2004年12月5日日曜日

「ぼくの真似をしたな」

 私は敗戦前後の 2 年余り、大連嶺前小学校に在学していた。同小学校同窓会会報「嶺前」第 20 号がこのほど届いた。以下は同誌に掲載された私の一文である[1]。

「太田先生の英語教室」執筆後日談


 今回は別の内容で投稿するつもりでしたが、本誌前々号の拙文「太田先生の英語教室」[2]に関連して、その後もお便りをいただいたり、前号のお礼文中に誤りのあったことが判明したりしましたので、再度、上記拙文にかかわることを書かせていただきます。

 まず、I.Y. さん(25 年卒)が拙文に呼応して、本誌前号に「太田英語塾の思い出」を投稿されたことに、お礼をお申し上げたいと思います。お陰様で、私がどちらも太田先生のお嬢様と思っていた 2 人の女先生のおひとりが、太田先生の弟さんの奥様、志乃さんと分かりました。I.Y. さんは、志乃先生に習い、その奇麗な先生にあやかった名前を後年娘さんにつけた、と書いておられたことをほほ笑ましく思いました。私も内心、どちらかの女先生に一度は習いたいと望んでいたことを告白しておきましょう。

 文頭に書きました、その後いただいたお便りというのは、Y.O. さん(16 年卒)からのものです。Y.O. さんは太田先生のご次女、M.N. さんと嶺前の 3 年生頃まで同級でいらっしゃったそうです。そして、Y.O. さんは 1940 年 12 月初めまで桃源台の、後に 1944 年から私が住むことになった家の西隣に住んでおられたそうです(Y.O. さんは私の家を、嶺前 70 周年記念誌「喜び永久に」に記載の私の文から同定されたのです)。また、Y.O. さんが会報 4 号に寄稿された「私の桃源台地図」と題する文に、「T さんの家のことも書いております」とお知らせ下さいました。私は、残念ながら、その頃まだ会報を購読していなかったという返事を差し上げましたところ、早速コピーをお送り下さいました。

 ここで、話は少しそれますが、私の嶺前時代の思い出を一つ記します。上記の Y.O. さんのご寄稿中に、「この家(注:私の東隣の家に当たります)の外観は、私の家とよく似ていた」という箇所がありました。この箇所が私に次のことを思い出させました。

 桃源台の近所に、私と同学年の T.M. 君というのがいました。彼は 4 年生か 5 年生のとき、Y.O. さんがかつて住んでおられた家(当時は S さんという方が入っておられました)を巧みに写生し、その作品が彼の教室に貼り出されました。それに感心した私は、自分の東隣の家(Y.O. さんが桃源台におられた頃は、Y.O. さんより少し年下の M.I. さんの家だったそうですが、私のいた頃は、私と同学年の M.T. さんがお住まいでした)の写生を試みて、担任の松本先生に提出しました。その作品も貼り出される結果となりましたが、それを見た T.M. 君から「ぼくの真似をしたな」といわれ、悔しい思いをしました。

 M.T. さんの家の屋根と壁の色の組み合わせは、S さんの家のものよりメルヘン的でした。それで、二つの作品は色彩上かなり隔たっている、と私は思っていました。また、S さんの家は、Y.O. さんが「この通りでは一番高い位置にあり」と書いておれれるように、高くそびえ立っている感じでした。それに反し、M.T. さんの家には、前庭の木々でさえぎられた形でしか見ない部分があり、私は描くのにかなり苦労したのでした。それでも、Y.O. さんのご指摘のように、建物の外観がよく似ていたため、私の絵の構図は T.M. 君のものと相当似ている結果になったのでしょう。

 そもそも、近所の家を画題にするという着想は、T.M. 君が先に抱いたものであり、さらに、彼の作品はたいへん力強く描かれていたので、いまでも私の脳裏に、ぼんやりとながら浮かぶほどの出来栄えでした。他方、私の作品は、自分でもほとんど思い出せません。これらの点でも、「真似をしたな」といわれても仕方がなかったといわなければなりません。近年、私がもっぱら建物を中心にした風景の水彩画を美嶺展[3]に出品するようになった原点は、T.M. 君の絵に惚れたところにあるのかも知れません。――このようなことを久しぶりに思い出すことが出来たのも、太田先生のことを書いたお陰です。――

 私は前号の文中に、「T.I. さん(21 年卒)のご尊父が英国へ長期ご出張の折の日記に、太田先生が近くにお住まいで親しくされていたことを書かれている」旨を書きました。その後、T.I. さんからご尊父の日記を整理されたワープロ原稿のコピーをいただきました。それによれば、ご尊父は下宿の女主人のライエル夫人から、「大連高女の先生でテニスの選手、太田がロンドンにいたときのことを、よく知っている」などと、お聞きになったということでした。「親しくされていた」は、私の想像の働かせ過ぎでした。ここに訂正させていただきます。

 なお、T.I. さんのご尊父の日記(1934 年)には、アーネスト・ラザフォード教授(1871-1937;1908年、元素の崩壊と放射性物質の化学に関する研究でノーベル化学賞受賞)の研究室を訪問されたことや、王立協会で彼の講演を聞かれたことが、多くの略図入りで詳しく述べられていて、物理学を専門にしていた私にとって、まことに興味深いものがありました。

 挿絵は、桃源台 140 番地の私のいた家(右側手前)の付近を、T.I. さんからいただいた写真をもとに描いたものです。画面手前が東になります。その写真は、T.I. さんが 1983 年に大連へ行かれた折に撮られたもので、その頃は、両隣のお宅の前庭に建物が出来ている以外、まだ引揚げ前とあまり変わっていない様子でした。

ブログへ転載時の注
  1. 原文中の同窓生の本名は、ここではローマ字の頭文字に書き換えてある。
  2. 「太田先生の英語教室」
  3. 大連嶺前小学校美嶺会美術展。毎年1回、東京で開催。

コメント(最初の掲載ブログサイトから転載)

Y 12/05/2004 08:04 なるほど、Ted さんの個人的な私生活についての文章は、このような大変こまやかな、誠実な文章になるのですね。それでまた、添えられたこの絵の、誠実ではかないと思えるほどに余りに美しいこと。近所の家どうしが似ていて、その絵を二人が描いて、というお話も、なかなか実話でないと出てこない話で、面白いですね。
 私は事情(病気)あって、高校より以前の学校時代の思い出がほとんど何もなく、担任の教師の名前もひとりも思い出せない病気でもあります。生涯、同窓会に行くことはないんですね、大学の同窓会があったとしても、私はK大では落ちこぼれの人生(笑)ですから、行くことはないでしょう。
 でも、今は大変豊かな、多彩な友人たちに恵まれて、充実していますし、けれども付き合いがしきれなくて困っている次第です。

Ted 12/05/2004 09:15 素早くコメントいただき、ありがとうございます。Y さんは、落ちこぼれの人生などではなく、愛と思考に充ちた、普通なかなか味わえない人生を過ごしておられると思います。

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