高校時代の交換日記から
(Ted)
(続)1952年8月25日(月)晴れ
伯母にこうも、ぺしゃんこにされるとは思わなかった。漢文の宿題を見て貰ったのだ。伯母は中国の方ぼうを実際に見て来ているから、その経験を生かし、相当な地理と国語の蘊蓄をここぞとばかりに傾けて、ぼくには一言もいわさないで(ときどき「先生はどう解釈しなさったの?」とは聞いたが)、細いが聞きよい声で、とうとうと説明した。
雲乳色の白帝城 朝(あした)いとまを告げ出でて …
とぼくが訳したのは、伯母によれば次の通り。
五彩の雲たなびける晨 暇を告げて白帝城を辞す
三峡の険を下れば 右岸左岸にましらの声を聞く
そのいまだやまざるうちに 我が舟ははや幾山々をよぎりたり [1]
これは、まだ驚く程でもなかったが、
はるばるたどる山みちは 石多くして斜めなり
とした「山行」の詩の起句に対して、伯母は、
喘ぎ喘ぎのぼる山径は ともすれば石にまろぶ
という範を示し、
そよ風吹きて水晶の すだれかすかに動きなば
とした「山亭の夏日」の転句には
微風至れば水晶の簾 和する如くに揺れて
という訳を与えた。伯母の文学性豊かな訳を参考に、もう一度作り直さねばならない。
序でながら、ぼくが「科学的な考え方をする心」を最初に教えて貰ったのは、学校の先生や父母からではなく、この伯母からだったということができる。それは、小学校3年生で大連へ移り、祖父母や伯母の家族と一緒に住むようになった頃のことだった。
引用時の注
李白の次のような詩、「早(つと)に白帝城を発す」を易しく意訳したのであろう。日記には承句の訳を写し落としたようである。
朝に辞す 白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日にして還る
両岸の猿声 啼いて住(とど)まらず
軽舟 已に過ぐ 万重の山
[荘 魯迅『漢詩 珠玉の五十首』(大修館書店、2003)による]
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
四方館 06/06/2005
ああ、この伯母様はたいしたものですね。具象的にきっかりと押さえていらっしゃる解ですね。こういう方が身近におられた Ted さんの幼少年期が羨ましい。大連では同居もされていたのだから、ご自身仰るように、影響を受けない訳はないですね。
Ted 06/06/2005
伯母(母の姉)は身体が弱かったですが、その分、他の人より読書を多くしたのでしょうか。母と私の間で、「文学少女」とあだ名していました。
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