2005年6月26日日曜日

ハイビスカス / 漆黒の瞳…


ハイビスカス

 写真は、わが家の植木鉢に咲いたハイビスカスの花(2005年6月22日写す)。もう一鉢あったのだが、2、3年前に、大きくなったので地面にじか植えしようとして、枯らしてしまった。

漆黒の瞳…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月16日(火)曇り

 君が生徒会会計の役をうまく果たしているのに、ぼくは自分の役目に何と熱が入らないのだろう。新聞製作の仕事が、あまりにも印形押しと変わらないように思えてならない。ぼくの心のどこかには、その革新を欲する感情があるのだ。それなのに、その感情はあらゆるものから圧迫を受けている。まず、自分の意志が圧迫している。
 校歌作成委員会も何もあったものじゃない。作詞はもう出来ていて、作曲ももうすぐになって、開校記念祭に発表されるそうだ。これをトップ記事にと、I・T 先生が。

 「『漆黒の瞳…濡れた真珠。やゝ上をむいた鼻。しっかり結んでいるときには、おつにとりすました唇。それがわずかに開かれた時の限りない魅力。微笑。』今年の進学適性検査・乙の[9]の問題文の抜粋だ。こういうものが君の前に現れたとき、君はどう感じるかね。このほか、問題文には『が、声は聞きづらく』とあるが、それを『樋口一葉の作品の朗読に最もふさわしいと思われるような、柔らかく響く品格のある声』と変えて想像し給え。」
 もしも、「夏空に輝く星」のテーマが君の思ったようなものだったら、稔は敏夫との通信帳に、上のようなことを書いただろう。そして、実際にそういうテーマだったら、稔や敏夫はどのような考察をしただろうか。彼らの生みの親は、その解答にちょっと迷う。それは、身をもってする芸術であるとするか、『こころ』(まだ、読み終わっていない)の中で「先生」がいった言葉は真実であるとするか。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/26/2005
 新聞製作は面白い仕事だと思いますね。社会事象をどういう形式・形態にしていくか、広報物の作成は、まずもって煩雑な手作業に追われる部分が多いのですが、意義が大きいですからね。いまはさしずめ、ネットだとブログや HP のような形式・形態になっているでしょうか。
 校内新聞を革新したいという思いを持ちながら、ご自分の意志じたいがそれを圧迫している、というのはわかる気がします。無責任・無謀に革新はできませんし、先生ご自身にも守りたい傾向があったことでしょうね。
 後半の趣旨が…『こころ』の先生の台詞とはどんなものを指しているでしょうか。「恋とは罪悪でございますよ」ではないですよね…。

Ted 06/26/2005
 私ももちろん、新聞製作が面白いと思ったからこそ新聞部へ入ったのでしたが、仲間を動かすことの下手な自分が編集長になり、また、仲間に文のたつ人物が少なく、予算の制約や、受験勉強を始めたことによる時間の制約などもあって、思うにまかせなかったのです。
 『こころ』の「先生」の言葉は、私も覚えていませんが、「身をもってする芸術」に対置したところを見ると、少なくともある程度は否定的な言葉のようです。この日記を振り返って、『こころ』をまた読んでみたいと思わされました。

Ted 06/30/2005
 昨日から『こころ』を再読し、この日の日記を書いたときに頭にあった「先生」の言葉が分かりました。Y さんの書かれた通りでした! 第十二章の終りで「先生」は「私」に、こう言っています。「然し……然し君、恋は罪悪ですよ。解ってゐますか」

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