2005年6月5日日曜日

伯母に漢詩和訳を習う



 写真は2005年6月2、3日、旧金沢市立石引小学校同級会の行われた金沢犀川峡温泉「滝亭」脇を流れる犀川(3日朝撮影)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

(続)1952年8月25日(月)晴れ

 伯母にこうも、ぺしゃんこにされるとは思わなかった。漢文の宿題を見て貰ったのだ。伯母は中国の方ぼうを実際に見て来ているから、その経験を生かし、相当な地理と国語の蘊蓄をここぞとばかりに傾けて、ぼくには一言もいわさないで(ときどき「先生はどう解釈しなさったの?」とは聞いたが)、細いが聞きよい声で、とうとうと説明した。

 雲乳色の白帝城 朝(あした)いとまを告げ出でて …

とぼくが訳したのは、伯母によれば次の通り。

 五彩の雲たなびける晨 暇を告げて白帝城を辞す
 三峡の険を下れば 右岸左岸にましらの声を聞く
 そのいまだやまざるうちに 我が舟ははや幾山々をよぎりたり [1]

これは、まだ驚く程でもなかったが、

 はるばるたどる山みちは 石多くして斜めなり

とした「山行」の詩の起句に対して、伯母は、

 喘ぎ喘ぎのぼる山径は ともすれば石にまろぶ

という範を示し、

 そよ風吹きて水晶の すだれかすかに動きなば

とした「山亭の夏日」の転句には

 微風至れば水晶の簾 和する如くに揺れて

という訳を与えた。伯母の文学性豊かな訳を参考に、もう一度作り直さねばならない。

 序でながら、ぼくが「科学的な考え方をする心」を最初に教えて貰ったのは、学校の先生や父母からではなく、この伯母からだったということができる。それは、小学校3年生で大連へ移り、祖父母や伯母の家族と一緒に住むようになった頃のことだった。

 引用時の注

  1. 李白の次のような詩、「早(つと)に白帝城を発す」を易しく意訳したのであろう。日記には承句の訳を写し落としたようである。
      朝に辞す 白帝 彩雲の間
      千里の江陵 一日にして還る
      両岸の猿声 啼いて住(とど)まらず
      軽舟 已に過ぐ 万重の山
       [荘 魯迅『漢詩 珠玉の五十首』(大修館書店、2003)による]

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 06/06/2005
 ああ、この伯母様はたいしたものですね。具象的にきっかりと押さえていらっしゃる解ですね。こういう方が身近におられた Ted さんの幼少年期が羨ましい。大連では同居もされていたのだから、ご自身仰るように、影響を受けない訳はないですね。

Ted 06/06/2005
 伯母(母の姉)は身体が弱かったですが、その分、他の人より読書を多くしたのでしょうか。母と私の間で、「文学少女」とあだ名していました。

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