ます」体、それ以上の「恥の多い生涯」を文章にしている男性の、不器用ともなんとも形容のできない独特の丁寧調の文体と大違いですね。
究極言って、「はしがき」は私は、太宰ほどの作家になれば、失敗に近いと思うんです。ただ、「あとがき」は、「葉ちゃんは、…神様みたいな子でした」という台詞で終わっているように、本文の「生きていけない、周囲に迷惑さえしょっちゅうかける」葉蔵と非常に対照的な、彼への形容で終わっていることなど、評価できる点であると思っています。
それで、重要なのはひたすら主人公の告白の本文なのですね。「忘れも、しません。」に代表されるような、この大庭葉蔵の独特の読点の打ち方、これが彼の「人間失格性」の告白体として、どんな美文・文学的な文章よりも、素晴らしいものなんですね。
Ted さんが挙げられた上記の評論よりも、私は個人的には、同じ読点に関心を寄せるのなら、太宰が創ったこの主人公の内面の苦しみにもっともっと近づく評論を書いて欲しかったですね。もっともこの評者では無理ですね、趣向が違いますから。『人間失格』は、趣味趣向で読む・評論する小説ではないと私は言い切りますが。
だんだん Ted さんに対する話し振りが歯に衣着せぬものになっているのは、Ted さんへのいつわらない親しみの情を込めているしるしだと受け取ってくださいね。容赦ないしゃべり方が出来る方が、ほんとに私と本格的に話ができる、しかも親しい方です。
Ted 12/03/2004 08:30
「歯に衣着せぬ」コメントを書いて下さり、ありがとうございました。私は Y さんから、そういうコメントをこそ期待していました。私は自分では『人間失格』を読んでいないので、佐藤正午の評論を持ち上げ過ぎたきらいがあります。そういえば、佐藤の書評は細部にのみ着目して、要諦を押さえていないものが多いようです。彼としては、そうした、やぶにらみの書評で特徴を出そうとしているのかも知れませんが、真面目に読む読者には迷惑でもあります。
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