2011年7月28日木曜日

2011年6月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on the Posts of June 2011)

[In Japanese only]

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2011年6月分への感想を2011年7月24日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。




1. 原発計画に関する湯川博士の言葉(1~3)

 「京大サイクロトン破壊の論文別刷り礼状」という記事に、「福島原発の事故については、私も専門が近いことでもあり、インターネットで海外の論評などを読むなどして、大いに気にして来ました。湯川先生が原子力委員を辞任された昔から、国の原子力政策が間違っていたことに気づき、ブログに書いたりしています」と執筆の動機が述べられています。その言葉の時代的背景が補足説明され、言葉に共感した筆者自身の見解が切々と述べられており、よくまとまっていると思います。原発に関する言葉のみを以下にまとめて紹介します。

 (1) 動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない。
 (2) 研究が発展し、応用の範囲が広くなるにしたがって本来の目的以外に、人間生活に思いがけない大きな影響を及ぼすことにもなるのである。科学の応用が人類に感謝される成果を生みだすか、あるいは反対に人類の恐怖の対象となるか、科学の本街道からの分れ道が天国への道になるか地獄への道になるか、科学者としてまた人間として、私は何度も反省をくりかえしているのである。
 (3) 急がばまわれ……つぎの段階というのは、わが国の研究者、技術者の創意や自主性がもっと発揮される段階である。そのためには少なくとも国産炉の設計、製作とか、処理方法の確立とかいうステップを通る必要がある。原子力発電の問題を無期限に机上のプランとして残しておくのが、もはや許されないことは明らかである。このような情勢の急変が今後も予想されるが故になおさら、発電炉に関してはあわててはいけないと思う。しかも苗を育てる下地を作っている最中に、いきなり大きな切り花を買ってくるという話ではなおさら困る。

 筆者が自らの記事「原発計画に関する湯川博士の言葉」について、「湯川秀樹を研究する市民の会」のメンバー宛グループメールで知らせておいたところ、このほどメンバーの一人から、湯川が原子力について書いた詩を紹介する返信が届いたそうです。「その詩は、人間の誕生以前から原子のあったことから語り始め、人間が原子を知り、それが電子と原子核に分割できることを知り、原子核も破壊されることを知り、原子力を手に入れるにいたったことを述べる。そして、次の忠告的な一節が来る」と7月20日付けのブログ「湯川博士が詩に託した原子力への思い」に述べられています。「忠告的な一節」の末部には次の言葉があります。

原子を征服できたと安心してはならない
人間同志の和解が大切だ
人間自身の向上が必要だ。


2. 国の政策と自主・民主・公開の原則

[…]近くの棚にかつて読んだ武谷三男編『原子力発電』(岩波新書、1976)を見つけ、パラパラと眺めると、次の箇所が目に入った。「現在の日本の原子力行政を最も毒しているのは、原子力基本法に盛り込まれた三原則の存在にかかわらず、「公開」の原則を無視した極端な秘密主義である。それが、原子力委員会や電力会社の信用を、とりかえしのつかないほどに損なってしまった。[…]基本的に「公開」「民主」「自主」の三原則を忠実にまもる以外に、日本の原子力の将来はなく、住民に納得される道もありえないのである。」

と始まり、筆者は「それから約35年、原子力三原則無視を修正しないまま走り続けた結果が、福島第一原発の過酷事故につながったといえよう。[…]この三原則の重要性は、原子力に限ったことではない。国政のあらゆる分野で自主・民主・公開が尊重されなければ、その政治はいずれ破綻するであろう」と結んでいます。

3. その他

 福島原発関係の記事が、他にも2件あります。「文豪の少年時代の作文」では、大江健三郎が政府の原発対応をユーモラスに諷刺している文を紹介しています。「文学者の原発責任に言及した文芸時評 2」には、6月24日付けニューヨーク・タイムズ紙の、「安全神話」が日本の原発事故の原因になったとの記事が引用されています。その記事が、日本のことをよく調査して書いていることに感心しました。

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