2013年9月15日日曜日

2013年8月分記事へのエム・ワイ君の感想 2 (M.Y's Comments on My Blog Posts of August 2013 -2-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


ヤブラン。2013 年 9 月 13 日、わが家の庭で撮影。
Liriope. The photo was taken in my yard on September 13, 2013.

3.「集団的自衛権」の問題
 […冒頭のパラグラフ省略…]
 「集団的自衛権」は、1945 年に署名・発効した国際連合(国連)憲章の第 51 条において初めて明文化された権利である。国連は、第 1 次世界大戦後にできた国際連盟の「集団安全保障」の仕組みの不徹底を改め、本格的な「集団安全保障」体制を確立することを目指して、第 2 次世界大戦後に発足した。具体的には、国連憲章で個々の加盟国に対して武力による威嚇・武力の行使を禁止し、侵略発生時には、安全保障理事会が制裁措置を決定し、そのもとに各国が行動することになっている。
 ところが、戦後、世界の覇権を狙っていた米国は、国連の統制を受けないで軍事行動をとることができるように、「集団的自衛権」を発案し、ソ連(当時)も賛成して、国連憲章に上記の第 51 条が盛り込まれた。その結果、戦前をはるかに上回る規模で、軍事同盟の網の目が世界に張りめぐらされ、多くの国が「集団的自衛権」を口実に、米ソ両国が引き起こした侵略的戦争に動員されることになった。これは国連がめざす「集団安全保障」に真っ向から反する状況である。
 安倍政権は、国連の正しいあり方よりも、米国との軍事同盟である日米安全保障条約を尊重して、米国の求めるままに、日本の軍隊が海外で戦争できるようにすることを目指しているのである。なんと浅はかな考えではないか。
 […以下略…]
 わが国で「集団的自衛権」を考えるとき、国際連合は、国際連盟の「集団安全保障」の仕組みの不徹底を改め、本格な「集団安全保障」体制を確立することを目指して発足したという認識を広めることが大切です。筆者は本ブログに 7 月 19 日付けで「改憲論に抗して思う」と題した記事の、「トルストイの作品に見る憲法9条の精神」の項に「外交によって解決されぬ問題が、火薬と血で解決される可能性はさらに少ない。これはまさに、憲法9条の精神である。先哲の教えを重んじることなく、集団的自衛権の行使を認め、憲法9条を変えて、軍事対抗主義に走ろうとする政治家たちがいることは、実に情けない状況といわなければならない」とも述べていました。

 私は最近、半藤一利氏が集団的自衛の行使に反対して、外交交渉の重要さを説き、わが国は国際連盟脱退以降、外交交渉をすることがなくなったことを指摘している NHK テレビ番組を見ました(8 月 15 日 pm 7:30~、NHK シリーズ 日本新生:戦後68年 "いまニッポンの平和を考える")。

4. 敗戦の日:堀越二郎の敗戦当日の日記
 宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』は、堀辰雄の小説『風立ちぬ』からの着想も盛り込みながら、航空技術者・堀越二郎(1903–1982)をモデルに、その半生を描いている。その堀越の敗戦当日の日記が、永六輔さん監修の本『八月十五日の日記』にあるとして、8月13日付け『しんぶん赤旗』の「まど」欄が紹介していた。日記は次の通り。
 日本が、否日本の軍部とそれと結ぶ政治家が、外交で平和的に打開することをせず、武力に訴える所まで短気をおこしたのが、戦争の原因ではなかったか。日本に壊滅をもたらした政策を指導して来た者が全部去らなければ、腐敗の種は残る。「誠実にして叡智ある、愛国の政治家出でよ」これが願いである。
 […略…]いま安倍政権が、集団的自衛権の行使を可能にして、日本を、アメリカとともに海外で戦争の出来る国にしようとしているのは、再び「外交で平和的に打開することをせず、武力に訴える所まで短気をおこ」そうとしているとしか思えない。私たちは、そのような政治の流れを、うかうかと見過ごしていてはいけない。
5. オリバー・ストーン監督「日本は道徳的な大国になっていない」と語る
 最近[別のブログに]、表記のオリバー・ストーン監督の言葉と、それに関連する日本政府の姿勢について述べている、作家・赤川次郎さんのエッセイと田上市長の「長崎平和宣言」を、それぞれ紹介した三つの記事を書いた。ここに、その三編をまとめて再録する。

