2013年8月31日土曜日

エム君ヘ:オニュー君のことなど (On Onew-kun etc: To a Freined of Mine M-kun)

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 M 君

 メール2通、ありがとうございます。とりあえず、きょうのメールについて返事をしたためます。特に、「不思議なのは野球をやっておられたわけでもない貴君が小学 6 年の時の他校チームの選手の綽名を高校生になってまで覚えておられたということです」にお答えするためです。

 ブログ Ted's Archives の検索窓で "Onew" を検索すると、彼は「ホーム行事は HRA による『男女交際の礼儀』の話」の記事以前にも 4 回登場していることが分ります。私は今回「ホーム行事は…」を Sam の日記から書き写したとき、「松が枝小の一塁手だった生徒(IT 君といったかな)じゃないかい?」という当時の注は、それまでの彼についての記述を総合しての推定かと思いましたが、貴君が想像されたように、ニックネームを覚えていたのかもしれません。

 私たちが小学 6 年の時の松ヶ枝小対石引小の野球試合を、私は 2 回応援に行きました。この対戦は 1 年間で 4 回あり、2 勝 2 敗でしたが、そのうちの初めの 2 試合(練習試合と市大会の決勝戦)でした。私は、引き揚げ前にいた大連嶺前小の野球チームが強かったので、大の野球ファンになりました。そして、引き揚げ後に入った石引小も、たまたま大いに強かったので、石引小の試合はたいてい応援に行ったのです。(松ヶ枝との、あとの二つの対戦は、県大会決勝戦と国体の際のエキシビション・ゲームで、前者は夏休み中、小学校のクラスの先生の引率で合宿に行っていた間のことだったので、また、後者は球場が小松だったので、行けませんでした。)Onew 君の名とニックネームは、その 2 回の観戦の間に覚えたのでしょう。私が一塁手に関心を持った理由も、大連時代に原因があります。

 男子は、女の子に関心を持ち始める少し前に、格好のいい男の子に憧れを感じる時期があったりします。(貴君にはそういう経験はありませんでしたか。作家の三島由紀夫の場合、そういう精神状態が長く続いて、『仮面の告白』や『禁色』などの作品を生み出したようです。)私にとって、そのような憧れの対象になったのは、1 年上級の嶺前小の一塁手、N 君でした。ある日の休み時間に運動場で友人とキャッチボールをしていると、N 君が私に「グラヴを貸してくれ」といいました。彼がしばらく使ったあとで、彼の汗のにじんだグラヴを返してくれたときには、天にも登る心地がしたものです。

 それから間もなく女の子の方に関心が移りました(ハハハ)が、格好のいい一塁手を見ると、N 君に対して抱いたような気持はもう起こらないものの、ある程度の関心を持ったのだと思います。石引小の一塁手も、1 学年下ながら、同学年と見紛う長身の持ち主で、結構、格好のいい男の子でした。「ショウベイ」というあだ名だったことを、いまでも覚えています。Onew 君を見たのは 2 回の試合のときだけだったので、高校時代以後はすっかり忘れていました。その格好のいい松ヶ枝小の一塁手が貴君の親友だったとは、全く不思議な縁ですね。

 少年(?)野球の選手といえば、中等学校選抜野球大会から高等学校選抜野球大会に切り替わったばかりの大会に、旧金沢三中のチームが金沢一高の仮名で出場したときの選手数名の名を、いまでも覚えています。北島投手、通善捕手、筆矢遊撃手、そして殿田一塁手。殿田選手の名はジュンちゃんでした。前年の甲子園大会予選が、確か旧金商のグラウンドで行なわれていたのを見に行ったとき、殿田選手に対して、女性の声で「ジュンちゃん!」と声援がとんだのが印象的だったのです。

 スタンダールの作品の件ですが、インターネット検索すると、"Le Rose et le vert" というのがあり、英訳では "Pink and Green" となっています(こちら参照)。これが貴君の書かれた『赤と緑』だと思います。グルノーブルは風光明媚とのこと、ツイッターとフェイスブック上での私の友人、キアラ・マイエロンさんがグルノーブルの研究所にいたときに自分の住まいから早朝に撮った写真を一枚見せてくれたことがあり、近くに山のある、とても素晴らしい風景だったのを思い出しました。

 ではまた。

 T. T.

2013年8月29日木曜日

地蔵盆 (Jizo Bon)

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 数日前から、近くの地蔵堂の前に、写真のように沢山の提灯が飾ってあった。「地蔵盆」という行事のためだろうと思ったが、それが何日に行なわれるものかを記憶していなかった。地蔵堂の前の空き地には、昨日もテントが張られたままだったので、これからその行事があるのかと思っていたが、いま、『ウィキペディア』の「地蔵盆」の項で調べると、「近年では 8 月 23・24 日に行われるのが一般的である」とある。

 「地蔵盆」の言葉を知ったのは、本ブログの前身の "Ted's Coffeehouse"(2009 年にプロバイダーの事故で消滅し、途中までを本ブログに、過去の日付けで復活させた)に連載した高校時代の交換日記へのコメントによってだったことを思い出し、その日記を探したところ、こちらにあった。1952 年(われわれは高校 2 年生)の、Sam(日記の交換相手)による 8 月 24 日付け日記に「地蔵盆」の盆踊りのことが書いてあったのである。その日、金沢では、その年の最高気温、33 度が記録されたとも書いてある。


2013年8月27日火曜日

ケイトウ (Plumed Cockscomb)


 島根県などに豪雨と被害をもたらした悪天候が去り、当地では 4 日ぶりの晴天となった。ウォーキングに出ると、中の池公園の遊歩道脇にケイトウの花を見かけた(1 枚目の写真)。公園の池には、この夏、何本もの糸が並行に張り渡してあるが、何のためだろうか(2 枚目の写真)。猛暑の日々、私は近くの大型商業施設(3 枚目の写真)の内部をウォーキングの主なコースに当てている。きょうの午前中は比較的涼しかったので、この裏の鳳公園内を一周してから中へ入った(4 枚目の写真)。

Bad weather that brought heavy rain and damages to Shimane and other places has gone, and we have seen here clear sky for the first time in these four days. Upon going out for a walk, I saw flowers of plumed cockscomb (the first photo) at the side of the promenade in Nakanoike Park. This summer, many threads are put in parallel over the pond in this park (the second photo). I wonder what is the purpose of them. On blistering days, I choose for the central route of my walking exercise the interior of the large-scale commercial facility nearby (the third photo). It was relatively cool this morning. So I went to the inside of this facility (the fourth photos) after going around Ōtori Park at the back of it.

