大山崎山荘美術館の建物
山崎の合戦で名高い天王山の南麓に位置する大山崎山荘は、関西の実業家・加賀正太郎["洋ランと平和を愛した男 (The Man Who Loved Orchids and Peace)" に紹介]によって、大正初期から昭和初期にかけて建てられた。加賀はイギリスのチューダー様式をもとに、別荘として自ら設計している。加賀の手を離れたあと荒廃していたが、1996年に修理補修と新館の併設がなり、アサヒビール大山崎山荘美術館として開館した。2004年、国の有形文化財に登録。(参照:同美術館リーフレット。写真は、2005年6月16日撮影。)
2ページの朗読に疲れる
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年9月17日(水)、18日(木)晴れ
そのことについて何の活動もしなかった。放課後、校内バレーボール大会をしばらく見る。好ましい明るさと楽しさと活気。それらにマッチしない学校新聞が何の役にたつだろうか。ぼくの統率も悪いが、2年生のスタッフも、もう少しよい方が望ましい。SN 君や TKS 君は五目並べ狂になっている。
英語乙で、次に習うところを2ページ近くも朗読させられたのには、疲れてしまった。これだけ連続的に発声するのは、ぼくの毎日の生活において希有のことなのだ。休み時間にぼくほど雑談を交わさない者はいないといっても過言ではない。授業はほとんど講義形式だから、ここでも口を働かせる機会はない。家での母との会話は片言に近いものだ。こんなふうだから、朗読の終り近くでは、口が渇いてしまい、逐語的に(訳すとはいうが、読むというだろうか)しか読めなくて、breath group も何もあったものではなく、いま思うと冷や汗の出るような読み方をした。初めの10数行は、前の時間から読まされることに予定されていたので、巧みに読んだ。しかし、どこまで進んでも「そこまで」といわれないので、いやになり、次第にまずくなって woman と women を混同し、Imperial を正しく読んだかどうかも分からない。それでも、校長先生のように一つ一つの単語でのアクセントの位置を間違えることはしなかったと思う。[1]
引用時の注
英語乙は校長先生に習っていたが、先生の都合で何回か別の英語の授業の担当だった I・S 先生が代理で来られた。I・S 先生の本来の授業では生徒に朗読させることは決してなかったのだが、あるとき、私が I・S 先生から朗読させられ、「(試験の成績から想像したより)案外下手だねぇ」といわれた記憶がある。それが、この日のことだったようだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