「日本は道徳的な大国になっていない」
 米映画監督のオリバー・ストーン氏とアメリカン大学教授のピーター・カズニック氏は、8 月 6 日、原水爆禁止世界大会・ヒロシマデー集会で、「米国という帝国に、みんなが立ち上がる力になるプロジェクトを進めている」、「戦争を起こさせないために強くなり、たたかおう」と訴え、会場内から共感と連帯の拍手がわきあがった。8 月 7 日付け『しんぶん赤旗』が「原水爆禁止世界大会・広島:ストーン監督、被爆者と語る 戦争させない たたかいを」と題する記事で伝えている。
 […略…]ストーン氏が「(戦後)ドイツは反省と謝罪の下で平和を守る国に変わったが、日本は米国の従属国のままで、経済大国だとしても道徳的な大国になっていない」と指摘したことなども、上記の記事は述べている。
 いま、国際政治の上での日本の道徳性を、かろうじて細い糸でつなぎ止めているものがあるとすれば、それは憲法9条の存在である。憲法9条を変えてしまえば、日本の道徳性は壊滅することになるだろう。そのような事態を招かないように、私たちは憲法9条をぜひ守り活かさなければならない。

「国連勧告を無視する日本、戦争への道をひた走った姿そのまま」赤川次郎氏
 『図書』誌 2013 年 8 月号 の「人生の誤植」と題するエッセイで、赤川次郎さんは、若い頃に校正の仕事をしていたため、誤植を見つけるのが得意だという話から書き始めている。その中で注目すべきは、「本の誤植は訂正すれば済むが、『国家の誤植』は一旦誤れば莫大な犠牲を払わない限り訂正することはできない」とまとめている本論の部分である。
 その本論は、まず、「公の場での責任ある立場の人間の発言は、訂正して済むものではない」として、[…中略…]「驚くのは、そのいずれも『反省』したり『撤回』したりすれば『なかったことになる』という日本でしか通用しない『常識』が、ジャーナリズムにまかり通っていることである」と指摘している。
 このエッセイが書かれたあとで出現した、麻生太郎副総理の「ナチスの手口に学べ」発言も、いま、その非常識な「常識」によって、なかったことにされようとしている。赤川さんは、さらに、次のように述べている。
 国連は日本に冤罪の温床となる代用監獄の廃止などを何度も勧告して来た。…日本はそのすべてを無視して来た。さらに国連は橋下市長の[慰安婦問題への]発言に対し、日本政府が反論することも求めたが、それにも「法的拘束力はない」から「従う義務はない」と決定した。[…]世界がどう言おうが、日本は日本のやり方を押し通すのだ、という姿勢は、戦前の国際連盟を一人脱退して戦争への道をひた走った軍国日本の姿そのままである。
これは、決して誇張でも、やぶにらみの意見でもなく、全くその通りの、危険な状況を直視した言葉だと思う。ここに述べられている日本の姿勢は、先に紹介した米映画監督、オリバー・ストーン氏の「日本は道徳的な大国になっていない」という言葉を裏書きする事実の一端でもある。

田上長崎市長「日本政府は被爆国の原点に返れ」
 長崎が被爆から 68 年の原爆の日を迎えた 8 月 9 日、長崎市主催の平和式典が爆心地に近い平和公園で開かれ、田上富久長崎市長が「平和宣言」を発表した。その中で次のように、日本政府に対して被爆国としての原点に返るよう求めたことが注目される。
 日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
 インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
 […略…]
 日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。
 非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。
 ここに指摘された日本政府の最近の姿勢も、まさに、オリバー・ストーン監督の言葉にある「日本は道徳的な大国になっていない」という事実の一端である。
 私もテレビの実況放送を聞いていて、田上市長の「核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります」という分りやすい非難は、時宜と場所柄を得た発言であると感銘を受けました。[完]

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