昨 8 月 24 日、各地で雨が降り、大阪市では 1942 年の 16 日連続の記録を
更新していた猛暑日が 17 日で止まった。25 日も雨。
On August 24, it rained in many places. In Osaka City, the record of continuation of "extremely hot days" on which the temperature rose above 35 degrees Celsius came to end at the 17th, just above the record of 16 consecutive days in 1942. It rained also on the 25th.
「初心忘るべからず」
「初心忘るべからず」という言葉をよく聞く。父の観阿弥とともに猿楽(現在の能)を大成した世阿弥が著書『花鏡』(かきょう)の中に、芸の奥義として書いている言葉である。しかし、私は、この言葉のあとに、「時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」と続くことを、最近まで不勉強で知らなかった。
「老後の初心忘るべからず」までを含めて引用してあったのは、夏目漱石の『道草』についての、小宮豊隆による解説(新書版『漱石全集』第 13 巻、1957)である。小宮は世阿弥のこの言葉を次のように説明している。
漱石が自らの幼児、少年、青年、大人の各時代の体験をよく記憶していて、自伝的作品『道草』の中に細かに記していることを評して、小宮は「初心」の上記の解釈を次のように使っている。
ところで、漱石ほど世阿弥の忠告に従うことが出来ていない私などの「初心」の記憶は、どの程度のものであろうか。友人たちから「昔のことをよく覚えているな」といわれたりする。しかし、その内容は教訓にもならない些事である場合が多い。つまり、私の記憶している体験の多くは、「自らのそれに対する心構え」が含まれていない、単なる思い出であり、「初心」に相当しない。
最近、高校 1 年のときの親友との交換日記をブログ Ted's Archives に連載しているが、その中には「こんなことがあったのを、すっかり忘れていた」と思うような記述がぞくぞくと出て来る。漱石の体験の記憶も、記憶力のよさ以外に、日記に助けられていたところも多いのではないだろうか。いま、パソコンの普及によって、利用できる記憶媒体は、日記帳と頭だけの時代とは比べ物にならないほど便利になった。しかし、私たちはそれを「初心」を忘れないために、うまく利用出来ているだろうか。
なお、『道草』の読後感を若干付言するならば、次のことが挙げられる。漱石の他の小説のように魅力的な女性が登場するのでもないにもかかわらず、文豪の自伝的作品ということで興味が尽きなかったし、自らの心境の分析が冷徹であることに感心した。そして、主人公が作家であっても、大学で教鞭を取っている時期が多く記されているので、その生活ぶりは、私のような理系の職業についていたものと意外によく似ていると思った。
「初心忘るべからず」という言葉をよく聞く。父の観阿弥とともに猿楽(現在の能)を大成した世阿弥が著書『花鏡』(かきょう)の中に、芸の奥義として書いている言葉である。しかし、私は、この言葉のあとに、「時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」と続くことを、最近まで不勉強で知らなかった。
「老後の初心忘るべからず」までを含めて引用してあったのは、夏目漱石の『道草』についての、小宮豊隆による解説(新書版『漱石全集』第 13 巻、1957)である。小宮は世阿弥のこの言葉を次のように説明している。
初心とは初めての自分の体験であり、時々の初心とは、例えば十歳の年、二十歳の年、三十歳の年などに始めて体験する自分の体験である。その初心を忘れてはいけない、その初心を忘れるということは、事実上後心をも忘れるということに外ならないから、初心を始め、時々の初心、老後の初心までも、全部忘れないようにするのでなければ、役者の芸は、決して上達するものではないというのである。(注:引用に当たって、原文の旧仮名遣いを新仮名遣いに、傍点を下線に替えた。)「初心忘るべからず」は、普通、「学び始めた当時の気持を忘れてはいけない」(たとえば『広辞苑』)と解釈されているが、小宮は「初心」を「初めての体験」と解釈している。「始めた当時の気持」では、「時々の初心」、そして「老後の初心」へとつながり発展する内容として不足であることを考えれば、「初心」はこのように解釈するのが妥当であろう。(そこで、『故事ことわざ辞典』の「初心忘るべからず」の項に "Don't forget your first resolution." という英訳があったが、本記事の英語題名では、resolution を experience に替えた。)
漱石が自らの幼児、少年、青年、大人の各時代の体験をよく記憶していて、自伝的作品『道草』の中に細かに記していることを評して、小宮は「初心」の上記の解釈を次のように使っている。
これは世阿弥の時々の初心を忘れるなという忠告に、見事に沿うたものである。しかも漱石は、ただ時々の初心を忘れなかったというだけではなく、折にふれてそれらの初心をとり出して検討し、そのどれが正しく、そのどれが正しくなかったかを批判しつつ、自分の後心を訂正したり進展させたりして行っている。「初心」の「どれが正しく、そのどれが正しくなかったかを批判し」という小宮の使い方を見ると、「初めての体験」という解釈においての「体験」は、受動的な出来事としての体験ではなく、心構えを持って事に当たった能動的なものという解釈であることが分る。したがって、小宮の「初心」の解釈を詳しくいえば、「自らのそれに対する心構えを含めた、新しい体験」ということになるだろう。逆に、普通の解釈をもとにして、「新しく事に当たった気持に、そのとき会得した体験を加えたもの」ともいえよう。
ところで、漱石ほど世阿弥の忠告に従うことが出来ていない私などの「初心」の記憶は、どの程度のものであろうか。友人たちから「昔のことをよく覚えているな」といわれたりする。しかし、その内容は教訓にもならない些事である場合が多い。つまり、私の記憶している体験の多くは、「自らのそれに対する心構え」が含まれていない、単なる思い出であり、「初心」に相当しない。
最近、高校 1 年のときの親友との交換日記をブログ Ted's Archives に連載しているが、その中には「こんなことがあったのを、すっかり忘れていた」と思うような記述がぞくぞくと出て来る。漱石の体験の記憶も、記憶力のよさ以外に、日記に助けられていたところも多いのではないだろうか。いま、パソコンの普及によって、利用できる記憶媒体は、日記帳と頭だけの時代とは比べ物にならないほど便利になった。しかし、私たちはそれを「初心」を忘れないために、うまく利用出来ているだろうか。
なお、『道草』の読後感を若干付言するならば、次のことが挙げられる。漱石の他の小説のように魅力的な女性が登場するのでもないにもかかわらず、文豪の自伝的作品ということで興味が尽きなかったし、自らの心境の分析が冷徹であることに感心した。そして、主人公が作家であっても、大学で教鞭を取っている時期が多く記されているので、その生活ぶりは、私のような理系の職業についていたものと意外によく似ていると思った。
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