2013年8月25日日曜日

「初心忘るべからず」 ("Don't Forget Your First Experience")

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昨 8 月 24 日、各地で雨が降り、大阪市では 1942 年の 16 日連続の記録を
更新していた猛暑日が 17 日で止まった。25 日も雨。
On August 24, it rained in many places. In Osaka City, the record of continuation of "extremely hot days" on which the temperature rose above 35 degrees Celsius came to end at the 17th, just above the record of 16 consecutive days in 1942. It rained also on the 25th.

「初心忘るべからず」

 「初心忘るべからず」という言葉をよく聞く。父の観阿弥とともに猿楽(現在の能)を大成した世阿弥が著書『花鏡』(かきょう)の中に、芸の奥義として書いている言葉である。しかし、私は、この言葉のあとに、「時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」と続くことを、最近まで不勉強で知らなかった。

 「老後の初心忘るべからず」までを含めて引用してあったのは、夏目漱石の『道草』についての、小宮豊隆による解説(新書版『漱石全集』第 13 巻、1957)である。小宮は世阿弥のこの言葉を次のように説明している。
初心とは初めての自分の体験であり、時々の初心とは、例えば十歳の年、二十歳の年、三十歳の年などに始めて体験する自分の体験である。その初心を忘れてはいけない、その初心を忘れるということは、事実上後心をも忘れるということに外ならないから、初心を始め、時々の初心老後の初心までも、全部忘れないようにするのでなければ、役者の芸は、決して上達するものではないというのである。(注:引用に当たって、原文の旧仮名遣いを新仮名遣いに、傍点を下線に替えた。)
 「初心忘るべからず」は、普通、「学び始めた当時の気持を忘れてはいけない」(たとえば『広辞苑』)と解釈されているが、小宮は「初心」を「初めての体験」と解釈している。「始めた当時の気持」では、「時々の初心」、そして「老後の初心」へとつながり発展する内容として不足であることを考えれば、「初心」はこのように解釈するのが妥当であろう。(そこで、『故事ことわざ辞典』「初心忘るべからず」の項に "Don't forget your first resolution." という英訳があったが、本記事の英語題名では、resolution を experience に替えた。)

 漱石が自らの幼児、少年、青年、大人の各時代の体験をよく記憶していて、自伝的作品『道草』の中に細かに記していることを評して、小宮は「初心」の上記の解釈を次のように使っている。
これは世阿弥の時々の初心を忘れるなという忠告に、見事に沿うたものである。しかも漱石は、ただ時々の初心を忘れなかったというだけではなく、折にふれてそれらの初心をとり出して検討し、そのどれが正しく、そのどれが正しくなかったかを批判しつつ、自分の後心を訂正したり進展させたりして行っている。
 「初心」の「どれが正しく、そのどれが正しくなかったかを批判し」という小宮の使い方を見ると、「初めての体験」という解釈においての「体験」は、受動的な出来事としての体験ではなく、心構えを持って事に当たった能動的なものという解釈であることが分る。したがって、小宮の「初心」の解釈を詳しくいえば、「自らのそれに対する心構えを含めた、新しい体験」ということになるだろう。逆に、普通の解釈をもとにして、「新しく事に当たった気持に、そのとき会得した体験を加えたもの」ともいえよう。

 ところで、漱石ほど世阿弥の忠告に従うことが出来ていない私などの「初心」の記憶は、どの程度のものであろうか。友人たちから「昔のことをよく覚えているな」といわれたりする。しかし、その内容は教訓にもならない些事である場合が多い。つまり、私の記憶している体験の多くは、「自らのそれに対する心構え」が含まれていない、単なる思い出であり、「初心」に相当しない。

 最近、高校 1 年のときの親友との交換日記をブログ Ted's Archives に連載しているが、その中には「こんなことがあったのを、すっかり忘れていた」と思うような記述がぞくぞくと出て来る。漱石の体験の記憶も、記憶力のよさ以外に、日記に助けられていたところも多いのではないだろうか。いま、パソコンの普及によって、利用できる記憶媒体は、日記帳と頭だけの時代とは比べ物にならないほど便利になった。しかし、私たちはそれを「初心」を忘れないために、うまく利用出来ているだろうか。

 なお、『道草』の読後感を若干付言するならば、次のことが挙げられる。漱石の他の小説のように魅力的な女性が登場するのでもないにもかかわらず、文豪の自伝的作品ということで興味が尽きなかったし、自らの心境の分析が冷徹であることに感心した。そして、主人公が作家であっても、大学で教鞭を取っている時期が多く記されているので、その生活ぶりは、私のような理系の職業についていたものと意外によく似ていると思った。

2013年8月24日土曜日

キャロル・グラックさん「軍備に軍備で対抗するのは、ばかげています」("It's Ridiculous to Compete in Arms to Arms," Says Carol Gluck)

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わが家の庭のハマユウ。2013 年 8 月 20 日、二階の窓から撮影。
Flowers of grand crinum lily in my yard. Taken from the window of the second floor
on August 20, 2013.

 以下は、ブログ『平和の浜辺:福泉・鳳地域「憲法9条の会」』に 8 月 21 日付けで、「見出しの不適切が真意を損ねる:朝日紙のキャロル・グラックさんインタビュー記事」の題で掲載した記事に手を加えて転載するものである。



朝日紙の不適切な中見出し

 2013年8月20日付け朝日紙「オピニオン」欄に「安倍政権と戦争の記憶」と題して、キャロル・グラックさんへのインタビュー記事が掲載されていた。キャロル・グラックさんは、米コロンビア大学教授で、同大学東アジア研究所に所属し、米国における日本近現代史、思想史研究の第一人者である。

 印刷版のこの記事には大きな活字で、中見出しが二つあり、それぞれ 3 行におよんでいる(インターネット版には、中見出しがない)。最初の一つは次の通りである。
右傾化報道は極端
米国が支えた戦後
「脱却」は本意か
 この中見出しには問題がある。忙しい読者は見出しだけを見て内容を知ろうとするだろう。その場合、「右傾化報道は極端」とあれば、グラックさんは「日本のメディアが、安倍政権は右傾化していると報道しているのは極端です」と発言した、と捉えてしまうだろう。しかし、記事中のグラックさんの言葉は「日本に関する海外メディアの報道は極端で、しかも浅い」というものである。

 これは、「参院選でも大勝した安倍政権について、米メディアでも右傾化を懸念する意見が見受けられますが」というインタビューアーの問いかけに答えたものなので、グラックさんの「海外メディアの報道は極端」という言葉の中の「報道」には、「右傾化報道」も含まれてはいるだろう。しかし、中見出しには、どこの報道かが表現されていないので、まず、一つの誤解のもとになる。さらに、次のような意味でも、誤解に導く見出しといわなければならない。

「日本の政治は以前から右傾化している」

 グラックさんはこのあと、「憲法改正を目指すことは、自民党政権として別に新しいことではありません」とか「[『戦後レジームからの脱却』ということと]同種のことを言い始めたのも、別に安倍首相が最初ではありません」と発言している。これを考えれば、グラックさんは日本の政治が以前から右傾化していることを認めていて、「参院選でも大勝した」結果、「急に右傾化した」と見るのが極端で浅い見方だと指摘していることになる。

