音無瀬橋
福知山市内を流れる由良川にかかる音無瀬橋(写真)の一帯では、8月に花火大会が開催され、10万人以上の人出で賑わうとか。(JR 西日本「駅からはじまるハイキング MAP(46)福知山コース」を参照した。2005年6月12日撮影。)
をみなごに花びら流れ
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年9月5日(金)曇り
編集室で弁当を食べているとき、校内放送が、ぼくを含む何人かに生徒会室へ来るようにといっていたようだった(編集室のスピーカーは壊れて、さらに紛失してしまっている)。明日のアセンブリーの出場者の集まりに行かないでいたので呼ばれたのか、と思いながら行ったが、そうではなかった。去年、文化委員長だったときは長髪にしてもったいぶっていたのが、会長になってから坊主頭になって軽快で朗らかな感じを前よりも多く与えるようになった OK 君が、しごく丁重な態度と言葉遣いで、校歌作成(「作成」でなく「作詞」かも知れない)委員会を作ること、そしてわれわれが国語の先生からそのメンバーとして推せんされたものであること、きょうの生徒議会で承認を得ることになっているから承知して欲しいということを話してくれた。いままでに数回、OK 君の話を承ったり、彼の質問に答えたりしたが、それらはいずれも学校新聞についてであった。今回はそれに関係はないが、彼のへりくだった話しぶりには恐縮した。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす」という『平家物語』の巻頭の文の、「祇園精舎」とは何であるかを世界史の時間に聞いた。今学期はすぐにゲルマンの大移動へ入るものと思っていたら、まだ、古代のインドと中国をするらしい。1時間で、釈迦が悟りを開き、入滅し、第1回仏典結集が行われる。――こんな進み方では遅すぎないだろうか。
国語の試験での間違いが2箇所分かった。一つは、
「あはれ花びら流れ をみなごに花びら流れ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空に流れ
おりふしに瞳をあげて翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなるわが身の影をあゆまする甃(いし)の上 (三好達治)」
の詩で、作者のいる所が寺院の境内であるか、寺院の近くの舗道であるか、の判断を誤っていたのだ。もう一つは、「天皇、はやくあれを死ねとや思ほすらむ」の「らむ」について、文法的説明をする問題で、上に「や」があることを忘れていたのだ。その文の横に書き込むのならば、「や」に気づいただろうが、抜き出してあったので、うっかり本文を吟味することを怠り、連体形としなかった。
休み時間に廊下を流れるように移動しているとき、後ろから来る新聞部先輩の UN 君と KN 君の会話から、except のような前置詞は不定詞の前に置かれることがあるという exception を知った。『蛍雪時代』を探すと、"The pressure was such as left him no choice except to commit great wrongs." という例があった。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
Y 06/17/2005
Ted さんの日記はやはり、同級生らへの細かい観察が一番面白いですね。そう、確かに、Ted さんよりはるかに遅れて、私も最近になってようやく、そういった幾分親しい情をもって割合多くの人のことを見ることができるようになった気がします。長い間の疎外感とは違う道をすっかり歩み出せたかどうかはわからないのですが、だいぶ異なるという実感はあります。私の場合は、人との出会いの積み重ねかと思います。
Ted 06/17/2005
この日の日記にある1年先輩の OK 氏(当時は先輩も君付けで呼んでいました)のほうが、のちに新聞界で活躍し、若くして北国新聞社総務室長になっていましたので、金沢で物理学会のあった折に会いに行きました。労働組合の委員長として経営者側を鋭く攻めたので、けむたがられて早く管理職に昇進させられた、といっていました。その後、同社の社長、会長も勤めていました。
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