大連嶺前小学校同窓会会報「嶺前」第21号に掲載の文と挿絵を引用する。挿絵は旧電車道の方から見た嶺前小学校。T・I さん(同小学校昭和21年卒)が、1987年5月に撮影された写真を参考に描いたもの。
先日、高校生時代の日記を見ていたところ、嶺前小学校の頃の思い出に触れたところがあった。終戦後の国語の代用教科書のことや、戦争中に「軍人勅諭」を暗記しなければならなかったことなどが書いてある。小学校5年生用に徳富蘆花の『自然と人生』の一節があったとは、ずいぶん高尚な代用教科書を与えられたものだ。「軍人勅諭」暗記の思い出は、いま憲法を変えようとする動きのある中で、そのような教育が再びなされてはならないとの思いを強くさせる。
以下に、その日記をそのまま引用して紹介する。高校2年生になったばかりの日のものである。
1952年4月1日(火)曇り時どき雨
「木の下は落花と紅蕚と点々として影と共に地に貼せり。白き鶏一羽身に斑々たる若葉の影を帯びつゝ落花を啄ばむ。」と読んできて、ふっと、どこかで読んだ文章だ!と思った。読み返してみた。そして、これを最初に読んだ本――薄っぺらな印刷物という方がよいほどのものだったが、終戦後(1946年、5年生になってからだと思う)嶺前小学校で習った国語の教科書だ――をかなりの明りょうさで思い出すことが出来た。
あれが徳富蘆花の『自然と人生』の中の「湘南雑筆」中にある「新樹」の一節だったのかと、もう一度読み返すと、妙に強く印象に残っている白くてよい紙質だった代用教科書の一ページが、そして一冊全部が、またそれにまつわる思い出が、懐かしく湧いてくる。あの教科書の最初の課は、少年野球大会の観戦記的な文章だった。そこを習ったのは、南部地区代表の嶺前小チームが優勝校霜藤に2対1で敗れ、全能の神と信じていたものが全能でなかったことを知ったときのように、がっかりもし、残念にも思ったすぐあとだった。しかし、その代用教科書の文中で優勝する学校に嶺前小そっくりのところがあったのは愉快だった。
代用教科書にはほかにどんな文があっただろうか。「リズム」というのがあったようだ。難しい漢字のたくさんあったのはアムンゼンの探検の物語だったと覚えている。この課は、嶺前小の南側の校舎を中国の保安隊に接収され、北側の寒い教室で2クラスが一緒になってひしめいていたことや、運動場の旋回壕の底に厚い氷がはっていたことなどの思い出とともに記憶に浮上する。
思い出は戦争中にさかのぼる。5項目からなる「軍人勅諭」の、各項目に付属する長い文を覚えなければならなかったものだ。どうとかすれば、でくのぼうである、とか、烏合の衆である、というようなところがあったことだけを覚えている。その頃のある日、日の出と日の入りの時間を調べるという算数の宿題を出され、早起きして旗山の見えるところへ行った。周囲は白っぽく、日が昇るまでいくらか時間があった。
あたりが少しずつ黄ばんで活気づいてくる新鮮な空気の中で待つ間、ポケットから「軍人勅諭」の小冊子を取り出し、その暗記に努めた。日の出が近づくとともに、読んでいるページの文字が、赤くなったり、緑になったりした。明るさの激しい変化に対する目の反応のせいだっただろう。旗山の国旗掲揚台の竿と並んで輝く太陽を目にしたとき、軍国主義教育を受けつつあった頭で、それをまさに「躍進日本の勇姿」を象徴する光景と思ったのだった。その何カ月かあとに「玉音放送」を聞き、そのイメージがしぼむことなどまったく予想しないで。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
しゅりんく 06/10/2005
はじめまして。新着で「異常に多いアクセス」(Ted 後日の注:この記事は復元の際に省略した)を見つけてこちらに来て、記事を幾つか見させていただきましたが、大変感銘を受けました。いつか、自分もこのようなブログを書けるほど成長できればと思います。
Ted 06/10/2005
年齢を重ねた分だけ、若い方がたにもご参考になるようなことを書かなければと思って、頑張っています。時どきコメントをいただければ幸いです。
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