 右傾化の道を長年進めば、極右ないしは極々右状態にたどりつく。その時点で人々が驚き、あわてても間に合わない。日本のメディアは安倍政権の右傾路線を大いに批判すべきである。

「米国は日本の記憶とシステムを『冷凍』していた」

 上記の中見出し 2 行目の「米国が支えた戦後」にも問題がある。この表現では、グラックさんは「米国は日本に対してよいことをしてきた」といったように取れるが、記事中で中見出しのこの部分に相当するグラックさんの言葉には「支えた」という言葉はなく、「[戦後]米国が、日本の記憶とシステムを『冷凍』していた」といっている。これは、むしろ、悪影響を及ぼしてきたといっていると取るべき表現である。

 中見出しの 3 行目は、意味としては 2 行目から続いていて、2 行を合わせて、安倍首相のいう「戦後レジームからの脱却」は本意かということを表している。これは、グラックさんの「安倍首相は『普通の国』になるために9条を変えることを欲するけれど、戦後体制の『ある部分』は変えたくない。それは日米関係です。[…]安倍首相は、本当に戦後を変えたいのでしょうか」という発言を伝えるものである。グラックさんの指摘がなくても、「戦後レジームからの脱却」という言葉の矛盾は明らかである。

「加害責任否定は『地政学的無神経』」

 二番目の中見出しは次の通りである。
過去の行為の謝罪
世界の新常識に
国内問題視は誤り
この中見出しは、グラックさんの「それ[戦争の記憶に対処する『謝罪ポリティクス』]は世界的な『新しい常識』です。自民党が国内政治として扱おうとしても、それとは別種の国際環境が存在している」という発言からきていて、問題はない。これに先立って、グラックさんは「安倍首相を含む自民党の右派政治家たち」が「加害責任を否定することで、国内の支持をえようとして」きて、その姿勢がすぐに海外に流れることに気づいていないのは、「一種の『地政学的無神経』」と、強く批判している。

「ヘイト・ナショナリズムは安倍首相よりも危険」
「日本は他国がしない隙間の役割を」

 グラックさんは、「在日コリアンへの悪意に満ちたデモなど、ヘイト・ナショナリズムには懸念を持っています。これは安倍首相よりもはるかに危険です」という発言もしている。さらに、日本は「非核国で、兵器も売らず、かつ世界有数の経済大国という稀有な国」という特徴を生かして、「他国がしない隙間の役割を見つけるべき」と説き、「それは、台頭する中国にどう対処するか、という問いへの答えでもあります。軍備に軍備で対抗するのは、ばかげていますから」と結んでいる。これらは、小見出しにでもして、ぜひ強調してほしかったところである。

2013年8月22日木曜日

「戦争」についての二つの基本的な理解 (Two Basic Concepts of "War")

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ザクロの実。2013 年 8 月 3 日、ウォーキング途中で撮影。(本文に無関係)
Fruit of pomegranate. Taken in the course of my walking exercise on August 3, 2013.
(Not related to main text.)

 このところブログ『平和の浜辺:福泉・鳳地域「憲法9条の会」』に力を入れているので、本ブログに記事を書く時間がない。今回も、『平和の浜辺…』に先に掲載したものに少しばかり手を加えて転載する。原題は「『戦争は、政治の失敗と非日常的倫理・道徳の空間』:保阪正康氏」(2013 年 8 月 19 日付け)である。



 敗戦の日を前にした 8 月 11 日の朝日紙「ニュースの本棚」欄に、ノンフィクション作家の保阪正康さんの「戦争観と戦後史:老・壮・青はどう見てきたか」と題する文が掲載されていた。

 保阪さんは「戦争」についての基本的な理解は二つの点にしぼられるとして、カール・フォン・クラウゼヴィッツの有名な言葉「戦争は政治の延長」をかみくだいた、戦争は「政治の失敗」に起因するということと、戦争は「非日常の倫理・道徳が支配する空間」ということを、まず述べている。この理解の上に立って、「まっとうな戦争観を真摯に確認するために今読むべき書」として、「老壮青という三つの世代が読んできた書」を紹介している。

 「老」の世代の書としては、吉田満(1923年生まれ)の『戦艦大和ノ最後』を挙げ、国家の歯車でよしとする兵学校出身者と、それだけではあるまいと反論し戦争を「政治の失敗」とみる意識を持つ学徒兵との論争の場面に、「戦争の本質が凝縮している」と評している。

 「壮」の世代の書としては、小田実(1932年生まれ)の『「難死」の思想』を挙げている。「散華(さんげ)」(筆者注:本来は仏教上の言葉だが、誤って、戦死を美化する表現に用いられている)ではなく「難死」ともいうべき多くの人の戦争被災死について、小田は「私はその意味を問い続け、その問いかけの上に自分の世界をかたちづくって来た」と書き、「真の戦争観の確立をわれわれは成し得ているかとの問いをつきつけ」ている、と紹介している。

 「青」の世代の書として、加藤陽子(1950年生まれ)の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を挙げ、「中高生に日清戦争から太平洋戦争までの近代日本の戦争の内実を平易に語っている」と紹介している。また、「加藤の姿勢には戦争の二つの基本的な理解につながる誠実さがある」と評している。そして、「三つの世代がそれぞれの世代の書にふれることで、戦争観はより強固な戦後史として定着していく」と結ぶ。

 「三つの世代がそれぞれの世代の書にふれる」のは、ある程度自然な成り行きだろうが、三つの世代がそれぞれの世代を超えた書にふれるように努めることも重要であろう。筆者は生年からいえば、小田実の世代に属するが、上記の加藤陽子の書を、いまは亡き丸谷才一のエッセイ「史料としての日記」[『図書』No. 746, p. 32 (2011)]が絶賛しているのを読み、その書を読んでみたいと思った。ただし、まだその思いを達成していない。丸谷が、一点においてだけ、加藤の記述に異論を唱えていることに興味をいだき、そのエッセイの掲載号をまだ廃棄していなかった(ここに、その異論を紹介すれば、廃棄できることになる)。

 丸谷の異論の対象になっているのは、加藤が「いろいろな業種の日本人五人[政治学者・南原繁、中国文学研究者・竹内好、小説家・伊藤整、山形県の農民・阿部太一、横浜の駅員・小長谷三郎]の、日米開戦に際しての感想を引き、うち一人[南原繁]のものを除いてはこの戦争に好感を抱いている、彼らはこのいくさを歓迎したと判定」(丸谷の文から。[ ]内は説明のため、同じ文の他の箇所から筆者が拾って挿入)しているところである。丸谷は、竹内好の文章は大東亜戦争賛美に名を借りて日中戦争を非難する方に力点をかけてあると見、伊藤整の日記については大東亜戦争それ自体を賛美し肯定しているわけでなく慎重に言葉を選んで書いていると見て、そういうところを「感じ取ってもらいたかった」と述べ、この好著を惜しんでいた。

