2013年8月17日土曜日

2013年7月分記事へのエム・ワイ君の感想 2 (M.Y's Comments on My Blog Posts of July 2013 -2-)

[This post is in Japanese only.]

2. 戦争だけはやっちゃダメ:いまよく読まれているブログ記事「96 歳の遺言」
 この記事は、2013 年 7 月 27 日付けで、ブログサイト『平和の浜辺:福泉・鳳地域「憲法9条の会」』に掲載したものだが、できるだけ多くの人たちに読んで貰いたいので、ここに転載する。
 いま満 96 歳、目は見えないし、耳もひどく遠いけれど、アパートで一人暮らしをしている女性「おけいさん」が、たまたま病院で「八十歳代万歳!」というブログの著者「hisako-baaba さん」と友だちになった。そして、おけいさんは hisako-baaba さんに、戦争で苦しんだ時期を中心に身の上話を語り、hisako-baaba さんはそれをていねいに記録して、「96 歳の遺言——おけいさんから聞き書きした話」というブログ記事が出来上がった。[…]掲載直後からたいへん多くのアクセスがあり、「96 歳の遺言」あとがきによれば、3 日の間に 5000 人ほどの人が読みに来たそうだ。また、電子絵本にするという話も持ち上がっている。
 「96歳の遺言」
私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」という遺言です。
たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっとひどくなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。
という前置きで始まっている。戦争を記憶する人たちが減って行く中で、戦争体験のない人たちにぜひ知ってもらいたい貴重な話である。多くの方々が読み、活用されることを期待している。
筆者は以上のように述べ、「96歳の遺言状」にリンクし、紹介しています。

 筆者が hisako-baaba さんこと中谷久子さんと知り合ったきっかけについては、本ブログ 7 月 1 日付けの「五色の子守歌」に述べられています。筆者は、そこに引用している過去の記事に書いたのと同じ子守歌についての記事「私だけの子守唄」(2006 年 2 月 15 日付け)を『七十代万歳!』(現『八十代万歳!』)というブログサイトに見つけ、コメントを記しました。そのブログの著者・中谷久子さんから、筆者の 6月 29 日付けブログ記事のコメント欄に、次の挨拶がありました。
 はじめまして。埼玉で語り手をしています中谷久子と申します。
 実は、5 年前にブログ「八十代万歳」の古い記事に、コメントを頂いていましたのに、昨日まで気付かなかったことを、記事に書きましたら、お仲間がこちらのブログを教えてくださいました。
 遅まきながら、5 年前のコメントにお礼申し上げます。
 同じ歌詞の子守唄を聞いて育った方を、初めて知りました。私は昭和 6 年生まれです。英語は存じませんが、素敵な旅の画像を楽しませていただきます。
 今後とも宜しくどうぞ。(2013 年 6 月 30 日 6:17)
 筆者は、下記の返事を書きました。
 Nakatani さんは、美しい花の写真とともに、よい記事を精力的に「八十代万歳」のブログに書き綴っていらっしゃいますね。私も、これからときどきお邪魔したいと存じます。よろしくお願いいたします。近日中に、「五色の子守唄」について私が消滅したブログ記事に書きましたことなどを、お知らせ出来るようにしたいと思っています。(2013年6月30日 20:36)
この約束にしたがって、筆者は 7 月 1 日付けの「五色の子守歌」をまとめたものと思われます。ここには、朝日新聞に以前、子守歌のルーツを知りたいという、ある婦人の投稿があり、それに対して筆者が、「その歌は私の母もよく歌ってくれた」という投稿をした(1990 年 5 月~6 月)こと、上記の中谷さんのブログサイトを今回訪れてみると、「5 年前に見落としたコメントが——五色の子守唄」という記事があり、中谷さんはこの記事の中で、2006 年の記事への c ちゃんさんという方からのコメントで子守歌の題名が分ったと書いておられたこと、などが記されています。

 おけいさんの記憶は、いまもなおしっかりしていて、生い立ちから関東大震災被災の状況、戦地で罹った酷いマラリアがもとで、32 歳の若い夫を亡くし、2人の子供と敗戦後の苦難の時期を乗り越えて現在に至った語りの内容については、幼少ながら当時を知る私には、類似の見聞や経験などに照らし、よく理解することができました。昭和 20 (1945) 年 4 月夜の豊島区大空襲については、「焼夷弾は一個のさやの中に 38 発も入っていて、38 倍にはじけとんで、燃えながら落ちてくる」と臨場感豊かな描写があり、映像では見ていましたが、降るように落ちてくる理由を初めて知りました。

 ただ、夫君が昭和 12 (1937) 年 7 月の支那事変(日中戦争)で応召し、中国で戦い酷いマラリアに罹って 3 年くらいで帰還したという件は、不思議に思いました。太平洋戦争の南方戦線で戦後復員した人には、マラリアに罹って同じような発作で苦しんでいた人が多かったことは知っていますが、キニーネという特効薬があり、そのうち回復していました。

 疑問点は、先ず、昭和 15 (1940) 年にマラリアに罹りそうな中国戦線はどこだったのか、ということです。昭和 15 年 2 月に南支方面軍が編成されたことのことです。蒋介石ルート(米、英国やソ連が蒋介石を支援するための物資を輸送するビルマなどを起点とする複数ルート)に沿った輸送阻止作戦にも絡んでいたのかも知れませんが、当時の中国戦線は拡大してしまい、風土病にたいする予防特効薬を供給できない状態だったのでしょうか。国民が思っている以上に戦線が混乱状態に陥っていたのかも知れません。

 次に、最前線の要所には野戦病院が、また、拠点には立派な陸軍病院があったでしょうから、先ずここで治療を行い得たのではないかと思います。私自身上海(中支)に住んでおり、昭和 18 (1943) 年国民学校 2 年生の時に上海の陸軍病院に学校から慰問に行き、傷病兵病棟に入り、兵士たちが従軍看護婦などに手厚い看護を受けている様子をつぶさに見たことを記憶しています。これから太平洋戦争を仕掛けようとする陸軍の、当時のマラリア対応能力がこの程度のものだったのかと驚くと同時に、病気のまま除隊させ家族を困らせるということは、戦意高揚の時代にそぐわないことだと思いました。

 しかしながら、廃兵問題は当時でも、社会から隠ぺいしたい恥部だったのでしょう。そしてまた、この話は日本陸軍の、兵士の人命軽視の一端をうかがわせるものと思います。

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