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M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2012 年 10 月分への感想を 2012 年 11 月 18 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。
漱石の諷刺小説『吾輩は猫である』に出てくる「首縊(くく)りの力学」を覚えている人は多いだろう。この挿話は、比較的早く全十話中の第三話に出てくる。水島寒月が理学協会で演説する予定の話であり、迷亭が寒月に「吾輩」の住む珍野苦沙弥の家で稽古のために語らせた形で、演説内容が紹介されている。この話の材料となった論文が、サミュエル・ホートンの「力学的、生理学的な観点から見た絞首刑について」である。
と始まるこの随筆を興味深く拝読しました。早速、『吾輩は猫である』全十話中の第三話までを再読してみました。世相を背景にし、本当らしい創作話をして人を煙に巻くことを楽しむ美学者・迷亭先生を介して、漱石と寒月のモデル寺田寅彦との関係を巧みに諷刺しています。漱石の小説は、中学 1 年の国語教科書で「坊ちゃん」、2 年で「吾輩は猫である」、3 年で「二百十日」が取り上げられていました。中学の授業で勉強して、これらの小説の面白さが分かりました。以下に「首縊りの力学」に焦点を当て、関係個所をまとめてみました。
我輩が主人の家に住み着いて初めての元旦(前年に旅順が落ちた)に寒月が来訪し、「一昨夜合奏会をやり、ヴァイオリン三挺とピアノの伴奏でなかなか面白かつた。二人は女性で」というと、主人はその女性について知りたがるが、「なに二人ともさる所の令嬢ですよ、ご存知の方じゃありません」とよそよそしい返事をした。
その四五日後、迷亭と寒月が相次いでやってくる。迷亭が不思議な体験について語る。暮の二十八日に静岡の母から手紙がきた。年寄りが子供をさとす内容がこんこんと書かれ、「お前なんぞは実に幸せ者だ、若い人達は大変な苦労をしてお国のために働いているのに、節季師走でもお正月のように気楽に遊んでいる」と書き、小学校時代の朋友で戦死したり負傷したりした人の名前が列挙してあり、一番しまいに、「私も取る年に候えば初春のお雑煮を祝い候も今度限りかと…」と書かれていた。六尺以上もある長い手紙に十行内外の返事を書き、夜郵便に入れながら散歩に出掛けた。…
暮、戦死、老衰、無常迅速などという奴が頭の中をぐるぐる駆けめぐる。いつの間にか「首懸(くびかけ)の松」の真下にいる。…見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。…主人はまたやられたと思いながら何も言わず空也餅を頬張って口をもごもご云わしている。寒月は「不思議な事で一寸有りそうにも思われませんが、私などは自分で矢張り似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑う気になれません」と、迷亭と同日同刻位に起つたからなおさら不思議という出来事について語る。
その日は向島の知人の家で忘年会兼合奏会があり、十五六人の令嬢や令夫人が集まつて盛会であった。寒月がもう帰ろうかと思っている頃、某博士の夫人から「○○子さんの病気をご承知ですか」と聞かれた。彼も驚いて詳しく様子を聞くと、彼が会った両三日前のその晩から急に発熱して、色々なうわごとを絶え間なく口走る。そのなかに彼の名前が時々出て来る。…「とかくあの婦人が急にそんな病気になったことを考えると、実に飛花落葉の感慨で胸が一杯になって、元気がにわかに滅入つて仕舞いまして、ただ蹌々(そうとう)として蹌々という形で吾妻橋へきかかったのです。…」と不思議な経験話は続く。
その後しばらくして、日曜日上天気の日に例の如く迷亭が案内も乞わず、ずかずかと上ってきて話こむ。途中主人は「じきに帰るから猫でもからかっていて呉れ給え」と風然と出て行く。夫人がお茶をいれにきて主人についての逸話を語る。迷亭に道楽について聞かれ「無闇に読みもしない本ばかり買いましてね。勝手に丸善へ行つちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮には月々のが溜まつて大変困りました」「あんなに本を買つてやたらに詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか云われるんですよ。この間ある文学雑誌を見たら苦沙弥君の評が出ていましたよ…苦沙弥君は月並みではない」と月並の議論になるが、細君は納得し兼ねた風情に見える。
やがて主人も帰り、そこへ寒月が立派なフロック、洗濯し立てのカラーを聳やかして「稽古ですから、遠慮なくご批評を願います」と前置きして、いよいよ本日演説する「首縊りの力学」のおさらいを始める。…演説の続きは、まだなかなか長くあって寒月君は首縊りの生理作用に論及する筈でいたが、迷亭がむやみに風来坊のような珍語を挟むのと、主人が時々遠慮なくあくびをするので、ついにやめて帰つてしまった。
二三日は事も無く過ぎたが、ある日の午後二時頃また迷亭先生は例の如く空々として偶然童子の如く舞い込んで来た。そこへ面識のなかった近所に住む実業家金田氏の夫人が、「娘が付き合っている寒月さんのことを知りたい」と訪ねてきた。主人達はのらりくらりと話をはぐらかしていたが、夫人が某博士の夫人に頼んで寒月さんの気を引いて見たことが誘引となった、忘年会兼演奏会の後の吾妻橋の出来事を話すと、両人は申し合わせた如く「ハヽヽヽ」と笑い崩れ、「あれがお嬢さんですか、こりやいゝ、寒月君はお嬢さんを恋(おも)っているに相違ないね…もう隠したって仕様がないから自白しようじゃないか」と迷亭はいう。「ウフン」と主人は云つたままである。…