 ところで、保阪さんの「非日常の倫理・道徳が支配する空間」という言葉をいい換えれば、「狂った空間」ということにもなるであろう。そして、保阪さんの「戦争についての二つの基本的理解」をもとにして考えれば、軍備の増強・拡張を進める政権は、自らの失敗を予想して、「狂った空間」を作り出すことに精を出しているいるものといえる。いまの安倍政権は、集団的自衛権の容認や、憲法改悪によって、まさにそういう愚かな政策を進めようとしているのではないか。私たちは、これに対して No! をつきつけなければならない。

2013年8月19日月曜日

「集団的自衛権」の問題 (The Problem of the Right of Collective Self-Defense)

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 [ブログサイト『平和の浜辺:福泉・鳳地域「憲法9条の会」』に、「『集団的自衛権』:米国の発案で国連憲章に入るも、国連の『集団安全保障』の精神に反する」の題名で書いた記事(8 月 17 日付け)を、国内で広く読んで貰いたく、少し手直しして以下に転載する。]

 安倍政権は、戦争放棄と戦力不保持を掲げた憲法9条を変え、日本を再び「海外で戦争する国」に作り変えようとしている。それに向かう一歩として、歴代政権が「憲法上できない」としてきた「集団的自衛権」の行使を、年内にも可能にしようとしている。

 「集団的自衛権」は、1945 年に署名・発効した国際連合(国連)憲章の第 51 条において初めて明文化された権利でる。国連は、第 1 次世界大戦後にできた国際連盟の「集団安全保障」の仕組みの不徹底を改め、本格的な「集団安全保障」体制を確立することを目指して、第 2 次世界大戦後に発足した。具体的には、国連憲章で個々の加盟国に対して武力による威嚇・武力の行使を禁止し、侵略発生時には、安全保障理事会が制裁措置を決定し、そのもとに各国が行動することになっている。

 ところが、戦後、世界の覇権を狙っていた米国は、国連の統制を受けないで軍事行動をとることができるように、「集団的自衛権」を発案し、ソ連(当時)も賛成して、国連憲章に上記の第 51 条が盛り込まれた。その結果、戦前をはるかに上回る規模で、軍事同盟の網の目が世界に張りめぐらされ、多くの国が「集団的自衛権」を口実に、米ソ両国が引き起こした侵略的戦争に動員されることになった。これは国連がめざす「集団安全保障」に真っ向から反する状況である。

 安倍政権は、国連の正しいあり方よりも、米国との軍事同盟である日米安全保障条約を尊重して、米国の求めるままに、日本の軍隊が海外で戦争できるようにすることを目指しているのである。なんと浅はかな考えではないか。

 (『ウィキペディア』の「集団的自衛権」の項と、『しんぶん赤旗』の 2013 年 8 月 16 日付け記事「集団的自衛権 Q&A 1」を参考にした。)

 追記:『ウィキペディア』英語版の "Chapter VII of the United Nations Charter" (国連憲章第7章)中の "Article 51"(第 51 条)の項には、次のように、同条について批判のあることが記されている。
"Article 51 has been described as difficult to adjudicate with any certainty in real-life situations (Glennon, Michael J. (2001-2002), Fog of Law: Self-Defense, Inherence, and Incoherence in Article 51 of the United Nations Charter, The 25, Harv. J.L. & Pub. Pol'y, p. 539)."[第 51 条は、現実の状況のもとでは、確実に裁定することが困難であるといわれている(Glennon, Michael J. の論文「法律の霧:国連憲章第 51 条における自衛、一貫性、および矛盾」参照)。]

2013年8月17日土曜日

2013年7月分記事へのエム・ワイ君の感想 2 (M.Y's Comments on My Blog Posts of July 2013 -2-)

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2. 戦争だけはやっちゃダメ:いまよく読まれているブログ記事「96 歳の遺言」
 この記事は、2013 年 7 月 27 日付けで、ブログサイト『平和の浜辺:福泉・鳳地域「憲法9条の会」』に掲載したものだが、できるだけ多くの人たちに読んで貰いたいので、ここに転載する。
 いま満 96 歳、目は見えないし、耳もひどく遠いけれど、アパートで一人暮らしをしている女性「おけいさん」が、たまたま病院で「八十歳代万歳!」というブログの著者「hisako-baaba さん」と友だちになった。そして、おけいさんは hisako-baaba さんに、戦争で苦しんだ時期を中心に身の上話を語り、hisako-baaba さんはそれをていねいに記録して、「96 歳の遺言——おけいさんから聞き書きした話」というブログ記事が出来上がった。[…]掲載直後からたいへん多くのアクセスがあり、「96 歳の遺言」あとがきによれば、3 日の間に 5000 人ほどの人が読みに来たそうだ。また、電子絵本にするという話も持ち上がっている。
 「96歳の遺言」
私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」という遺言です。
たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっとひどくなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。
という前置きで始まっている。戦争を記憶する人たちが減って行く中で、戦争体験のない人たちにぜひ知ってもらいたい貴重な話である。多くの方々が読み、活用されることを期待している。
筆者は以上のように述べ、「96歳の遺言状」にリンクし、紹介しています。

 筆者が hisako-baaba さんこと中谷久子さんと知り合ったきっかけについては、本ブログ 7 月 1 日付けの「五色の子守歌」に述べられています。筆者は、そこに引用している過去の記事に書いたのと同じ子守歌についての記事「私だけの子守唄」(2006 年 2 月 15 日付け)を『七十代万歳!』(現『八十代万歳!』)というブログサイトに見つけ、コメントを記しました。そのブログの著者・中谷久子さんから、筆者の 6月 29 日付けブログ記事のコメント欄に、次の挨拶がありました。
 はじめまして。埼玉で語り手をしています中谷久子と申します。
 実は、5 年前にブログ「八十代万歳」の古い記事に、コメントを頂いていましたのに、昨日まで気付かなかったことを、記事に書きましたら、お仲間がこちらのブログを教えてくださいました。
 遅まきながら、5 年前のコメントにお礼申し上げます。
 同じ歌詞の子守唄を聞いて育った方を、初めて知りました。私は昭和 6 年生まれです。英語は存じませんが、素敵な旅の画像を楽しませていただきます。
 今後とも宜しくどうぞ。(2013 年 6 月 30 日 6:17)
 筆者は、下記の返事を書きました。
 Nakatani さんは、美しい花の写真とともに、よい記事を精力的に「八十代万歳」のブログに書き綴っていらっしゃいますね。私も、これからときどきお邪魔したいと存じます。よろしくお願いいたします。近日中に、「五色の子守唄」について私が消滅したブログ記事に書きましたことなどを、お知らせ出来るようにしたいと思っています。(2013年6月30日 20:36)
この約束にしたがって、筆者は 7 月 1 日付けの「五色の子守歌」をまとめたものと思われます。ここには、朝日新聞に以前、子守歌のルーツを知りたいという、ある婦人の投稿があり、それに対して筆者が、「その歌は私の母もよく歌ってくれた」という投稿をした(1990 年 5 月~6 月)こと、上記の中谷さんのブログサイトを今回訪れてみると、「5 年前に見落としたコメントが——五色の子守唄」という記事があり、中谷さんはこの記事の中で、2006 年の記事への c ちゃんさんという方からのコメントで子守歌の題名が分ったと書いておられたこと、などが記されています。

