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M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2012年6月分への感想を2012年7月9日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。
1. 『枕草子』初段の一節の解釈
「『図書』誌の最近号に国文学者・大谷雅夫氏が、『枕草子』初段の『秋は夕ぐれ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり』という文中、『夕日のさして山の端いと近うなりたるに』の意味に対する通説に疑問を呈している」ことがテーマであり、次のようにまとめられます。
——通説は「夕日が照って、山の端にぐっと近づいたころ」であり、起源は江戸時代の学者・北村季吟(1625〜1705)の『枕草子春曙抄』によっている。その根拠は月や日が「山の端近くなる」という表現が『更級日記』、『堤中納言物語』、『今昔物語集』などに常套句として存在することにある。大谷氏は「それ以外の解釈があろうとは、私たちの多くは想像だにせず来たのではないだろうか。私自身、次のような異説の存在を知ったのはつい最近のことだ」と述べている。異説は同時代の加藤磐斎(1625〜1674)によるもので、「夕日に照り輝いて山が近くに見える」という解釈である。大谷氏は、異説を支持する以下のような独自の考察を述べている。大江維時撰の漢詩秀句集『千載佳句』(平安中期)中の白居易らの句、また、日本の漢詩人・都良香の句などに、晴れた空の下で、あるいは夕日の頃になると、山が近く見える表現がある。そして、清少納言は漢詩を好んだ「からごころ」の人であった。室町時代の和漢聯句や江戸時代末の『大江戸倭歌集』にも、山が近く見える歌があり、「からごころ」は近世の文学まで脈々と伝えられていた。——
筆者は「大谷氏の意見に賛同するものである」とした上で、次のような付言をしている。
夕日が照って、山の端にぐっと近づくという解釈では、夕日だけが主役で、山は添え物の感じである。夕日は、海であれ山であれ、水平線あるいはその近くにあるものに次第に近づくのが当然の成り行きで、それを述べただけでは特に感興を誘起しない。他方、「夕日に照り輝いて山が近くに見える」と解釈すれば、山の役割が大きくなり、そこに優れた絵画性が生じるといえよう。
この見解は、科学常識的なことは云わずもがなとし、感興を誘起することが大切としている点で、優れた一説だと思います。
2. 映画『ジェーン・エア』
私が『ジェーン・エア』を知ったのは、中学時代に映画のポスターを見たことからであり、本を読んだのは社会人になってから、映画はその後 TV で見ました。映画は何本か作られているので、どのヴァージョンを見たのかは定かでありません。筆者の中学1年生の年に始まるシャーロット・ブロンテによる原作との長い付き合いは、私の場合と比べ大変奥深いものです。映画評の中の「[…]この映画はその[ジェーンがヒースの生い茂る高原をさまよい歩く]場面で始まり、それは筋を追う中で再度示される。ヒースの高原は、私の中ではむしろシャーロット・ブロンテの妹の一人、エミリー・ブロンテの作品『嵐が丘』と強く結びついているのだが…」は、私もそう思います。昨年誕生したばかりの大阪ステーション・シティ・シネマのこと、シャーロット・ブロンテによる原作と筆者の長い付き合い、他紙の評も加味した映画評が簡潔かつ流暢にまとめられていて、興味深く拝見しました。
3. M・Y 君へ:故 Y・A さんのお別れ会のこと
お便り有難うございました。「故 Y・A さんのお別れ会」を「幼友だちが逝く」(2011年2月24日)と併せて読みました。筆者と A さんの関わりは次の通りです。
——大連で敗戦後引き揚げまでの待機の間に出会い、大学生の時、共通の友 K・T さんの家で再会し、それ以来交友を重ね、兄妹のように心おきなく話し合える人となる。2010年9月、たまたま金沢在住の彼女に電話したところ、かなり進行した肺がんを治療するため、翌日入院することを知った。その後連絡がとれず、K・T さんからの返信で、2011年1月10日に亡くなっていたことを知った。死去を知った日、筆者は A さんを偲んで、彼女が大連でよく歌っていた「故郷を離るる歌」を口ずさみながらウォーキングの道を歩いた。この5月に A さんの納骨の儀に参列し、納骨のあとのホテルでの昼食会で A さんの姉君から、A さんは司法試験を受け、成績では合格の通知を受け取りながらも、最終判定では、彼女が学生運動を積極的に行なっていたためブラックリストに載っていたという理由で不合格になったことを聞いた。このことは筆者の心に重くのしかかった。A さんは、これにくじけずに自分の信じる道を歩み、高校の教員となり、石川県高教組の役員として活躍し、晩年には「[憲法]九条の会・石川ネット」の仕事をしていた。筆者は堺で同じく九条の会に関わっており、まさに同志でもあった。——
A さんが独り身のゆえ、死後に連絡が取れなくなっても、友人ネットをたぐり消息を得て A さんを弔うなど、筆者が幼年時代からの友との絆を大切にしているこの優しい物語りに感銘を受けました。
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