2005年6月22日水曜日

エム・ワイ君からの感想(2005年5月分)


写真は近くの中の池公園へよく来るアオサギ(2005年6月19日写す)。

 さる6月20日付けで、M・Y 君から "Ted's Coffeehouse" 5月分への感想文を貰った。同君の了承を得て紹介する。長かったので部分的割愛を考えたが、ごく一部を除くに留めた。青色の文字をクリックすると、関連ページが別ウインドウに開く。




1. 随筆

(1) 憲法記念日に思う

 この論旨には賛成です。「日本国憲法9条1項は1928年パリ不戦条約以来の国際的流れ…、憲法にうたうか、うたわないか、によることなく、各国が守らなければならない内容である」としてパリ不戦条約第1条が挙げられています。このことを始めて知ったので、『岩波基本六法』で日本国憲法 第9条を見ましたら、参照条文として「戦争放棄ニ関スル条約(不戦条約)」がありました。[1]

 パリ不戦条約については世界史の読本には、ほとんど記述がなく、『世界の歴史14』(中央公論社)の「社会主義と民族主義」の項に「一方、ポアンカレー内閣に留任したブリアンによて、「ロカルノの太陽」はさらに新しい光をくわえた。それは、彼とアメリカの国務長官ケロッグとが主唱者となって結ばれたパリ不戦条約(ケッログ・ブリアン協定)である」と記述されていました。

 これを見てマルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』の次の場面を思い出します。ジャックがインターナショナル(革命運動)に身を捧げ、第1次世界大戦勃発時不戦運動をしていたフランスの同志(ドイツの同志も同様)が次々と愛国的社会主義者に変貌し動員令に応じて行くことに絶望しますが、あきらめず、最後の手段として、身を賭して独・仏軍が対峙する最前線上空で独・仏語のアジビラをまく計画を実行します。

 「フランス人諸君よ、ドイツ人諸君よ! 諸君は人間だ。諸君は兄弟だ!…一斉に立て。そして戦争を拒絶せよ! 各国にたいし、平和の即時樹立を要求せよ! 一斉にたて、明日、日の出とともに!」(山内義雄訳)という大量のアジビラを準備し、スイス国境の丘の上で同士の操縦する飛行機と待ち合わせ、払暁に北西へと、愛するジェンニのことなど思いながら飛び立ちます。無念なことに、飛行機はフランス前線上で墜落し、ジャックは重傷を負い、スパイと疑われ、司令部に搬送される途上で本人の要求により射殺されます。不戦運動はこの時代にはヨーロッパの希望の曙光だったのでしょう。

 アインシュタインの原爆に関することば に引用されているアインシュタインの言葉の結びを読むと、彼が生きていて、日本の憲法9条を変える動きを聞いたとすれば、本当になんといったかと思わされます。

(2) 靖国問題とは

 このたびの国会で岩国哲人衆議員議員が「天皇が一度も靖国参拝をしておられないことをご存知か」との質問をしているのを、たまたまテレビの国会中継で見ました。私もかねてから靖国問題でこの点を皆がどう受け止めているかと思っていましたので、岩国議員が国会でこの指摘をしたことに共感を覚えました。

 その後6月3日付け朝日新聞の「一から分かる靖国問題」に、天皇の戦後の参拝記録表があり、「75年11月を最終に参拝は途絶える。理由は明確でないが、78年のA級戦犯の合祀と関連しているとの指摘がある。今の天皇は89年の即位後一度も参拝したことがない」とありました。6月14日の同紙の社説「遺族からの重い問いかけ」には、「小泉首相は4年前の自民党総裁選のさなか、日本遺族会幹部に靖国参拝を条件に支援えを求めたことを認めている」とあります。

 貴君の論旨は明快で、「このような神社に首相が公式参拝するならば、日本は侵略戦争を反省していない、と外国からみられて当然である」との主張は客観的(常識的に)に認められることだと思います。

(3) 生命操作への疑問

 福岡教授が「動的な平衡系としての生命を機械論的に操作するという営為自体の本質的な不可能性を証明しているように思えてならない」と述べているような限界のある中で、生命工学(科学)はどのようにして健全な進歩を遂げていくのでしょうか。

(4) 人磨呂文学の最高峰

 私は先の貴君の書評 [2] にあった『英語でよむ万葉集』を読み、万葉集の今まで知らなかった世界が広がりました。今回の「人磨呂文学の最高峰」は、四方館さんの引用になる人磨呂の衝撃的な刑死説と人磨呂のみまかりし時に読んだ妻の歌、そして、リービの著書からの人磨呂が妻の死を悲しんだ歌を構成要素として、人磨呂にまつわる話題を提供しています。その上で、人磨呂は皇子皇女の死を悼むために最大級の「公」の挽歌を創りだしたが、彼の文学の最高峰は「私」的な挽歌にある、というリービの考えを簡潔に紹介した秀れた一文だと思います。

2. 写真

 5月はバラの季節。赤、白、黄、色々な美しいバラを楽しみました。浜寺公園の「ばら園」は昔ながらの風景の中にバラの彩りを取り入れた日本庭園をコンセプトしたとのこと。普通、薔薇といえばイングリシュガーデンなどを連想しますが新しい発想ですね。二城下町への小旅行の琵琶湖湖畔にある長浜と彦根は、私の知らないところで、説明付きで興味深く拝見しました。旅行をさぞ楽しまれたことでしょう。浜寺公園の睡蓮の写真(「ワン、ツゥー、スリー、フォア、ポプラがゆれる」の記事中)は、光の差しかたなど、モネの睡蓮を思い出します。庭のシャクヤク、植木鉢のユリ(「ああ何ということ!」の記事中)など、四季折々の花、楽しみですね。