 おけいさんの記憶は、いまもなおしっかりしていて、生い立ちから関東大震災被災の状況、戦地で罹った酷いマラリアがもとで、32 歳の若い夫を亡くし、2人の子供と敗戦後の苦難の時期を乗り越えて現在に至った語りの内容については、幼少ながら当時を知る私には、類似の見聞や経験などに照らし、よく理解することができました。昭和 20 (1945) 年 4 月夜の豊島区大空襲については、「焼夷弾は一個のさやの中に 38 発も入っていて、38 倍にはじけとんで、燃えながら落ちてくる」と臨場感豊かな描写があり、映像では見ていましたが、降るように落ちてくる理由を初めて知りました。

 ただ、夫君が昭和 12 (1937) 年 7 月の支那事変(日中戦争)で応召し、中国で戦い酷いマラリアに罹って 3 年くらいで帰還したという件は、不思議に思いました。太平洋戦争の南方戦線で戦後復員した人には、マラリアに罹って同じような発作で苦しんでいた人が多かったことは知っていますが、キニーネという特効薬があり、そのうち回復していました。

 疑問点は、先ず、昭和 15 (1940) 年にマラリアに罹りそうな中国戦線はどこだったのか、ということです。昭和 15 年 2 月に南支方面軍が編成されたことのことです。蒋介石ルート(米、英国やソ連が蒋介石を支援するための物資を輸送するビルマなどを起点とする複数ルート)に沿った輸送阻止作戦にも絡んでいたのかも知れませんが、当時の中国戦線は拡大してしまい、風土病にたいする予防特効薬を供給できない状態だったのでしょうか。国民が思っている以上に戦線が混乱状態に陥っていたのかも知れません。

 次に、最前線の要所には野戦病院が、また、拠点には立派な陸軍病院があったでしょうから、先ずここで治療を行い得たのではないかと思います。私自身上海(中支)に住んでおり、昭和 18 (1943) 年国民学校 2 年生の時に上海の陸軍病院に学校から慰問に行き、傷病兵病棟に入り、兵士たちが従軍看護婦などに手厚い看護を受けている様子をつぶさに見たことを記憶しています。これから太平洋戦争を仕掛けようとする陸軍の、当時のマラリア対応能力がこの程度のものだったのかと驚くと同時に、病気のまま除隊させ家族を困らせるということは、戦意高揚の時代にそぐわないことだと思いました。

 しかしながら、廃兵問題は当時でも、社会から隠ぺいしたい恥部だったのでしょう。そしてまた、この話は日本陸軍の、兵士の人命軽視の一端をうかがわせるものと思います。

2013年8月16日金曜日

2013年7月分記事へのエム・ワイ君の感想 1 (M.Y's Comments on My Blog Posts of July 2013 -1-)

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 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2013 年 7 月分への感想を 2013 年 8 月 15 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 改憲論に抗して思う
 私が別シリーズで書いているブログ「福泉・鳳地域『憲法9条の会』」は、同会の活動、大元の「九条の会」のメルマガの紹介、憲法9条や平和関連の集会・催しの案内、新聞・雑誌記事の紹介などが中心で、私自身の思いを述べた文は少ない。しかし、このブログ "Ted's Coffeehouse 2" とは読者層がかなり異なる可能性もあるので、最近前者のブログに載せた私自身の思いに関する短文をここに集めておく。
と前置きし、日本国憲法の実施(1947 年 5 月)直後の筆者の高校時代からの思いと平和への願いが、時を経て蓄積され編集されています。以下にこれらを抜書きし、補足しコメントいたします。
(1)「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」(2013 年 6 月 21 日)

 1951年、私が高校 1 年生だったときの親友との交換日記を別のブログに連載している。先日掲載した 1951 年 10 月 11 日付けの私の日記の冒頭に、「『ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重』、何という理知的な解釈、何と整然とした解答だろう」とあった。何についての誰の言葉かを書いてない。しかし、少し前の日記に社会科の宿題として「明治憲法と日本国憲法の比較」という問題が出たことが書いてあったことから、その宿題の優れた解答として先生が紹介したものだと思い出した。その解答を提出したのは、学年のマドンナ的存在で、私が日記中でヴィッキーというニックネームを与えていた女生徒だった。いま、自民党の改憲草案を読むと、それが明治憲法を彷彿させるものであることに気づく。自民党改憲草案と日本国憲法の相違、それもまさに、「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」ではないだろうか。ヒューマニズムの否定につながる憲法改悪は、断じて阻止しなければならない。次に彼女に会う機会があれば、その言葉を当時も感心し、いまも大いに感心していることをぜひ伝えたいと思っている。

(2)『草枕』に見る漱石の反戦思想(2013 年 6 月 23 日)

 高校 1 年生のときに読んだ夏目漱石の『草枕』を、ふと再読したくなり、読んでみた。先に読んだときに興味を持ったのは、誰もがこの作品の主題と認めると思われる、主人公の画家が主張する「非人情」について、それが、本当に芸術を創造するために不可欠な姿勢だろうか、ということだった。今回もその問題に関心がありはしたが、「改憲論」がやかましいいま、もう一つ、大いに興味を引かれたところがあった。
 それは、主人公やヒロインの「那美さん」らが、日露戦争のために応召する彼女の親戚の「久一さん」を駅まで見送る最終章である。送る人たちの一人である「老人」は次のようにいっている。
「めでたく凱旋をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家のためではない。わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。まだ逢える。」
この言葉は、与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」に通じるものである。
 また、次のような記述もある。
 車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝の臭いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑べって、むやみに転ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果はここで切れる。
「赤いもの」とは血を指していて、ここには、若い人を戦場へ送る悲しみや、戦場のむなしくも殺伐な様子が描かれている。
 さらに、末尾近くには、
那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
とある。主人公を那美さんに対して、「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と叫ばせた「憐れ」の表情は、先に彼女が久一さんにいった「死んで御出で」という言葉とは裏腹な、彼女の真情を吐露したものであろう。
 これらの記述に、軍国主義の盛んだった時代にもかかわらず、漱石が抱いていた反戦の精神がはっきり現れていると思う。彼がいま生きていたならば、「九条の会」の心強い味方だったに違いない。

