2005年6月20日月曜日

田んぼ脇のハナショウブ畑 / 元上司への礼状


田んぼ脇のハナショウブ畑

 一つ前の記事で紹介した綾部市の「小さな水車」の場所から、もう少し用水路沿いの道をたどると、右手に写真のようなハナショウブ畑があり、ちょうど花盛りだった。

元上司への礼状

 私が最初の職場で最も世話になった元上司、S・O 博士から、先日「邯鄲一炊の夢(続):生命の発生、エイリアン、宗教」("Identity for Myself" No. 7 掲載)という文の別刷りが送られてきた。A4版7ページで、終りの2ページには、パリのノートルダム寺院、モスクワのノボデビッチ修道院、ヘルシンキ大聖堂、イスタンブールのブルーモスク、奈良の薬師寺の美しいスケッチと簡単な説明がついていた。昨日、苦心して、下に引用するような礼状をしたためた。

 なお、昨年のいまごろ貰った「邯鄲一炊の夢」正編の副題は、「神はおわすのか」であり、その趣旨は、最近の物理学や宇宙物理学の知見を眺めても、物理的世界観がいずれ宇宙のすべてを統べる法則を見出すだろうと期待した O 博士の夢は、まだまだ実現しそうにない、というものであった。




2005年6月19日
S・O 様

 拝復

 梅雨入り宣言後、近畿では雨が少なく、水不足が心配なこの頃です。

 先日は「邯鄲一炊の夢(続)」をご恵贈いただき、まことにありがとうございました。正編をお送りいただいた折のお便りに、次に「生命の発生」と神の問題を取り上げてみたい、と書いておられましたが、それをこれほど速くまとめられるとは予想していませんでした。地球上の生命の科学だけでなく、地球外生命の探査や、地球上での民族紛争、ヒトの滅亡後の話まで盛り込まれた O さんの広い視野には、いつもながら敬服させられました。

 私も、宗教は、人間の文化活動の一端として尊重するにしても、非科学的な考え方や紛争のもとになっているところを好みません。他方、宇宙の法則を神と呼ぶならば、それは存在するものと思っていました。しかし、今や、物理定数が必ずしも定数でないとか、定数が全く異なった値になっている別の宇宙が無数にあるかも知れないといわれています。そうなれば、このような神の存在さえも疑わしくなって来ます。

 お手紙にありました「ヒト属の途絶えた地球」を考えれば、確かに空しい感じがしますが、その空しさが予想されるからこそ、ヒトはつまらない紛争をやめて、今をよく生きるべきではないかと思います。

 同封の写真は、O さんの感化を受けて、私が最近始めました水彩画の作品(6号サイズ)を撮ったものです。[以下、絵の詳しい説明の引用は省略]

 これから蒸し暑い季節が続きます。くれぐれもご自愛のほどお願いいたします。

 敬具

 T.T.

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/20/2005
 物理学の先生が、これだけ広い視野で考察を続けておられるのですね。私自身も、(遅々たる歩みですが)研究活動は広いテーマも目標に据えた夢のあるものだなぁと思えてきた昨今です。それは研究者にとっての普遍的な愉しみではないかと想像します。
 私自身は、物理学で神の法則を押さえてほしいというよりは、むしろ科学と非科学的なものとが別個に尊重されたほうがいいのではないか、と思っていますが、当然両者を包括したり、すべてを体系付ける考察はなされていくべきだろうとも考えています。こうした考察は、長年の業績のある方にしか、ほとんどなしえないことだろうと思うのですが、Ted さんはいかがお考えでしょうか。
 先日、福祉の実践分野の年配の責任者の方が、福祉の「科学性」が高められるべき、とのお考えを私に示されたので、時代の流れは感じました。

Ted 06/20/2005
 西欧式科学にはなじんでいないけれども、いろいろな民族が古来からの経験に基づく知恵として重んじている行き方などは、非科学的といって無視するのではなく、科学の目で見直すことが必要だと、私は思っています。これは、Y さんのいわれる「科学と非科学的なものとが別個に尊重されていくべき」というお考えと通じるところがあるのではないでしょうか。

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