3. 交換日記

(1) 「夏空に輝く星」 [3]

 表記小説のウエブ版序文に「主な筋は全く創作であるが、細かい挿話や詳細な描写には、日記にあった記述を縦横に活用した」とありますが、このことは、この日記を読むとよく理解できます。ことにSam(里内敏夫のモデル)の果たす役割と言動が。小説は7月28日から8月15日の20日足らずで書き上げられた、とのことですが、Sam は7月28日の日記「胸がどきどきして」に、Ted の書く主人公の性格について3件の提案をしています。これに対し、Ted は各提案について真摯に自分の意見を述べ、主人公の性格を方向付けています(7月31日の日記「宿題の小説の主人公」)。

 小説の中に、主人公の稔が、ものの見方や絵と自己の感情についての示唆を得るために、敏夫と一緒に女主人公の宏子を訪ねる場面があります。しかし、Ted が Sam と一緒に Minnie に会いに行ったのは、日記によると小説を書き終えた後の8月16日(ああ何ということ!)のことです。そこには、「われわれは二人で行き、すべての話は Sam がしたけれども、Minnie や彼女の母は、ぼくが一人で行ったように感じなかっただろうか。…… Henry David Thoreau のことばを、ぼくは自分の小説の中で肯定した。また、彼女の家を辞するとき、それが正しかったと思った」と記されています。とすれば、創作の時点では小説中の情景は想像だったのでしょうか [4]。それにもかかわらず、内容がよく類似しているので、関心を惹かれました。引用時の注に、「小説を書いたあとで、なお、そのモデルについてもっとよく知りたくなったかのようだ」とあり、なるほどと思いました。

 この訪問を実行するにあたっての関連記述としては、Sam の7月26日の日記「総天然色漫画」に、「Ted が休暇になるとは、こんな問題を持ちだすのは何に起因するか?」とあります。また、Ted の8月3日の日記「愉快に過ごすための…」には、「Sam と対等で実行したい、と書いたね。だから、もしも Sam が、そこへ行こうという意志と、行って何かを得たいという意志において、ぼくと同程度でなければ、今度の場合、われわれは行くことが出来ない」とあり、引用時の注にも、「さんざんちゅうちょしながらも後日実行した件についての記述」とあり、Minnie と会うことの障壁の高さがうかがい知れます。

 8月14日の自作小説への反省において、「悩みは悩みらしくなく、解決は解決らしくなく、中心事件なく、まとまりなし、というないないづくしがこの小説かもしれない」と、Ted は自ら述懐しています。しかし、「序」に簡潔に書かれた小説化の趣意に基づいて、緻密な構成のもとに、日記と日常の自己向上のための思索や交友の様子などの実体験を縦横に活用して、物語りは展開されています。思索にやや難解なところもありますが、小説化の趣意が格調高く表現された名作だと思います。ホームぺージの日本語インデックス・ページに引用されている F・N さんの感想に、「みずみずしく鋭敏な青春時代の精神生活を、もう一度垣間見る思いで読みました」とあるのは、その証でしょう。

(2) 海水浴

 Ted も Sam もそれぞれのクラブのメンバーと日を違えて海水浴に行っています。Sam の7月27日の日記「海水浴」には、彼の場合の情景が生き生きと描写されています。Green とのリンゴの投げあいの場面、帰りの込み合ったバスの後ろから Green を見て受けた感じ、『別れるとき、「サヨナラ」といったが、これで、よほどの偶然がないかぎり、一カ月ばかり Green とは会えないのである』と、快く思っている女性への思慕が率直に表現されています。他方、Ted の8月1日の日記「波と雲の白、水の緑と青…」には、「着いたときも一度大雨が来たが、あとはきれいに晴れ上がって、波と雲の白、水の緑と青、砂の白と茶色、それらがわれわれを十分に楽しませてくれた」とあります。前者は積極的かつ感情をこめて、後者は客観的に淡々と、記しており、両人の性格が現れているようです。

(3)「オリンピック賛歌」の和訳を英訳

 当時の放送技術レベルが分かって面白いし、うまく訳された英文を読み、このような賛歌があったのかと当時のことを思い出します。戦後日本が初めて参加したヘルシンキ・オリンピックですね。古橋が400m自由形決勝で第八のコースで泳ぎ、フランス若手のボワトがアメリカの紺野を抜き優勝し、喜びのあまり、父親がプールに飛び込んで抱き合ったこと、そして、古橋は8位、その夜ひとりで、宿舎のベランダに出て月を眺めていたということに、何となくしんみりとさせられたものです。もう一つ前のロンドン・オリンピックに日本が参加出来ていたら、日本の水泳は大きな花を咲かせただろうと思うと、賛歌の "To win is a great thing but to join in competition is a much greater thing." のbut以下の句は白々しくも聞こえます。

 引用者注

  1. パリ不戦条約の条文等についてはこちらを参照されたい。

  2. 『英語でよむ万葉集』を読む:鹿の妻恋にも名訳 (Ted's Coffeehouse, March 20, 2005).

  3. 6月中のブログに引用した高校生時代の交換日記には、私が高校2年生の夏休みに、国語の宿題として小説「夏空に輝く星」を書いた経緯が出てくる。M・Y 君は、ここでその経緯を引きながら、小説自体への感想も記している。

  4. Sam と私の Minnie 訪問は、1年以上前の、高校1年生の春にも実行されており、小説はそのときの様子を参考に書いたのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