(3)「朝令暮改」の戒め:憲法 96 条改悪案に思う(2013 年 6 月 26 日)

 「朝令暮改」という言葉がある。『広辞苑』には、「朝に政令を下して夕方それを改めかえること。命令や方針がたえず改められてあてにならないこと。朝改暮変」と説明してある。その語源の一つは、『漢書』24 巻「食貨志」第 4 上に記述されているものだということだ。それは、前漢時代に晁錯(ちょうそ)が文帝に出した奏上文中の、「勤苦如此 尚復被水旱之災 急政暴賦 賦斂不時 朝令而暮改」という箇所である。これは、「(農民たちの暮らしは)このように苦しいものであるうえに、水害や干害にも見舞われ、必要以上の租税を臨時に取り立てられ、朝出された法令が、夜には改められているといった有様です」と伝えている文である。
 命令や方針でさえしばしば改められるのは悪政であるとの戒めが古来あるにもかかわらず、国家存立の基本的条件を定めた根本法である憲法を、96 条を変えて、ときの政治勢力の都合によって容易に変更出来るようにするなどとは、もってのほかではないだろうか。

(4) トルストイの作品に見る憲法9条の精神(2013 年 6 月 27 日)

 若い頃に好きだったロシアの小説家、レフ・トルストイの作品を最近また読んでいる。目下読んでいるのは、『五月のセワストーポリ』。1853 年からロシアがオスマン帝国、そして、これと同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスを迎え撃って戦ったクリミア戦争の舞台となったセワストーポリの状況を描き、戦争の無意味さを訴えた 3 部作中の第 2 作で、1855 年、トルストイが 27 歳のときの作品である。
 冒頭近くに次の言葉があった。
外交によって解決されぬ問題が、火薬と血で解決される可能性はさらに少ない。
これはまさに、憲法9条の精神である。先哲の教えを重んじることなく、集団的自衛権の行使を認め、憲法9条を変えて、軍事対抗主義に走ろうとする政治家たちがいることは、実に情けない状況といわなければならない。

(5)「日本国憲法第9条について論ぜよ」にアクセス急増(2013 年 7 月 17 日)

 筆者は個人的なエッセイを書く "Ted's Coffeehouse 2" というサイトを持っている。その中の 2004 年 11 月 22 日付け記事「日本国憲法第9条について論ぜよ」へのアクセスがこのところ急増している。「改憲」論がやかましいいま、この記事が少しでも役立てば嬉しい。まだご覧でない方は一読していただければ幸いである。
 以下が補足およびコメントです。

 トルストイは外交努力の重要性を説いています。「火薬と血で解決」する手段を放棄した日本国憲法の平和の理念は、人類の、たとえ戦争志向の国においても、潜在的な希求であることは想像に難くありません。外交努力によって、国際的に日本国憲法の真意についての世界的な理解と支持を得ることが大切です。拉致問題は、人道的な見地からも、あってはならない罪悪です。家族会の人々の年齢から考えても時間的な余裕はありません。偽りのない、われわれの納得出来る解決に至るよう、最後の外交努力に万全を尽くして貰いたいものです。

 筆者が高校 1 年の 1951 年 9 月 14 日の日記の末尾に、「『草枕』を昨夜読み終えた。芸術の客観性ということが強く出ている。しかし、何もかもが第三者的立場のみから感受され、考察され、判断されたらどうだろう。それは、あくまで芸術の中だけのことであろう。躍動する生命を持っているわれわれは、何事にも直接ぶつかる場合が多い。そこでは自分を一つにして力闘することが必要だ」と高校生らしい的を射た感想を書いています。

 『草枕』は、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」と、ほとんどの人とがどこかで目にしたと思われる文章から始まります。

 そして、筆者の上記の文章に引用されている「那美さんは茫然として、行く汽車を見送る」という文の前には、次の文章があります。
 […]未練の無い鉄車の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、余等の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、三等列車が余の前を通るとき、窓の中から、又一つ顔が出た。[…]髭だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。
この「髭だらけな野武士」は、那美さんを離縁した夫で、貧乏して日本に居られなくなり、その前日に彼女にお金を貰いにきた場面を主人公に目撃されていました。

 前の章に主人公と那美さんの次の場面があります。
「[…]それで、何処へいくんですか」
「何でも満州へ行くそうです」
「何しに行くんですか」
「御金を拾い行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
 此時余は、目をあげて、ちよと女の顔を見た。今結んだ口元には、微かなる笑みの影が消えかかりつつある。意味は解せぬ。
 その翌日、久一を見送りに行く途中、次の会話があります。
「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と那美さんが注文する。[…]
「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、[…。]
「こんな一筆がきではいけません。もっと私の気象の出る様に、丁寧にかいて下さい」
「わたしもかきたいのだが、どうも、あなたの顔は夫れ丈じや画にならない」
 最終の第十三章には簡潔に作家の言わんとすることがまとめられています。その一つである日露戦争への出征見送りという当時の社会描写の中に、漱石の反戦思想を読み取られたのは慧眼だと思いました。(つづく)

2013年8月15日木曜日

敗戦の日 (Anniversary of the End of World War II)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭は、いまモミジアオイが花盛り。左端の花は直射日光を受けていて白っぽく写った。中央上部の花は、昨日咲いて萎れた花とくっつきあっていたので、花弁が一部虫食に食われた。二階から撮影。(本文には無関係)
In my yard, scarlet rose mallow is now at its best time of flowering. The flower at the lefttmost looks whitish because of the direct sunlight. One of the petals of the flower at the upper center was eaten by some insect because a wilted flower in bloom yesterday was sticking to it. The photo was taken from the second floor. (Not related to the main text.)

