2013年6月18日火曜日

2013年5月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of May 2013)

[This post is in Japanese only.]

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2013 年 5 月分への感想を 2013 年 6 月 12 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 遅起きでも三文の得
 妻が一昨日から登山に行き、昨日の帰宅が 24 時近くだったので、私はけさ 8 時半過ぎまで寝てしまった。お陰で、いつもはテレビを見ない時間にテレビをつけて朝食をしていて、よい番組を見た。BS プレミアムのドキュメンタリー「ハイビジョンスペシャル・世紀を刻んだ歌・花はどこへいった~静かなる祈りの反戦歌」である。最初に放映されたのは 2000 年 10 月 6 日で、『NHK アーカイブス』のウェブページに、次の概要が記されている。
 「アメリカのフォークシンガーで反戦を訴えたピート・シーガーが、ロシアの文豪ショーロホフの "静かなドン" の一節をもとに、1955年に作った名曲 "花はどこへいった" は、ベトナムへの代表的な反戦歌として広く歌われた。大女優マレーネ・ディートリッヒは、祖国ドイツへの思いをこの歌に託し、フィギュアスケート選手カタリーナ・ビットは、ボスニアへの反戦を込めて、この歌をバックにオリンピックで演技した。[…]」
 筆者はこのように記し、また、JCA-NET のウェブページに、この番組が「イラク侵略の真っ只中」(2003 年 4 月 6 日)に再放送されたとして、その機会に番組の詳細を紹介されていることと、その末尾に「花はどこへいった」の歌詞(原題 Where have all the flowers gone?)とその和訳を掲載していることを述べ、簡潔に本稿を構成しています。この歌のいろいろな録音や、マレーネ・ディートリッヒが歌っている録音も本稿にリンクされています。

 JCA-NET のウェブページには、上記の番組概容の説明も含めて、詳しい説明がありますので、これを読み、この歌の録音を聞けば、20 世紀を通して広く反戦歌として歌い継がれてきたこの歌の魅力をたっぷりと知ることができるでしょう。筆者は「戦争放棄を決めた憲法9条をめぐる改憲論がやかましいいま、この静かな反戦歌が、またまた大いに広まって欲しいと思う」との願いをこめて結んでいます。時宜を得たメッセージだと思いました。

 カタリーナ・ビットがこの歌をバックにオリンピックで演技したことが書かれていますが、薄れた記憶を呼び戻すために、ウイキペディアで調べました。要点を以下に記します。

 Katarina Witt(1965 年生まれ)は、旧東ドイツシュターケン出身の女性元フィギュアスケート選手で、1984 年サラエボオリンピックおよび 1988 年カルガリーオリンピックの女子シングル二大会連続金メダリスト。世界フィギュア選手権でも 4 回優勝し、欧州選手権で 1983 年から 1988 年まで 6 年連続優勝しています。また 1994 年リレハンメルオリンピックにもプロ選手として出場し、大きな話題となりました(その時の演技はこちらなどの YouTube 映像で見ることが出来ます)。このオリンピックの開会式では、サマランチ IOC 会長の呼びかけによって、10 年前の開催地・サラエヴォが内戦の戦火に曝されている現状に対し、黙祷が捧げられました。

2. 湯川の「うつしえ」
 私はかつて湯川秀樹の自伝『旅人』の英訳に間違いが沢山あることに気づき、訳者の一人であるブラウンさんに正誤表を送った。その中には「うつしえ」の訳 "shadow pictures" を "transfer pictures" に直した一項を含めていた。旅人の中の「うつしえ」は、湯川が子どもの頃、祭りの店で売っていたものの一つとして書いてあり、"shadow pictures" といえば、売るというより実演するものだと思ったからである。しかし、湯川の子どもの頃には、幻灯で「写し絵」をして遊ぶための、セロファン紙に絵を描いたような、いまのスライドに相当するものが売られていたのかもしれないとも思い、この修正には自信がなかった。
 この、湯川の「うつしえ」は「写し絵」か「移し絵」かという問題に答を与えるような記述を先般、夏目漱石の自伝的小説『道草』の中に見出した。漱石自身をモデルにした主人公・健三の子どもの頃について記した第四十章に次の文があったのである。
 「彼の望む玩具は無論彼の自由になった。其中には写し絵の道具も交っていた」。
 …中略…
 漱石の子どもの頃には、「写し絵」の道具がやや高級な子どもの玩具だったのである。生年は、漱石が 1867 年、湯川が 1907 年で、どちらも子ども時代は明治時代の中に入る。私は 1935 年生まれで、湯川との生年の隔たりは、漱石と湯川の隔たりより少ない。しかし、東京市内に電灯がほぼ完全普及したのが 1912 年であり、電灯の全国的普及が日本の文化環境を大きく変えたであろうことを考えると、漱石と湯川の子ども時代は、湯川と私の子ども時代より、共通点がはるかに多かったに違いない。…中略…以上のことから、『旅人』の英訳における "shadow pictures" は正しかったと認めなければならない。

 この文章を読んで私は、「うつしえ」の訳の "shadow pictures" を "transfer pictures" とするか否かについて迷いのあったことが、筆者には気にかかっており、ずっと後年になって愛読書である漱石の小説のうち、『道草』にその回答を見出したときには、はっとして、発見の喜びを感じられたことと拝察します。漱石の件の文章は、「彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟の影を映して、烏帽子姿に鈴を振らせたり足を動かせたりして遊んだ」と続きます。こんな動きができるのかと、インターネットで「写し絵」について調べ、下記のことが分り、また勉強にもなりました。

 日本でも、江戸時代に伝わった幻燈から、さらにダイナミックで娯楽性豊かな独自の映像ショーである「写し絵」(関西では錦影絵、島根県では影人形などの呼び名があります)が生まれ、人気を集めました。江戸時代後期にわが国にもたらされた幻灯器は、明治期にかけて一般に広く親しまれるようになりました。錦影絵は風呂とよぶ幻灯器とフイルムに相当する種板を用いて、和紙の スクリーンに裏側から投影し、動きをもつ映像をつくりだすものです(種板の写真、風呂の構造、スクリーンへの写し方の図解説明が、たとえばこちらにあります)。健三はそういう種板を操って、烏帽子姿の男の手足を動かせたりして遊んだのでしょう。

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