「寒月さんは理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているのでございます」「大学院で地球磁気の研究をやっています」「それを勉強すると博士になれますか」「近頃でもその地球の――何かの研究しているんでございましょうか」「二、三日前は首縊りの力学という研究の結果を理学協会で演説しました」「首縊りだなんて、よっぽど変人ですね。そんな首縊りや何かやってたんじゃ、とても博士なんかになれますまいね」「何かお宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「葉書なら沢山あります、ご覧なさい」と三四十枚持ってくる。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ…」。
迷亭先生は「これなら面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「あらいやだ、狸だよ。…」「その文句を読んでご覧なさい」と主人は笑いながらいう。「旧暦の歳の夜(としのよ)、山の狸が園遊会をやって盛んに舞踏します。その歌にいわく、来いさ、としの夜で、御山婦美(おやまふみ)も来まいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃ御座いませんか」と不平のていである。…「これははなはだ失礼をいたしました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と。
見送りにでた両人が席へ帰ると、奥の部屋で細君がこらえ切れなかつたと見えてクツクツと笑う声がきこえる。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあの位になるとなかなかふるつていますなぁ。さあ遠慮はいらぬから、ぞんぶんお笑いなさい」。
ウェスティでのこのグループによる歌声喫茶に私が参加するのは 3 回目である。開会前に私は四つのリクェスト曲を、会場で貸し出される 2 冊の歌集から選んで提出した。「原爆を許すまじ」、「カチューシャ」、「里の秋」、「四季の歌」である。時節柄「里の秋」は採用になったのだったか、…中略…「原爆を許すまじ」が前回に続いて採用にならなかったことは残念に思った。今回は歌集の他に、永六輔・作詞、いずみたく・作曲の「ともだち」(いま、石巻で被災したクミコが歌っている)と岩井俊二・作詞、菅野よう子・作曲の「花は咲く」(NHK の東日本大震災被災地復興応援テーマソング)のプリントが配られていて、参加者一同はこれらの歌も、被災地復興の速やかな達成の願いを込めて歌った。
と書かれています。唱歌を普段から愛唱され、このような道場で合唱を楽しまれることに、健康で若々しく陽気な筆者の一面を感じます。「原爆を許すまじ」は歌い継がれるとよい歌と思いますが、もう過去のものになりましたか。「花は咲く」は NHK 放送で、色々なタレントが次々と各様に歌う場面を放映していますので、私にも馴染み深い歌になりました。
3. 映画『チャイナ・シンドローム』の社会性
さる 10 月 16 日、NHK BS プレミアムで放映された 1979 年のアメリカ映画『チャイナ・シンドローム』を見た。…中略…この映画が公開された 1979 年 3 月 16 日からわずか 12 日後に、ペンシルベニア州のスリスリーマイル島原子力発電所で、映画が予測したかのように、本当の原子力事故が起きた。…中略…
原発事故取材に対するテレビ局上層部からの放映阻止、原子力規制委員会の不十分な調査、炉操作主任の事故原因把握に対する発電所上層部からの隠匿工作、などなど、これらはまさに日本の原子力村の体質をえぐり出している。また、原子炉増設に対する住民の反対集会の中で、原子力発電が使用済み核燃料の処分対策の出来ていない不完全な技術であることが指摘される場面も描かれている。そして、この映画の公開から 32 年マイナス 5 日後に福島第一原子力発電所の事故が発生した。…中略…アカデミー各賞はノミネーションにとどまった。この映画に賞を出すことについて、アメリカの原子力業界に対する遠慮があったのではないだろうか。
なお、原発に関わる問題を扱った映画には、1983 年のアメリカ映画『シルクウッド』(原子力関連企業のカー・マギー社の核燃料製造プラントで行われていた安全規則違反と不正行為をめぐるスキャンダルを含む)もある。…中略…こちらはアカデミー 5 賞を獲得している。
と、映画の広い意味での社会性を指摘しています。原発再稼働や将来のエネルギー計画が問題になっているいま、一見の価値がありそうです。
4. 戦後間もない頃の「商店調べ」、敗戦直後の小6国語教科書
前者は1947 年、小学 6 年の時の社会科の授業活動の一環で、当時はこのように社会に出て調査することが重要視されていました。この調査結果を見ると、当時の町の様子がたいへんよく分析・記述されており、感心ました。新仮名遣いと旧仮名遣いの混乱も敗戦直後の多くの変革の一面を表しています。
後者については、軍国教科書からやっと新しい国語教科書(5 年生のときは、製本された教科書が作られていなかった)ができ、内容も新鮮であり興味深いものであったことが、この記録によっても思い出されます。
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