 きょうは敗戦の日。昨日、ブログ「平和の浜辺:福泉・鳳地域『憲法9条の会』」に掲載した記事を以下に転載する。


堀越二郎の敗戦当日の日記

 宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』は、堀辰雄の小説『風立ちぬ』からの着想も盛り込みながら、航空技術者・堀越二郎(1903–1982)をモデルに、その半生を描いている。その堀越の敗戦当日の日記が、永六輔さん監修の本『八月十五日の日記』(講談社、1995)にあるとして、8月13日付け『しんぶん赤旗』の「まど」欄が紹介していた。

 日記は次の通り。
 日本が、否日本の軍部とそれと結ぶ政治家が、外交で平和的に打開することをせず、武力に訴える所まで短気をおこしたのが、戦争の原因ではなかったか。日本に壊滅をもたらした政策を指導して来た者が全部去らなければ、腐敗の種は残る。「誠実にして叡智(えいち)ある、愛国の政治家出でよ」これが願いである。
 「まど」子は、「いまの三菱重工で兵器の開発に携わった人物ですが、日本が無謀な戦争に突入していった本質を突いています」と評している。

 いま安倍政権が、集団的自衛権の行使を可能にして、日本を、アメリカとともに海外で戦争の出来る国にしようとしているのは、再び「外交で平和的に打開することをせず、武力に訴える所まで短気をおこ」そうとしているとしか思えない。私たちは、そのような政治の流れを、うかうかと見過ごしていてはいけない。


2013年8月13日火曜日

京都で (In Kyoto)

[Abstract] On August 6, I went to Kyoto to meet Ms. C and her family, who are visiting Japan from Sweden. I arrived a little earlier than the time of appointment and walked in the precincts Chion Temple and along the street where the boarding house of my student days was located (see the photos above). Unfortunately, the cafe Shinshindo, where we planned to meet, was temporarily closed, but we were able to have a pleasant time at the cafe restaurant Camphora in the campus of Kyoto University. (Main text is given in Japanese only.)

 8 月 6 日、スウェーデンから来日中の C さん一家と京大北門近くの進々堂で 15 時半に会う約束をした。午前中に地域九条の会の宣伝署名行動に参加することになっていたので、その時間に間に合うかどうか危ういところだったが、十分早く切り上げさせて貰い、また、マイク宣伝を一緒にした仲間の一人に家の近くまで車で送って貰ったお陰で、12 時半に家を出て京都へ向かうことが出来た。阪急電車京都線で四条へ着いたのは14 時半頃だったが、百万遍方面へのバスがなかなか来なかったので、百万遍到着は 15 時 10 分頃。想定したように家を 13 時に出発しておれば、約束の時間に後れた計算になる。

 約束の時間までに余裕があったので、学生時代その付近に住んでいたときには、足を踏み入れたことが一度あったかどうかという程度である百万遍智恩寺の横からその境内へ入り、写真を何枚か撮って、正面から出た(1 枚目の写真はそのうちの一枚)。なお時間があったので、かつて下宿していた家を見に行った(2 枚目の写真、右手前の家)。周辺の家がほとんど建て替えられてしまった中で、その家は昔のままだった。ただし、生け垣が板塀と車の出入り口に変り、二階の壁面や窓も変っている。写真でははっきりとは見えないが、玄関脇の木の表札は私が下宿していた当時、小学校低学年だった息子さんの名になり、それもかなり古びている。下宿をしていたのは 50 余年も前のことだから無理もない。

 進々堂へ約束の 5 分前に行くと、あいにく 8 月 4〜6 日は臨時休業との貼り紙がしてある。そこで、間もなく到着した C さん一家と京大時計台記念館内のレストランへ向かったが、ここも休み。結局落ち着いたのは正門脇のカフェレストラン「カンフォーラ」。C 氏は数年前に京大に留学していたので、昔ここで学んだ私よりも現在の京大構内について詳しく、ここへは彼に案内して貰った次第だ。「カンフォーラ」の名は京大のシンボル「楠」の学名 Cinnamomum camphora から来ていると、いまインターネットで知った。

 C さん一家の構成員は夫妻と 6 歳の D 君、そして私は今回始めて相まみえた 1 歳 2ヵ月の L ちゃんである。D 君はカフェのテーブルに 3 種類の車を組み立てることの出来るレゴのセットを持ち出して遊び、夫妻は優しく組み立て方を指導していた。L ちゃんは、前半、夫人に抱かれて眠っていたが、後半目覚めて、愛らしい笑顔を見せていた。C 氏は、日本の環境問題と取り組む運動体とそれらの反原発運動とのかかわりについて 4 年計画で研究するそうだ。私たちは 17 時過ぎまで、カフェで楽しいひと時を持った。

 帰宅後、日本の環境問題研究の権威者に宮本憲一・大阪市大名誉教授がおられ、最近も『しんぶん赤旗』あたりで名前を見たことを思い出し、翌日、フェイスブックのメッセージ欄で C 氏にそのことを述べて、目下の研究期間中に宮本先生の話を聞きに行ってはどうかと勧めておいた。

 私の幼友だちの故 Y・A さんは、若い頃の宮本先生に金沢大学で習い、彼を尊敬していたので、もうかなりの年配かと思っていたが、『ウィキペディア』で調べると、私よりわずか 5 歳だけ年長だった。そして、宮本先生の名前を最近見たのは、さる 5 月に行なわれた「九条の会・おおさか」講演会(作家の赤川次郎氏が講演)についての『しんぶん赤旗』の記事と、赤川氏自身が同じ講演会にふれた『図書』誌 7月号のエッセイだったことを、京都へ行った三日後になってようやく思い出した。宮本先生は「九条の会・おおさか」の呼びかけ人の一人として、いまも元気でご活躍のようである。

2013年8月11日日曜日

オリバー・ストーン監督「日本は道徳的な大国になっていない」と語る ("Japan Has Not Become the Moral Superpower," Says Director Stone)

[This post is in Japanese only.]


 私は最近、ブログ「平和の浜辺:福泉・鳳地域『憲法9条の会』」に、表記のオリバー・ストーン監督の言葉と、それに関連する日本政府の姿勢について述べている、作家・赤川次郎さんのエッセイと田上市長の「長崎平和宣言」を、それぞれ紹介した三つの記事を書いた。ここに、その三編をまとめて再録する。


「日本は道徳的な大国になっていない」:米映画監督オリバー・ストーン氏が指摘
2013 年 8 月 7 日

 米映画監督のオリバー・ストーン氏とアメリカン大学教授のピーター・カズニック氏は、8 月 6 日、原水爆禁止世界大会・ヒロシマデー集会で、「米国という帝国に、みんなが立ち上がる力になるプロジェクトを進めている」、「戦争を起こさせないために強くなり、たたかおう」と訴え、会場内から共感と連帯の拍手がわきあがった。8 月 7 日付け『しんぶん赤旗』が「原水爆禁止世界大会・広島:ストーン監督、被爆者と語る 戦争させない たたかいを」と題する記事で伝えている。

 カズニック氏が、ストーン氏と脚本を共同執筆したドキュメンタリー『もうひとつのアメリカ史』において、米国の戦後の軍事外交政策を正当化する「ウソ」を暴いたことなどを説明したこと、また、ストーン氏が「(戦後)ドイツは反省と謝罪の下で平和を守る国に変わったが、日本は米国の従属国のままで、経済大国だとしても道徳的な大国になっていない」と指摘したことなども、上記の記事は述べている。

 いま、国際政治の上での日本の道徳性を、かろうじて細い糸でつなぎ止めているものがあるとすれば、それは憲法9条の存在である。憲法9条を変えてしまえば、日本の道徳性は壊滅することになるだろう。そのような事態を招かないように、私たちは憲法9条をぜひ守り活かさなければならない。

