『蛙と牛若丸』(1943 年、8 歳)国語教科書の挿絵の模写。
"Frogs and Ushiwakamaru," drawn after pictures in the textbook of national language (1943, age 8).
『鍾馗(しょうき、中国に伝わる魔除けの神)』(1945 年 5 月、10 歳)端午の節句に飾る小型の「のぼり」から模写。
"Zhong Kui (a figure of Chinese mythology)," drawn after a picture on a decoration flag for Children's Festival (May 1945, age 10).
1 枚目の絵は、小学校 2 年生の時に、わが家へ来た友人と絵を描き合って遊んだ折に、国語教科書の二つの話の挿絵を、あわせて一枚のわら半紙(ほぼ A4 サイズ)に模写したものである。私はこのように、外で遊ぶよりも家の中で遊ぶことの多い子供だった。この時の友人が誰で、その友人が何を描いたかは覚えていない。当時の国語教科書については、『小さな資料室』というウェブサイトに紹介があり、その中の「資料 144」のページに、国民学校国語教科書『よみかた 三』(2 年前期用、文部省、昭和 16 年 3 月 7 日発行・昭和 16 年 3 月 25 日翻刻発行)の内容が掲載されている。その教科書の第六課に「牛わか丸」、第八課に「蛙」がある。「蛙」は『イソップ物語』中の「蛙と牛」の話から取られたものである。
2 枚目の絵も、ほぼ A4 サイズのわら半紙に描いたもので、黒と灰色の部分は珍しく墨を使い、習字用の筆で描いている。裏面には「昭和二十(1945)年五月六日」の日付けがある。私はその前年の 4 月に父を亡くし、9 月初めに母と大連の祖父母の家へ引っ越した。その際に、兄が亡くなった小学校 3 年生の初めまでの間に描き残した絵など、家にあった思い出の品の多くを処分してしまったが、私自身の絵を少数ながら大連まで持って行ったのは、母が兄の絵をかなり長らく保存していたことに習ったのかも知れない。模写した『鍾馗』の絵の手本は、端午の節句の飾りの中にあった小型の「のぼり」に描かれていたものである。その飾りは、祖父母の家に私たちより早くから同居していた伯母(母と同じく、夫を亡くしていた)が、それより何カ月か前に海軍飛行予科練習生(「予科練」の略称で知られる)として徴集された従兄の安全を祈って、例年通りに飾ったのだった(従兄は無事に終戦を迎え、私たちが引き揚げるより先に親の出身地へ戻っていた)。
ここまでに紹介した私の子供時代の絵は、模写ばかりである。学校では写生をしたものの、それらの作品は返して貰えなかったのだ。記憶にある小学校低学年での写生は、七尾の小円山公園でのものと、同じく七尾の小学校校庭でのものである。前者はうす紅色に広がる満開の桜の花の様子を、そして後者は青色に塗られた肋木(ろくぼく)を中心付近に描いたものだったことが、いまでも、おぼろげながら思い出される。
校庭での写生については、次のような思い出もある。肋木の下には、何人かの同級の女児が写生をしていたので、それを簡単に絵に描きこんだ。その中に、やや目立つ深緋の服を着た女子がいた。その頃よくそういう色の上着で登校していたのは、小柄で愛らしい顔ながら勝気なところのある N さんだった。教室に張り出された私の絵を見た男子同級生の一人が、「これは N さんか」と聞いたので、私は「そうらしい」と答えた。すると、その同級生は私の絵に N さんが描いてあると、盛んにいいふらした。その結果、私は N さんから、「あの日、私はこんなところにいなかったわよ。いい加減なことをいわないでちょうだい」とやり込められ、返す言葉もなかった。
なお、大連へ引っ越して間もなく、私は従兄に連れられて、転入したばかりの小学校のレンガ造りの校舎を俯瞰できる小高い山へ連れて行って貰い、そこで A5 サイズ程度の用紙に、小学校を中心にしたスケッチをした記憶もある。また、七尾の小学校の図画の時間の課題では、見たものを記憶で描く種類のものもあった。青柏祭に曳き廻される日本一大きな山車「でか山」や、和倉への遠足を描いたのがそうした課題であった。私のそれらの絵にも、逸話的な思い出があるが、長くなるので割愛する。(つづく)
2 枚目の絵も、ほぼ A4 サイズのわら半紙に描いたもので、黒と灰色の部分は珍しく墨を使い、習字用の筆で描いている。裏面には「昭和二十(1945)年五月六日」の日付けがある。私はその前年の 4 月に父を亡くし、9 月初めに母と大連の祖父母の家へ引っ越した。その際に、兄が亡くなった小学校 3 年生の初めまでの間に描き残した絵など、家にあった思い出の品の多くを処分してしまったが、私自身の絵を少数ながら大連まで持って行ったのは、母が兄の絵をかなり長らく保存していたことに習ったのかも知れない。模写した『鍾馗』の絵の手本は、端午の節句の飾りの中にあった小型の「のぼり」に描かれていたものである。その飾りは、祖父母の家に私たちより早くから同居していた伯母(母と同じく、夫を亡くしていた)が、それより何カ月か前に海軍飛行予科練習生(「予科練」の略称で知られる)として徴集された従兄の安全を祈って、例年通りに飾ったのだった(従兄は無事に終戦を迎え、私たちが引き揚げるより先に親の出身地へ戻っていた)。
ここまでに紹介した私の子供時代の絵は、模写ばかりである。学校では写生をしたものの、それらの作品は返して貰えなかったのだ。記憶にある小学校低学年での写生は、七尾の小円山公園でのものと、同じく七尾の小学校校庭でのものである。前者はうす紅色に広がる満開の桜の花の様子を、そして後者は青色に塗られた肋木(ろくぼく)を中心付近に描いたものだったことが、いまでも、おぼろげながら思い出される。
校庭での写生については、次のような思い出もある。肋木の下には、何人かの同級の女児が写生をしていたので、それを簡単に絵に描きこんだ。その中に、やや目立つ深緋の服を着た女子がいた。その頃よくそういう色の上着で登校していたのは、小柄で愛らしい顔ながら勝気なところのある N さんだった。教室に張り出された私の絵を見た男子同級生の一人が、「これは N さんか」と聞いたので、私は「そうらしい」と答えた。すると、その同級生は私の絵に N さんが描いてあると、盛んにいいふらした。その結果、私は N さんから、「あの日、私はこんなところにいなかったわよ。いい加減なことをいわないでちょうだい」とやり込められ、返す言葉もなかった。
なお、大連へ引っ越して間もなく、私は従兄に連れられて、転入したばかりの小学校のレンガ造りの校舎を俯瞰できる小高い山へ連れて行って貰い、そこで A5 サイズ程度の用紙に、小学校を中心にしたスケッチをした記憶もある。また、七尾の小学校の図画の時間の課題では、見たものを記憶で描く種類のものもあった。青柏祭に曳き廻される日本一大きな山車「でか山」や、和倉への遠足を描いたのがそうした課題であった。私のそれらの絵にも、逸話的な思い出があるが、長くなるので割愛する。(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