2011年4月27日水曜日

文学者の原発責任に言及した文芸時評 (The Literary Review Referring to Literary Persons' Responsibility for Nuclear Accidents)

Abstract: The Asahi Shimbun dated April 27, 2011, carried a literary review of this month written by Minako Saito. This is an excellent article in that she refers to literary persons' responsibility for the accidents that happened at Fukushima Daiichi nuclear power plant last month and still continue. (The main text is given in Japanese only.)

 朝日紙の文化欄は、加藤周一の「夕陽妄語」が終わって以来、魅力が薄い。しかし、きょう、2011年4月27日の同欄は別である。「勇気を試される表現者:原子力村と文学村」と題して、文芸評論家・斎藤美奈子が書いている「文芸時評」は、大いに注目に値する。

 斎藤はまず、チェルノブイリ原発事故の年、1986年の1月から翌年1月に朝日紙に連載された小林信彦の「極東セレナーデ」の後半において、主人公の朝倉利奈が原発の安全性を宣伝するポスターの仕事への協力を拒んだことにふれる。そして、この国の多くのメディアが原発推進側となった「90年代以降でもこの小説の新聞連載は可能だっただろうか」と問う。

 次いで斎藤は、今月の3点に選んだ1番目の作品、伊坂幸太郎の「PK」(群像5月号)に、「ありとあらゆる人間が、ある日突然に、主義や信念を試されるのではないか。誘惑、もしくは、脅しにより、試される瞬間があるのではないか」とあることを紹介する。これは、「誘惑や脅しに屈した…(中略)…結果がたとえば戦争であり、原発事故ではなかったのか」との問いにつながり、安全神話に加担した「文学者の原発責任」にまで言及する。

 今月の3点の2作目は、文芸評論家・河村湊が2011年3月11日から25日までを記録した『福島原発人災記』である。斎藤はこの作品の執筆の「スピードと非文学性を支持」している。今月の文芸誌に載った震災をめぐる作家の言葉では、高橋源一郎が「日本文学盛衰史戦後編」(17)(群像)において、「この震災と先の戦争との薄気味悪いほどの類似を語ったのが目についたくらい」とも評する。ここで、「文学の人は文学だけを追求してりゃいいんだよ、という態度」は「文学村」の内部の言語であり、「原子力村」と同質ではないかと指摘する。

 今月の3点の3作目は津村節子の「紅梅」であるが、その評の紹介は略する。斎藤は最後に「PK」にある言葉を借りて、「いま必要なのは『勇気の伝染』なのではないか。文学村から放たれるシュートを待ちたい」と述べている。

 この文芸時評は、文芸評論村からのナイス・シュートである。文学村で勇気が伝染すればまことに結構であるが、そこまで行かなくても、一人でも多くの作家が勇気ある発言をすることを期待したい。ちなみに、大江健三郎は文学村を超越した存在であろうが、『ニューヨーカー』誌への寄稿「歴史は繰り返す」(20011年3月28日付け)[1] において、「原子力発電所を建設し、人の命を軽視するという過ちを繰り返すことは、広島の犠牲者の記憶に対する、最悪の裏切り行為」「福島の原発事故がきっかけとなり、いま再び日本人が広島や長崎の犠牲者とのつながりを復活させ、原子力の危険性を認識し、核保有国が提唱する抑止力の有効性という幻想を終わらせることを願う」と述べている。


  1. "大江健三郎「歴史は繰り返す」(『ニューヨーカー』誌寄稿)和訳紹介 Oe Kenzaburo in the New Yorker: History Repeats" (原文も併載), Peace Phylosophy Centre, Blog (April 22, 2011).

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