 なお、『もうひとつのアメリカ史』(原題 The Untold History of the United States")の和訳は、「1 二つの世界大戦と原爆投下」(上掲のイメージは、同書のカバー)、「2 ケネディと世界存亡の危機」「3 帝国の緩やかな黄昏」の 3 巻として、2013 年に早川書房から発行されている。


国連勧告を無視する日本、戦争への道をひた走った姿そのまま:赤川次郎氏がエッセイで指摘
2013 年 8 月 9 日

 『図書』誌 2013 年 8 月号 p. 48〜50 の「人生の誤植」と題するエッセイで、赤川次郎さんは、若い頃に校正の仕事をしていたため、誤植を見つけるのが得意だという話から書き始めている。その中で注目すべきは、「本の誤植は訂正すれば済むが、『国家の誤植』は一旦誤れば莫大な犠牲を払わない限り訂正することはできない」とまとめている本論の部分である。

 その本論は、まず、「公の場での責任ある立場の人間の発言は、訂正して済むものではない」として、国連の拷問禁止委員会の席で上田大使が行なった非礼な「シャラップ!」発言、自民党の高市早苗議員の「原発事故で死者は出ていない」発言などを取り上げている。そして、「驚くのは、そのいずれも『反省』したり『撤回』したりすれば『なかったことになる』という日本でしか通用しない『常識』が、ジャーナリズムにまかり通っていることである」と指摘している。

 このエッセイが書かれたあとで出現した、麻生太郎副総理の「ナチスの手口に学べ」発言も、いま、その非常識な「常識」によって、なかったことにされようとしている。

 赤川さんは、さらに、次のように述べている。
国連は日本に冤罪の温床となる代用監獄の廃止などを何度も勧告して来た。死刑廃止に向けた取り組みも同様だが、日本はそのすべてを無視して来た。さらに国連は橋下市長の[慰安婦問題への]発言に対し、日本政府が反論することも求めたが、それにも「法的拘束力はない」から「従う義務はない」と決定した。[…]世界がどう言おうが、日本は日本のやり方を押し通すのだ、という姿勢は、戦前の国際連盟を一人脱退して戦争への道をひた走った軍国日本の姿そのままである。
これは、決して誇張でも、やぶにらみの意見でもなく、全くその通りの、危険な状況を直視した言葉だと思う。ここに述べられている日本の姿勢は、先に紹介した米映画監督、オリバー・ストーン氏の「日本は道徳的な大国になっていない」という言葉を裏書きする事実の一端でもある。


日本政府は被爆国の原点に返れ:長崎平和式典で田上市長が平和宣言
2013 年 8 月 10 日

 長崎が被爆から 68 年の原爆の日を迎えた 8 月 9 日、長崎市主催の平和式典が爆心地に近い平和公園で開かれ、田上富久長崎市長が「平和宣言」を発表した。その中で次のように、日本政府に対して被爆国としての原点に返るよう求めたことが注目される。
日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
 今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
 インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
 NPT に加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めた NPT を形骸化することになります。NPT を脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
 日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。
  非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。
 ここに指摘された日本政府の最近の姿勢も、まさに、既報のオリバー・ストーン監督の言葉にある「日本は道徳的な大国になっていない」という事実の一端である。「平和宣言」の全文はこちらでご覧になれる。

2013年8月8日木曜日

町内の「ふれあいまつり」 ("Friendship Festival" of Our Block)


 8 月 3 日の土曜日午後、次女一家がわが家へ来た。(最近は "Ted's Archives"「平和の浜辺:福泉・鳳地域『憲法9条の会』」のブログに力を入れているので、本ブログに日々の出来事を書くのが遅れがちである。)ちょうどその夕方、町内の「ふれあいまつり」が開催されたので、妻と私は二人の孫を連れて、それを覗きに行った。上の写真はそのときの様子で、1 枚目は、まつり会場の雰囲気、2 枚目は、町内会長さんが演じる手品に熱心に見入る子どもたち(左手前の女の子が幼い方の孫)。

In the afternoon of Saturday, August 3, my second daughter's family came to my house. Just that evening, "Friendship Festival" of our block was held. So, my wife and I went to see it with our grandchildren. Photos above are shots at that time. Top, the atmosphere of the festival site; and bottom, children eagerly looking at jugglery played by the block chairperson (the girl at the nearest left is our youngest grandchild).

2013年8月2日金曜日

映画『アーティスト』と『ライフ・イズ・ビューティフル』 (Movies The Artist and Life Is Beautiful)


[Abstract] On June 30, I saw two movies at Nishi Culture Hall (Westy) nearby. It was the event called "Koin de sinema" (Cinema with a coin). Films The Artist and Life is Beautiful were screened in the morning and afternoon, respectively. The fee was 500 yen for a single film and 800 yen for both. These are quite low prices to appreciate good films. My impression for each film is given briefly (and quite belatedly). (Main text is given in Japanese only.)

 さる 6 月 30 日に 2 本の映画を、近くのウェスティ(堺市立西文化会館)で見た(感想を書くのが 1ヵ月あまりも遅れてしまった)。「コインDEシネマ:世界の心を奮わせたアカデミー特集」という催しで、午前に『アーティスト』が、午後に『ライフ・イズ・ビューティフル』が上映され、一本だけ見るのならば 500 円、2 本では 800 円という低料金で、とてもよい作品を鑑賞することが出来た。

 『アーティスト』は、ミシェル・アザナヴィシウス監督による 2011 年のフランス映画で、第 64 回カンヌ国際映画祭でデュジャルダンが男優賞を、第 84 回アカデミー賞でも作品賞、監督賞、主演男優賞など 5 部門を受賞した、サイレント、白黒作品である。チラシの裏面には「甘く切ない、感動の愛の物語」とある。サイレント映画の大スター、ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)と新人女優ペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)が、惹かれ合っていたのは確かだが、映画界がサイレントからトーキーに移り変わる波に乗ってスターの座に駆け上がったペピーがジョージから受けた恩を忘れなかったことの方に私が好感を抱いたのは、年のせいだろうか。実生活では監督の妻であるベレニス・ベジョが愛らしかった。

 『ライフ・イズ・ビューティフル』は 1997 年のイタリア映画で、ロベルト・ベニーニが監督・脚本・主演の 3 役を兼ねている。ユダヤ系イタリア人のグイド(ロベルト・ベニーニ)が北イタリアの田舎町に来て、小学校教師のドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)と駆落ち同然で結婚するまでの前半は、騒がしい喜劇の様相だったが、息子を含めて一家 3 人が、ナチス・ドイツによって強制収容所に送られることになる後半は、ユーモアもあるものの、深く考えさせる重みがあった。