2013年2月11日月曜日

漱石著『それから』中の白百合の品種 (Varieties of White Lilies in Soseki's And Then)

わが家の植木鉢に咲いたテッポウユリ。2009 年 6 月 1 日撮影。
Easter lily (Lilium longiflorum) that bloomed in a flowerpot in my home.
Taken June 1, 2009.

ヤマユリ(写真の出典は英文説明の通り)。
Lilium auratum. By KENPEI (KENPEI's photo) [GFDL, CC-BY-SA-3.0
or CC-BY-SA-2.1-jp], via Wikimedia Commons.

[Abstract] In the journal Tosho, No. 766, p. 20 (2012), the botanist Hirokazu Tsukaya writes an essay about the varieties of white lilies that appear in Soseki's novel And Then. In his graduate student days, Tsukaya proposed that those lilies should be Lilium auratum. In his new essay, however, he revises his earlier proposal and insists that the lilies in Chapter 10 should be Lilium longiflorum and that those in Chapter 14 should be Lilium auratum. Further, he also proposes the possibility that the lilies described as brought by the main character Daisuke to the heroine Michiyo and as remained in her memory when she bought the lilies in Chapter 10 might have been differently recognized by Michiyo and Daisuke as Lilium longiflorum and Lilium auratum, respectively, to symbolize the difference in feeling between the two persons. Having been stimulated by this essay, I read And Then. As for his additional proposal, I do not agree with Tsukaya, because the emotional affair between Daisuke and MIchiyo seems to have happened on the agreement of the two. (Main text is given in Japanese only.) Reading of And Then made me notice that the novella The Star Shining in the Summer Sky I wrote in my senior high school days was much affected by Soseki's style of writing.

 『図書』誌 2012 年 12 月号に、夏目漱石の小説『それから』のクライマックスに登場する「白百合」の品種について考察したエッセイがあった(文献 1)。著者は、植物学者の塚谷裕一(つかや ひろかず)氏である。氏は大学院生のときに、それ以前のテッポウユリ説をくつがえすヤマユリ説を発表し(文献 2)、それが岩波書店の漱石全集(1994 年版)などの注でも採用されて来たという。氏が主張したポイントは、その強い香りが『それから』の白百合が持つべき最大の特徴だということであった。しかしながら、季節の点で、氏はヤマユリ説発表当初から気になっていたので、今回のエッセイで再考することになったものである。

 再検証は、小説中の季節に関わる描写や時間経過、白百合についての描写などを引き合いに出して、詳しく述べられている。ここではその紹介を省くが、「白百合」は、実は第十章と第十四章に、合わせて二回登場している。再検証の結果、登場する「白百合」は、二つの種からなると認めることになったということで、以下のようにまとめられている。
第十章の白百合は、予兆をはらみつつも、まだ純潔を保った状態を示す純白のテッポウユリ。そして第十四章は、明白に純潔の破棄の意思を示すヤマユリ。季節の進行に伴って、ごく自然に「白百合」がその姿を変え、別の種に移り変わるところに、この象徴のポイントがある。
 塚谷氏は最後に、残った謎の指摘をしている。それは主人公・代助が学生時代にヒロイン・三千代を訪問した折に、彼が買って持参したことが三千代の記憶にあったとして登場する百合についてである(『それから』の中では「長い百合」と記されている)。三千代はこの記憶に基づいて、第十章で白百合を買って来たのである。塚谷氏は、「三千代の記憶を重視すれば、これもテッポウユリだったということになるが、代助の選択という観点からすれば、それはヤマユリだったことになる」とし、「あるいは深読みのしすぎかもしれないが」としながらも、「代助はヤマユリを白百合と見ていて、一方、三千代はテッポウユリを白百合と見ているとしたら? そしてそのすれ違いが、一貫して二人の間にあった・あり続けている、としたら」ということを、検討の余地ありと提起している。

 私はこのエッセイに刺激されて、新書判・漱石全集の一冊(岩波、第 7 刷 1979 年;第 1 刷は 1956 年)として蔵書中にありながら未読だった『それから』を読んだ。そして、代助と三千代の精神的な純潔の破棄は、二人の思いが一致してのことであり、白百合の認識の「すれ違い」に象徴的な意味があるのでは、との塚谷氏の説は、必ずしも妥当でないように思った。

 私は、高校 2 年生のときの創作『夏空に輝く星』で、冒頭近くに「道が前方へ延びている。稔の絵の中にも延びている。…中略…向こうにレンガ塀が続き、その手前に茶店がある。稔の絵はその通り写し出している。そこから池の方へ二人連れが歩いて行くが、それは描いてない」という文を書いたとき、漱石の文体を意識的に真似したのだった。このたび、『それから』を読んでみると、その他のところ、たとえば、主人公の思索や心理描写が長く続くところなどでも、当時漱石の作品を愛読した影響がはなはだ大きかったようだと思った。その創作中には、主人公が拾ったヒロインの手帳に、漱石の「倫敦塔」、「カーライル博物館」、「幻影の盾」、「一夜」、「趣味の遺伝」、「坊ちゃん」、「二百十日」、「野分」などについての感想が書いてあった、ということを自分の読書経験から書き込んだのだから、影響が大きかったのは無理もない。

文 献

  1. 塚谷裕一, 白百合再考, 図書 No. 766, p. 20 (2012).
  2. 塚谷裕一, 漱石『それから』の白くない白百合, UP 1998 年 11 月号.

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